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ノイウェンス ハウゼン/決壊

化学室にいると昔の記憶が蘇る。

扉を2つ抜けた先にある第2化学準備室。マイヤー先生はいつもそこで仕事をしていた。コーヒーを片手に課題を見たり論文を読んだりする先生は当時から嫌いではなかった。怖くないし、痛くしないし。

今もきっとすぐそこにいる。

大きな白衣、清潔なシャツとタイ、長い手足、鋭い目、薄く笑う唇、鮮やかに赤い舌、身体に染み渡る声。

『ノイ、』

「ノイウェンス」

突然かけられた声に振り返るとピノがいた。その姿は僕の背中から入る夕日に染められて芸術的に思えた。

「、何」
「私は覚えていますよ」
「…何を」
「あの時のあれが君だってことにも気付いていました」
「……何?」
「これからマイヤー先生に会うんですか?」

ピノは何かに怒っているようだった。

「いや、別に」

会おうとしていたけれど。

教室を出ようと立ち上がると「ちょっと来て」と呼ばれた。僕が渋っていると手を取って無理に連れて行く。僕の分からないところで僕に怒って僕を連れて行く。

「黙っていてすみません」

その声にさえ怒りを孕ませて。
僕には何に対する謝罪なのか少しも分からない。

「ちょっと…」
「ここで、一度あなたに会ってます」
「え?」
「退学する前、」

ピノが退学する前、化学準備室から一番近いトイレで、僕は。

「よく分からないよ」

トイレの前まで来ると自分の手が震えていることに気付いた。恐怖したのでも驚愕したのでもまして歓喜したのでもない。ただピノを振り払うだけの力が出ないくらい小刻みに震えているのが自分でも分かった。

今度は僕が夕日に照らされる。

「まだあんなことを続けているんですか」
「知らない」
「君はもう子どもじゃない」
「分かってるよ」
「自分で断らないとマイヤー先生はいつまでだって、」
「うるさい!」

どうして彼が怒っているのだろうか。逆光に潜む野生的な眼が僕を捕捉する。

「……」

どうして僕は怒っているのだろうか。

「…、君には関係ない」

責められるべきは誰?

あの頃は一人で堪えるしかなくて誰にも打ち明けずに最低な気持ちを味わった。しかし逃げようと思えばいつでもできたのにそうしなかったのも僕自身。

心の底では先生を受け入れていたのかもしれない。

彼を嫌悪しただけではない真実。

嫌な感情は全て忘れてマイヤー先生と新しい関係を築いていく。そう決めたから先生の腕の中でまた泣いて、そして笑った。都合が悪いから蓋をしたのではなくて必要がないからほんの少し美化しただけだ。

ピノでさえ齎さなかった感情の為に、僕は笑う。

マイヤー先生も僕も悪くない。

「どうしてここで一人で泣いていたんですか?」
「……」
「マイヤー先生はあなたを傷付けたのではありませんか?」
「なんのことか分からない」
「分かってるんですよね?」
「……」
「僕はあなたから服を奪って泣かせたまま置いていったりはしない」

乾いた音が響いた。

自由だった僕の手が彼の頬を叩いた。自由をこんなことの為に行使する自分の矮小さに、かつてのマイヤー先生の理不尽な暴力を思い出して言いようのない悲しさが込み上げる。

「ごめん、」

ピノは握った手をそれでも放さなかった。

「あなたは悪くない。マイヤー先生も悪くない。ただ少し、間違えちゃっただけですよ」
「……」

それが致命的な間違いでも、そう言ってくれる?

「マイヤー先生に、何か嫌なことされていたんじゃありませんか?」
「……」

それを歓迎した瞬間があったとしても、軽蔑しない?

「ノイ、」

『ノイ、』

「せんせ…っ、ごめん、先生、」

その名前が酷く汚れたものでも、また呼んでくれる?

僕を迎えに来てくれるのはマイヤー先生だけだった。殴られても蹴られても優しく撫でてくれたら途端に安心できた。名前を呼んで、閉じ込めて、僕の全てを曝け出しても笑ってくれた。

「怖いこと、ないから。ゆっくり呼吸してごらん?」
「せんせえっ、ごめんなさい、」

でも先生の笑顔は、残忍だった。

「大丈夫ですよ」

僕を包むピノの身体は言葉とは裏腹に乱暴だけれど、その熱はじわじわと染みて確実に伝わってくる。心まで容易に解かす哀切なその温度は、少しもぶれずに人に届く。

卑怯でも残忍でもない体温。

「ごめんなさい、死ぬから、許して、」

生きる価値のない僕が煩わしてごめんなさい。迷惑ばかりでごめんなさい。我が儘に無駄に生きてごめんなさい。

ピノには知られたくなかった。

「大丈夫。また一緒に授業を受けられるよ。いまノイが頑張ってくれてるの分かるから俺も嬉しい」

下品で劣等で貧しい僕の本性。

「ごめん。ごめん、ピノ…」

胸が締め付けられたら痛い。鮮烈に蘇る言葉は凶器だ。繰り返される行為に僕は何を思った?

