「早かったね」
リビングに現れた京平は俺の言葉に顰めて答えた。
「綜悟さんと何かあった方が良かった?」
京平が綜悟さんを好きなことは知っている。それがどの程度のものかは京平自身にも測り兼ねているらしい。俺はもう彼らと距離を取っているから、綜悟さんが京平をどう思って相手しているのかは更に分からない。
どう転んでも良くない傾向だ。だから俺は応援しない。
朝来が現れるまでの無二の例外。
あの例外たちは俺たちの存在をいとも容易く吹き消してしまえる。あらゆる拒絶を嘲笑って踏み躙る。
責任までは感じないけれど、その契機が自分だということは憶えている。
「京が望むならね」
紫煙を纏って俺を睨んだ。
京平は、間違えたのだ。
「俺だってあの家は嫌いだよ。吐き気がする」
「綜悟さんは三木の嫡男だろう」
「…分かんねえ」
誰より分かっている癖に。
「進路のこと、いつか言われるよ」
分かって、間違えたのだ。
「覚悟してなきゃ、行かないよ。あんな場所」
ブレザーをハンガーに掛けてから京平は部屋に行った。姿勢悪く歩いきながら廊下に通じている扉を静かに閉めた。
後ろ姿は自己嫌悪しているようにも見える。
夕食は済ませてきたらしいから俺は食器をシンクに運んで汚れを流した。それから丁寧に洗っていく。
冷たい水は心地好い。
「言いそびれたなあ…」
俺の呟きに、しかし思いがけず返答があった。
「何を?」
「ん、いたの?」
「何か言いたそうだったなって思って」
自分のことより俺の心配かよ。
京平は椅子を引いて座った。テーブルに肘を付いて顎を乗せているけれど、視線は緩慢に俺を捉えている。
「今お前にキスしたい」
京平は笑って「いいよ」と答えた。
「脂臭いかも、」
そう言いながらも項を支えて口付けた。軽く触れただけのものだった。
「これくらいじゃ匂いなんてしないだろ」
俺は水を止めてスポンジを握って軽く絞った。目の前では自分が使っただけの少しの食器と調理器具が清潔に水を弾いている。
「そう? 女は嫌がるよ」
「その人が潔癖だったんだろう」
「ああ、まあな。そうかも」
京平はフライパンを受け取ると火にかけた。乾燥したのを見計らって火を止める。
「それが原因で別れたわけ?」
その問いには答えなかった。
俺たちの間に秘密なんて無いから追及する必要もない。
「で、何?」
京平は再び椅子に座ると斜めに居る俺を見る。
「朝来と別れたいんだけど、」
「は?」
「お前、俺の振りして言ってくれない?」
「本気?」
俺は笑った。
「お前にこの手の嘘は言わない」
京平は綜悟さんの話をした時よりもきつく俺を睨んだ。鋭い眼光は、しかし同じ顔をした俺には大した効力を示さないことも分かっているらしく、長くは続かなかった。
「正直、別れたらいいとは思ったけど。でも俺にとっての綜悟さんみたいに、良にとっての例外なのかと思ってた」
全く同じこと、俺も考えた。
「綜悟さんは俺たちを支配できることを知ってる。知っててああ振る舞ってる。けど朝来は何も知らない。知ったら幻滅して必ず厭な顔をする」
朝来に軽蔑されるのは嫌だ。
きっと死にたくなる。
「朝来は俺たちを支配しないよ」
京平が優しく言ったから俺も感情を抑えて息を吐いた。京平が笑ったのは俺が自嘲して口角を引き攣らせたからだ。
端から見たら同じなのだろう。
「父さん今日も帰って来ないね。これで3日目じゃない?」
「……ん、ああ。そうだな」
「朝来は“そういうこと”は何も知らない」
「それは、俺たちしか知らないよ」
「何も知らない人間と理解し合うなんて無理だ。けれど言ったら見捨てられる」
見捨てられるのは嫌だ。
「…まあ、別れるなら言ってやるよ」
京平は俺の傍に立って頭の上に手を乗せた。撫でるでも叩くでもなく。
「あと誰か女貸して」
京平はきょとんとしてからふっと笑った。
「冴とヤってから別れろよ」
「サービスしてくれる女がいい」
「してくれるよ、あいつも」
「させたくねえんだよ」
純愛のような関係になりたかった。
「じゃあ好きなの選べば」
京平はごとりと携帯電話をテーブルに置いた。通話とメールでしか使われない京平の携帯電話は傷一つ無い。
その時に受信したメールに、俺は適当に返信して会う約束を取り付けた。
「この子にする」
京平は「趣味悪いね」と言ったけれど、俺はその子の顔もよく分かっていなかった。それに元々趣味が悪いのは京平の方なのだ。
はあ、と溜め息が出た。
強いて言えば安堵の溜め息だった気がする。
「いつもみたいには言わないけど、まあ適当に別れるから」
「ああ、よろしく」
なるべく曖昧に伝えてくれ。
「冴が泣くとこ見なくていいの?」
泣かないよ、朝来は。
「泣かしたら殺す」
三木の家や父がしたみたいに、俺はお前を殺してしまうと思う。朝来を『冴』と呼ぶお前に嫉妬してしまう俺が、赦すわけがない。
俺は俺たちの為に死ぬ。
お前は俺たちの為に殺す。
けれど俺は俺たちの中に眠る鉄則を裏切ってでも朝来を護ってやりたい。
半ば本気で言った。
京平は真顔でそれを受け流して、今度は脂の臭いのする深い口付けをした。咎めるように深く。