この感情はなんだ。

この感情はなんだ。

「ノイ、大丈夫。つらいね、でも大丈夫だよ」

白衣、タイ、長い手足、鋭い目、笑う唇、舌、声。それらが僕に何をしたのか、きっと永遠に忘れたりしない。蘇って苦しめて、僕は吐く。

「放して、吐き気がっ」

個室の便器に流れ出たものは臭くて汚い。それがさっきまでは僕の体内にあった。

直ぐに流して口を漱いだ。

「大丈夫?」
「ごめん、急に」
「俺はいいよ。お前大丈夫なの? 風邪?」
「…ごめん、汚いから、」

ピノを避けても彼は離れてくれなかった。

嗤わない。卑しめない。汚い僕を見下しもせず雑菌だらけの雑巾を押し付けもせず、只管不安気に僕を見る。

「服の替えあるか? 汚れたの襟と袖のところだけだから、洗えばちゃんと綺麗になるよ」

違う。

「違う、ごめん、」
「大丈夫。人に言ったりしねえから」
「違う。みんな知ってるよ」
「は?」
「僕が毎日吐いてるの、みんな知ってるんだ…」
「……」

醜い僕を見てくれるのはマイヤー先生だけ?

「ごめん…」

そうやってまた抱き締めてくれるから、僕は分からなくなる。

「大丈夫。そんなの一生続かないから」

決して僕の行為を否定しないで、けれどゆったり安心させるように、医師もジョシュもしなかったやり方で受け入れた。

「…、ごめんっ」

僕は泣いた。

本当は分かっていたんだ。マイヤー先生の行為を少しだけ喜んだことのある自分を。吐き気なんてないのに無理に喉に手を突っ込んで嘔吐している自分を。食べたくて仕方ないのに拒食する自分を。作り笑いで好きだと言って先生に取り入ろうとする自分を。

毎日助けを求めてた。

毎日、毎晩、毎朝、毎秒。

この感情は何?

「ほら、大丈夫だったろ?」

僕は泣いた。排水溝に涙も鼻水も吸い込まれていった。いつの間にか真っ暗な世界にこのトイレだけが清潔に明るくて、あの頃に感じていた薄暗さなんてピノ一人の存在で打ち消せるのだと知った。

京平

教室を出ようとしたら女とぶつかった。互いに全くの不注意だったのでそれなりに強かに衝突した。

「おー、悪い」

しかしその表情にも背丈にも髪型にも身に覚えがあった。腕章を除けば。

立ち去ろうとしたが制止される。

「待ちなさい」

凛と響いた声は普段のそれとは、少なくとも保健室で聞いたあの時のものとは全く違った。教室の異様な状況を敏感に悟ったらしい。

「それ、ホンモノ?」

風紀委員と書かれた腕章を指差した。

彼女は冗談めかした俺を睨み、それには答えず「生徒手帳を出してください」と言った。

「ここで少しお待ちください」

そして瀬住を立たせて廊下へ連れ出した。この状況の説明をさせるのだろう。頭からすぶ濡れの瀬住の肩を支えながら、なお俺たちを牽制するのも忘れずに。

「お前ツイてねえな。つうか風紀の知り合いだったんじゃなかったか?」
「さーね」
「俺は停学も覚悟だからいいけどな」

運悪くここに居合わせただけの男は笑って言った。

「俺はね、今まで何しても停学になったことはねえんだわ」

その言葉はどうとでも解釈できるのだろうが、その不敵な笑みは只管ただその男の自信と強運を表していた。俺はなんとなく、その男が誰であるのかに気付かされた。

「お前、留学してた?」
「うん」
「図書委員長やってる?」
「うん」
「…良平が世話になってるな」
「いえ、こちらこそ」

あの、木之下の。

「本当に年下なのかよ。その態度で」
「すみません」

悪いとも思っていない笑顔で。

「俺は京平。良平と間違えたんだろ?」
「うん」
「堂々としやがって…」

この男は太宰だ。

慶明を捨てる前の太宰を覚えている人間は少ない。舞い戻った頃には弱点も欠点もない完全無欠の変人になっていてそれまでの記憶が掻き消されたと言ってもいい。

「あの風紀委員と知り合い?」

太宰は唐突に尋ねた。

「なんで」
「動揺してたじゃん」
「お前と同じだろ。あの子も良平と間違えたんじゃねえの」
「違うよ」
「何が」
「京平さんが、動揺してた」
「ハァ?」

そして笑う。

「浮気は良くないねー」

太宰はモテるわけではないのにひどく人気がある。行動が唐突で普通じゃないから彼氏にはしたくない、というのが女子の一致した見解らしいが、一部には信奉する連中もいる。

俺に言わせれば、敵にしたくないだけだ。

太宰はなんでも分かった顔で笑う。

「知らねえけど、お前の方が余程あの女と知り合いみたいだったけどな」
「まあ、知り合いだからね」

その言葉と同時にドアが開いた。

「……今回のことは、報告しないから」

声の調子が前に会った時のようなものに変わっていた。2冊の生徒手帳を手にしていて、瀬住は先に帰ったのかいなくなっている。

「ラッキー」
「これ、ありがとうございました」
「ああどーも」
「お前ら仲良いんだな」

嫉妬したわけではないけれど。

「浮気はしないんだろ?」
「……」

にたりと嫌らしく笑う太宰を無視して机に座って前にある椅子に足を掛けると花岡さんが言った。

「仲良くないですよ」

不貞腐れたような声だった。

「やっぱり知り合いだったんじゃん」

昨日さつきと別れていたら偶然のチャンスを利用して花岡さんを落とそうとしていただろうか。それ程彼女に興味を持っているだろうか。さつきの一方的な忍耐によって続いている関係を絶ってまでして手に入れる価値はあるだろうか。

きっと、違う。

「どうでもいい。俺は帰る」

特別な存在とは良平にとっての冴であるように俺が良平よりもその味方でありたいと思えなければいけない筈だ。

今はそうは思えない。

俺は俺自身よりも良平に味方する。

女遊びの延長に花岡さんはいない。さつきと花岡さんは違う。それなら彼女には興味がないということだ。

その意味をよく考えることもなく俺は教室を出て行った。

廊下は静かに俺を拒絶した。

レルム

部屋に入るとクロスが難しい顔をして座っていた。

「もういいのか?」

やや顔を上げて言う。

秩序立って並べられた文字が敷き詰められたたくさんのレポート用紙を前にしてベッドの上で立てた片膝に頭を乗せている様子は疲れて見える。

「暗号、どうなったんですか?」

横から覗き見ると作業は一通り終えてあるらしい。

「これはもう大丈夫」
「よかったですね」
「ああ。でもまた別の暗号も解読しないと」
「楽しみですね」
「……」

クロスはゆっくりレポート用紙の上に倒れ伏した。紙が音を立てるのも構わない。そして腕を枕にして横を向いた彼の目が僕を見た。

「先生はクルトさんを知っていたんですか?」

目が伏せられる。

「彼と何を話した?」

その声は溜め息のように掠れて疲労感が滲んでいた。髪にも肌にも艶があってそうは見えないけれど、その動作を見るとやはり疲れているのかもしれない。

僕はそのまま眠っていきそうな彼の邪魔にならないように静かに話す。

「クルトさんのことを、少し」
「…ああ、そう」
「寝てないんですか」
「…で、なんだって…?」
「寝てないんですかって、」
「そうじゃない。クルトを、なんて言ってたんだ」
「すみません。以前ここに長期滞在していて、それなりに仲も良かったみたいです」
「……」
「2人がまた、会えたらいいんですけど…」
「……」

クロスは反応しなかった。

「先生…?」

寝ているらしい。寝息もなくて死んでいるようにも見える彼の、唯一背中が上下に揺れるのを僕はしばらく眺めた。

この人は生きている。

「……」

毛布をかけても無反応だけれど呼吸だけは確かにしていてそれだけでひどく安心できる。

僕が目を瞑る時、彼も同じように僕の死を恐れるのだろうか。それがただの一時停止だとしてもメンテナンスのために僕を殺すことを躊躇うことはあるのだろうか。

或は何も感じないのだろうか。

「先生、」

僕は、生きてみたかった。

クロスの髪に、そして後頭部から首、背中に触れていく。生きている人間の温度ある身体に触れていく。柔らかい肌。揺れる背中。

「止めろ!」

びくりと震えたクロスが勢いをつけて僕の腕を払った。その目が強く僕を睨んだから怖かった。

「すみません。ただ、」
「いや、すまない。君か。レルムか」
「はい。すみません」

クロスは困ったように笑った。何かを隠すようにごまかして笑った。

「これ、君が?」

毛布を触りながら言う。

「少し寝ていましたので」
「そう。…ありがとう」
「いいえ」

クロスは身体を起こした。レポート用紙がかさかさと音を立てたけれど不快ではなかった。

「クルトね。連絡取ってみようか」
「取れるんですか!?」
「さあ、分からないけど、今はまともな仕事の方も安全で高い報酬をくれるからね」

パソコンを起動すると色々と作業を始めた。毛布は肩にかかったままで、ひっそりとした雰囲気が彼自身の存在そのものまで消えてしまいそうだった。

「先生、」

あなたより先には死なない。

横に腰を下ろすとベッドが軋む。名前とこの重みが存在証明で、あとはみんな僕を否定する。

「君は休みなさい」

僕はそれを聞いて、眠った。

シバ

暗号が一つ解けた。

もっと言えば暗号の仕組みそのものについて知ることができた。

慣れない数式なので紙に書いて確かめたが、方法自体にきっと間違いはない。得た数字を手帳に書き写していく。自分でもそうと分かるような細々としてせせこましい字で。

気分はいい。

アンドロイドを造るのにジキルが人の手を借りたという話しは聞いたことがない。IMROやwreckにいた頃の親しい人間に頼んでいたなら俺にも少しは心当たりがある。

回路屋のクルトはIMROにいたEPだ。

人工生命に興味がなかった連中は多い。

IMROの方針に従うまでもなく人工生命の研究に傾向してその成果を惜しみ無く提供していたのは設立後期に入所した一部の研究者で、初期からいる研究者や非公式な手伝いであったEPはジキルのアンドロイドの研究の方が余程好きらしいことには気付いていた。

そのためのwreckだ。

ジキルだってレポートをまとめてスポンサーを得るまでの間にそこで研究していた。

世界的に有名な科学者や技術者でジキルから個人的な依頼を受けるような人間。それも口堅くて金に汚くない人間。

数学者とか、配管工とか。

不自然に示された地名に彼らの足跡があるならそれだけレルムにかけられた謎掛けへの答えに近付ける。

そうして、あれを、迎えに行こう。

太宰

「ちょっと聞いていい?」
「ぁあ?」

俺はガラス越しにちらりと見えた人間を生徒会長だと思ったけれど違ったらしい。きっと兄貴だか弟の方だろう。

突然現れた部外者を胡乱がっている。

「俺は風紀委員長と懇意にしてて風紀を乱す行為を見過ごすことはできねえの」
「は、風紀?」

放課後の多目的教室は風紀検査では格好の餌食となる。尤もらしい理由を付けた自分に自分で感心した。

懇意にしてるよな。一方的に。

一介の風紀委員には生徒会長に成り済まして「すぐに出ていく」ぐらいのことを言えば見逃してもらえるのだろうが今の状況ではそれも許されないだろう。

そいつは机に座り、床でずぶ濡れになっている少年を見下ろしていた。

「それは何かのプレイ?」

そして俺の言葉に笑った。

紘平みたいに他人を突き放す為のものではなく、他人を惹き付ける為のその笑顔は意地悪く見える。

「俺に聞いても意味ねえだろ。それは、そいつに聞くべきじゃねえの?」
「うんまあそーかもね」

少年に向けられる兇悪な笑み。

「これって同意だっけ?」

生徒会長に生き写しの癖に中身は丸で違う。人間の性質を遺伝以上に環境が左右するというのならこいつらは別々に暮らし、或は少なくとも全く別人として扱われてきたに違いない。

少年は兇悪に細められた目を一途に見上げて何も答えなかった。

「あんた姑息って言われねえ?」

机から腰を上げて俺と向き合った姿は流石に双子、顔も身体も瓜二つだ。しかし会長に比べると圧倒的に悪意に満ちた表情や言葉遣いはそれはそれで一部にコアなファンも生みそうだ。

「ははっ、イイとこ邪魔してその言い草かよ」
「もしプレイなら、なあ?」
「俺に聞くなって」

そしてすれ違い様に「あと、年上は敬うもんだろ」と告げられた。

「年寄りは労ってやるよ」

俺の言葉を鼻で笑う。

「年寄り扱いされてなくて嬉しいね」

俺もその言葉を鼻で笑った。

森田

あれからクラスメイトは何も言わなくなった。何もしなくなった。

僕の孤立には先生も他のクラスの人も気付いていたようだったけれど、あれからまた雰囲気ががらりと変わったことも尾鰭の付いた噂と一緒に広まっているらしい。

昼休みもこうして本ばかり読んでいる。

「お前森田っしょ。コレ」
「へ?」

突然その知らない人に渡されたのはメモだった。ルーズリーフの切れ端。綺麗で大人っぽい字で呼び出しの言葉が並べてある。

「誰から…?」
「さーね。みんなお前と話すの嫌がるんだよ。何、いじめ?」
「…いえ、」

明け透けな物言いに返答に困った。

はいと答えたらどうするというのだろうか。同情でもするのだろうか。

「俺5組にいるからいつでも来いよ」

え?

彼を見ると歯を見せて笑ってくれた。変なことを考えた自分が恥ずかしくなる。

「……あ、りがと」

真井先輩は学年が違うから仲良くなるだけ自分が孤立することも分かっていた。僕が真井先輩に助けを求めたわけじゃなくても周りはそうは思わない。

目の前で笑う遠慮のない人間に、だから本当に救われる思いがした。新しいクラスから連れ出してくれるなら。

「俺吉田ね。よろしくー」

吉田くんは人懐っこく笑う。

「あ、よろしく…」
「ねね! それ今じゃなきゃダメなわけ?」
「へ?」
「ソレ」

指差されたのは本だ。

「いや、ただの時間つぶし…」
「じゃあ来いよ!」
「え…?」

吉田くんは机を数回叩くともう廊下へ向かっていた。慌てて立ち上がる僕を振り返ると急かしてくる。

時々覗く八重歯が羨ましいと思った。

廊下には吉田くんの友達らしい人が3人いて僕を怪訝な目で見ている。金髪だったりピアスしていたりで制服の着崩し方も顔も恐そうな人たちだ。

不良、みたいな。

急に居心地が悪くなった僕には気付いていないだろう吉田くんが簡単に紹介してくれた。

「コレ森田。あれ、お前って森田だよな?」
「…う、ん」
「なんか2組の奴らノリ悪いらしくてさー。ヒマな時は俺んとこ来いって言ってあるから!」
「…ごめん」

吉田くんは僕の謝罪が面白かったらしく「謝るとこじゃねーし!」と大笑いした。

「拉致ってきたんじゃないだろうなあ…」

背が高くて金髪の人が呟いた。迷惑そうな顔をしていてまた申し訳なくなる。

「2組ってあの京平先輩のクラス?」
「……」

小さく頷くしかない。

「何ソレ!?」
「え、お前知らねえの? 京平先輩がシメるクラスって2組だろ」
「何ソレ、シメる!?」
「……パス」
「教えろよ!」

バイクの話しをしていた2人の肩を叩くと金髪の人は俺を見据えた。こめかみの生え際に髪が生えていない傷跡が見えて僕はますます怖くなる。

吉田くんと残り2人はあの日のことについて盛り上がっている。

「お前、吉田に付き纏われてんの?」
「へ!?」
「あいつ頭は悪くねえのに勘違い激しいから、悪い時ははっきり言わないと天国まで連れ回されるぜ?」
「……」

天国まで。

確かに彼なら。

付き纏いたいと思ったのは僕の方で、吉田くんに僕はとても感謝していて、迷惑だとか悪いとか吉田くんが思うことはあっても僕はそんなことは全くない。

そう弁明したかったけれどクラスで孤立している自分のことも言わなければいけないのかと思うと話せなかった。

「つうか吉田はいいけど俺らが駄目って?」
「あ、ち違います!」

その人はふっと笑った。

ワックスで固められた金髪も大きな身体も僕の力ではとても動かせそうにないけれど、口元は驚くほど容易に揺れた。その笑顔はとても穏やかで見惚れてしまう。口が描くのは綺麗な弧。薄い唇は赤くて映える。

「吉田は山岡と岩尾のものだから、いつもは京平先輩以外に懐くとハズそうとすんだけど、お前なら大丈夫かもな」

目が合うとドキドキした。

その言葉の意味は理解し難かったけれど、大丈夫と言ってくれたから僕は安心した。

教室に着くと吉田くんたちはさらにはしゃいでいて、その内容が真井先輩のことらしくて僕は不安になる。みんな真井先輩と親しいような言い回しをしている。

「あの、」
「ん?」
「真井京平先輩と、仲が良いんですか…?」
「…まあな。タイプ違うからそんなに関わりないけど、吉田が先輩のこと好きだから」
「……」
「大丈夫だよ。先輩イイ人だから」
「…は、い」

イイ人だから、何?

例えば僕のせいで真井先輩が濡れ雑巾を頭から被ったと知っても、こうして笑いかけてくれるのだろうか。

「ま、あの人も気分屋でサドだから。なんかされたの?」
「…ままさか!」
「まさかって…」
「……」

またふっと笑った。

「名前見たけど森田なんていなかったし、お前が先輩にシメられることはねえから安心しとけ」

安心するよ。

新しいクラスになってから1年の時に仲良くしていた人にわざわざ会いにいくのは気が引けて、でも今のクラスのどこにも居場所はなかった。どうしてうまくいかないのか考えもしたけれど分からなかった。

自分が悪いって思うしかないじゃないか。

どんどん浮いていくのは怖かった。

悲しかった。

吉田くんたちと話すのが今日だけだとしても、これから先この優しく笑う不良の名前を知ることがないとしても、普通に話して笑えたことは言いようのないくらい嬉しい出来事だった。彼らにはそれは分からないかもしれないけれど、僕は救われた。

安心したよ。

天国に連れてきて貰ったよ。

僕が笑った本当の理由もドキドキしていることも分からなくていい。

ホーン

注意深く警戒しているのにどうしてこうも容易く侵入を許すのか僕には分からない。建物の中には人がいる。鍵も錠も柵もある。見晴らしのよい正面は勿論、裏にも水道橋にも見張りがいる。

目を開けるとベッドの上にルーセンが座っていた。

「おはようございます」
「……」
「挨拶もなし?」

その笑みは不気味に快活だ。

「あなた、どうやって…」

僕の問いかけとも独り言ともつかない呟きにルーセンは笑みを深くする。

前にこうして現れた時よりも彼の態度は紳士的であるように思えた。笑顔は敵意剥き出しのものではないし、言葉遣いや発音が丁寧であの時のような明確な恐怖はまだ感じていない。

「いいですよ、教えて差し上げても。ルカを返していただけるならね」

何か、企んでいるのだろうか。

「……」

僕はそっと枕の下の拳銃を探った。起き上がる動作に紛らわせて、自分では悪くないように思えた。

「死にたいのか」

目が充血してひりひりと痛むまで瞬きもせずに彼を見ていたのにほんの一回の瞬きの後に気付いたら目の前に彼の顔があった。両腕ははっきりと掴まれて動かすどころかそれだけで痛む。

恐怖を思い出した。

痺れる声に脳が働かなくなりそうだ。

健康的に焼けた肌とそれぞれの部位がはっきりとしている顔は精悍で、その顔に睨まれると経験したことのない野性的な鋭さを感じる。食べられるのではないかと、半ば本気で思った。

「……、」
「調教には甘やかしは厳禁だよなあ?」

ルーセンの場合その声だけで飴となってその行動の全てが鞭になる。飴に酔い痴れながら鞭を喜ぶ精神にはなれないからどちらにしても僕には苦痛だ。

「離せ」

力を込めて言ったのに彼はのんびりと部屋を見回した。

「罠でも張れば?」
「……」
「死にたくないなら、必死で守れよ」

耳から入って侵食する。

それは麻薬でも麻酔でもないから痛みは消してくれなかった。木を折っただけのような簡単な音とともに僕の肘は不自然に曲げられて、その痛みに涙が出る。口に噛まされた毛布からは呻き声が漏れて、情けない僕の叫びはそれでもいくらか控え目になった。

…、糞野郎!

僕の罵倒は、けれどやはり毛布に吸収されて彼には届きそうにない。

「……ッ」

死にたくないに決まってる。

僕は道を外れたことは一度もない。子どもの遊び程度のことならば経験はあるけれど、パブロフに来る前も呼ばれた後もそれが外形だけだとしても道を外れたことは一度もない。

14歳まで薬もやらなかった。

どうして彼に付き纏われなければいけないのかは見当も付かない。あんなことがあったから部屋を移動したのになぜまた現れたんだ。どうして僕なんだ。

涙でルーセンの顔はもう見えない。

本当は拳銃の扱いにだって自信はないのに。

「ルカを返せ」

その声の甘さは絶望を誘う。肌が粟立つ。死にたくはないのに楽に殺してもらうことを願ってしまうくらいには、絶望を誘う。

セシカとルーセンの関係も知らないのに。この男がなぜセシカをルカと呼ぶのかも知らないのに。

僕なら拷問されれば話してしまう。

だから甘んじて無知になった。

いつでも犯罪を傍観してきた。そう願った。だからたとえ目玉を刳り貫かれても僕の口から漏れる情報なんて何もない。セシカの居場所など知りようもない。

もう止めろ。

いたぶっても何も出ないんだ。

「…ううぅ、う」

しかしそれを話すことも許されない。

セネカは僕のために僕が無知であることを強要して、少なくとも軽率に話してさっさと殺されることは防いでくれたのかもしれない。

けれど僕は弱いから今ある苦痛に恐怖する。

「人を殴ったこともないだろう?」
「……」
「綺麗な手」
「……」

折れた腕はベッドに投げ出され、ルーセンはもう片方の腕を持っている。

また、…止めろよ。

もう嫌だ。

「何か話す気になった?」
「……」

涙で視界が悪くて彼の表情もその挙動もはっきりとは見えないけれど彼から伝わる怒りとも苛立ちとも違うらしい感情に僕の身体は震えた。彼がもし心変わりして僕を解放して立ち去ったとしてもきっと床を這う力も出ないだろう。

彼は僕の爪を剥いだ。

「おやすみ」

そうか、これは狂喜だ。

鼻と口が塞がれ、痛みと苦しさでルーセンを突き飛ばしたかったのに身体は少し跳ねただけだった。

恭博

懐かしい拘束具の感覚にすぐにそれと分かった。

拘束具は歴史上でただ一人しかいないルーミアの適格者がお遊びで造ったらしい。絶対契約の適格者よりも絶対領域の適格者よりも圧倒的に世界を支配していた一人の少女が自分を隔離するために原子レベルで精錬したもの。

今は一部の金持ちと政府が占有していてその存在すらあまり公には知らされない。

「どうしたの」

薄汚れた子どもが持つものではない。

「…ねえ、ご飯おごってくれない?」
「は?」
「俺に同情したんでしょ。なんか食わせてよ」

ほんの1メートル先に見え隠れする拘束具に貧血に似た眩暈を感じながら、それを所持する当の本人はけろりとしている。

「腹減ってんの?」

その子どもは少しの間を開けてから、「当たり前じゃん」と言った。

「じゃあ俺ここで待ってるからさ、気が変わらなかったら何か持ってきてよ」
「付いて来ないの?」
「こんな格好のガキ連れて歩きたくないでしょ」

遠慮だとか容姿の身奇麗さだとかはいくらかでも躾られた人間の言うことだった。子どもは何か理由があって家出でもしているのかもしれない。

そうじゃない人間ばかり相手にしてきたから知っている。

「お前、家出?」
「…なんで?」
「いつからこんな生活してんの」
「いーじゃん、そんなこと」
「1つ質問に答えたら1食おごってやるよ」

その子どもは顰めると急に立ち上がった。

「あんたロリコン?」

俺はまだ16歳だ。見た目は。

しかしそれは心の中に留めておいて、立ち去ろうとするその子どもにそれらしく「お前男だろ!」と注意した。

「てかロリコンじゃねぇよ!」
「へー」

子どもは気の無い返事をしたけれど立ち止まりもこちらを見もしない。

「結婚歴もあっから!」
「へー」

これでも疑いは晴れないのかと自分がそっち側に見えるらしいことに落ち込みかけたけれど時間差で「え?」と今度は振り向いてくれた。

「お前能力者だろ」
「……」
「俺もだから。それ、拘束具、どこで付けられた?」

目を見開いて、混乱しているらしい。

「……」

路上生活はそう長くもないのか、今まで能力者に出くわしたことがなかったのだろうか。

「俺もうっかり付けられたことあるから分かんだよ。飯やるから俺んとこ来い。嫌なら好きな時に出てけばいいだろ」
「え。ほんと?」

それは子どもらしい反応だった。

「来る?」
「……行こっ、かなー…」

子どもの態度が急に小さくなった。

今なら上下関係をはっきりさせられそうだと踏んだ俺は幾分か胸を張った。顔も態度も相手に見くびられない商売用のものにする。

「じゃあ、お前、はっきりさせなきゃなんねえことがあるんじゃねえの」

子どもの表情も硬くなる。

「家のことは言わないよ」

落し前の大切さは身に沁みて知っている。

「そんなことはどうでもいい。お前が本当は化け猫でも構わねえけど、お前、さっき、俺のことロリコンだって疑っただろ」
「はあ?」
「これから世話になる人間にそれはねえだろうが」
「いや、あんた結婚してるんでしょ」
「義理を通せって言ってんだよ」
「え、え?」

ここぞとばかりに凄みを利かせる。

「俺が違うって言ってんだ。お前が自分の立場分かってんなら、本音はどうでも俺の顔を立てんのが筋だろうが」

子どもはぽかんとしている。

「……、すみません。どういう意味ですか…?」

もう決まったも同然だ。

「俺は食わしてやるって言ったんだからお前がいらないって言うまでいつまででも家に置いてやる。それが筋だからだ。その俺がロリコンじゃねえって言ったらお前はなんて答えなきゃいけなかったのか、分かんねえのかよ」

子どもは少し考えてから顔を明るくした。

「なんだ、大丈夫。俺は男だし、あんたがロリコンでも気にしない!」

俺はこいつをぶん殴ろうかと思った。

アキ

『真っ当な知り合いは少なくて』

そう言って笑った恭博さんは力無くて、世界にほんの一握りしかいない適格者として裏の社会を生きてきた人には見えなかった。

「ユーリが学院の生活はどうか、気にしてましたよ」

エトーはこちらを一瞥もしないで言った。手元の紅茶に細心の注意を払っている。「まさか」と笑う俺に入れるために、俺を蔑ろにしている。

「ユーリはまたギャンブルでもやってるんだろう?」
「あの方は、それで生きてますから」

食器の触れ合う上品な音とともに紅茶が差し出された。

「あんたもよく付き合うね」

ユーリは立ったまま俺をしばらく見詰めた。

紅茶は一口飲んでも俺にはインスタントとの違いが分からなかった。俺に合わせて濃く入れてくれたことしか分からない。

ユーリを見るとまだ俺を見ていた。

「……あなたはユーリが嫌いなんですか?」

その目が純粋に、誠実に、余りに彼以外の意見を排除していて、俺は何も言えなかった。エトーはユーリを信奉していてユーリ以外の人は純潔も適格者も同じらしい。

ユーリも俺をそういう意味で特別にしたことはないけれど。

「いいけどさ、」
「はい?」
「あんたらも適格者なら良かったんじゃない?」
「……」

熱い紅茶の湯気が顔を包む。

「一生一緒になれたのに」

エトーは困ったように笑った。恭博さんみたいに、力無く。

「そうですね」

例えば限りある人生だから精一杯生きると言っていたあの人とか、いつか終わるものだから始まりが嬉しいと言っていたあの人とか、彼らが俺の立場と入れ代わったらなんて言うのだろうかと考えたことはある。

適格者になんか、なりたくないか。

紅茶は少し冷めていた。

「いや、あんたらは、今の関係が一番かもな」
「…そんなこともないんですけどね」
「結婚でもすんの?」

笑った俺に、エトーも笑う。

「ユーリがいいって言えばね」

紅茶は心地好い温かさで、口に馴染んだ。

ダリア

訓練を見て武器庫を確認して街へ出て、ああ俺のしたいことはこんなことだったろうかと思いながら昼から酒を煽って、玄人女の誘いに乗って安いホテルに入って柔らかい太股に触れた気持ちの悪さに笑えもせず基地へ戻った。

じっとりと汗ばんでいる。

「やってるか」
「あ、おかえりなさい」

見張りをしていたチャップに声をかけた。暑いのか濡れたタオルを首に当てているが笑った顔は涼しげだ。

「暑いか?」
「大丈夫。もう日が沈むから涼しくなるよ」
「…そうだな」

チャップの湿った襟足は癖が出ている。ふわふわくるくるとしたその髪に憧れたこともあった。

優しい人間に見えたらいい。

「何かあったの?」

見た目が幼いチャップに相談を持ちかけるのはどうも変な気分になる。誰にするにしても俺にとってそれらの行為は気休めでしかないのだけれど。

「それは俺のセリフだろう」
「なんで?」
「……お前、見張ってんだろ」

態とらしく目を丸くして「あ、そっか」などと言うチャップは本当に子どものようだ。

欲情はしないけど。

「聞きたいことはそれだけ?」
「あ?」
「気になってることがあるんじゃないの?」
「……ああ、」
「リュウを見たよ」
「……」
「楽しそうに笑ってた」
「知ってる」

椅子に膝を立てて座っていたチャップは伺うように俺を見た。

「あの子のこと、気に入ってるのかと思ってたけど…」
「……」

「ねえ、ダリア」と、脚を下ろしてチャップは俺と向き合った。その小さい身体と優しげな雰囲気はこの要塞には不釣り合いだ。

リュウは確かにチャップと同じように小さくて細かったがどこか俺たちと同じ空気を纏っていた。身を削って生きてきた人間の目をしていた。繊細な動きの中に野性を感じさせる鋭さがあった。

笑ったところは見たことがない。

「僕はダリアのこと応援しようとも思ってたんだよ」
「応援?」
「節操なしで軽いダリアが、リュウには少し真剣になってるように思えたから」
「…下らねえ」
「大切だったんじゃないの?」
「……」

チャップは目を逸らして手で遊んでいる。

本心なんだろう。

チャップが肉体的な繋がりに良い感情を持っていないことは知っていた。軽いとか手が早いとか直接言われることもあったし態度でそうと分かることも多かった。

「笑ってるから、幸せってこと、ないじゃん」

笑って、言った。

「経験上そう思うのか?」

俺の言葉にチャップは手を止めたけれど答えはしなかった。

「……」

その沈黙は肯定とも否定とも付かないものでチャップ自身で判断しかねるところがあるのかもしれない。

開いた窓からふわりと風が入り込んだ。

「気に入ってたよ」
「……」

大きな目が俺を見詰める。

「たぶんな」
「……、そう」

守ってあげられなくても、笑わせてあげられなくても、少なくともリュウの居場所を提供できる人間でありたかった。荒んだ瞳の奥に宿る強い意思の存在を俺だけが認めてあげられるならそれも現実的なロマンだと思った。

俺は生きることへの欲望を知っている。

例え俺が裏切ってお前を殺してもお前は無感情に死んでいくのだろうけれど、その心の奥底に芽生える切望を俺は知っている。

誰にも言えないその願いを。

「生きて、笑ってるなら、」

『人間はゴミだ。社会はクズだ』

価値のないものが抱いてはいけないものだとしても、叫びたくても絶対に口にできないことだとしても。

『けれどお前は、不幸にも、俺の息子だ』

殺して殺して逃げて殺す。

ああ、俺のしたいことはこんなことだったろうか。

殺して殺して逃げて殺す。

そして生きる。生きることを全うしても余りある人生の時間を共有できる誰かと生きる。世界を赦しても余りある幸福を共有できる誰かと生きる。

「見守るには、ダリアはきっと乱暴すぎるよ」

リュウに会いたい。

「はは。そうか」

会ってお前の全てを肯定してやる。

グレイブン サヨルフ/理性と、希望で

「またサボりですか」

清掃をしていたらジャックがいた。彼は面白くもなさそうにいびつに笑うと手にしていた煙草の火を擦り消す。

「よお」

吸い殻を彼の手から取ってごみ袋に捨てる。

「身体に悪いですよ」
「もう吸わねえよ」
「前にも言ってましたけど」
「そう?」
「……」

どうしてそんな嘘を吐くのか私には分からない。

モップを床に這わせるとジャックが近付いて来た。気怠そうにゆったりと、そして壁に寄り掛かってそのままずるずると座り込む。

「寮長って、真面目だな」
「……当然でしょう」
「どうしてそんなに真面目に生きてられんの」
「……」
「真っ当な人生の終着点って何?」
「……」
「なんで真面目な奴って真面目なの」

ジャックを見ると目が合った。視線だけで殴り付けられたような感触がしてまた床を見た。

「理性と、希望で」

私の答えにジャックは笑った。

全てを無下にするようなその笑い方に不快感を覚える。息と喉だけで作られる渇いた響きのそれはジャックが乱暴をする兆候だということも知っている。

「じゃあ俺には無理だ」

私は清掃を中断した。清掃用具を持ってその場を去ろうとしたけれどジャックに足を掛けられて蹌踉めいてバケツの水を床に零した。

「……」

気にせず進もうとするとジャックが後から付いてきた。

「床、汚したぜ?」
「止めてください」
「いーのかよ、寮長が寮を汚して?」
「後で掃除します」

ジャックに前に回られる。

「イケナイ寮長だなあ」

ただ前に立って行く手を塞がれたことよりも彼が残忍な笑みを浮かべていることの方が余程私の足を竦ませる。関わりたくないけれど、そうも行かないらしい。

「……」

胸倉を掴まれてジャックの息がかかる。

「言うことあるんじゃねえの?」

私は寄宿舎で色んな生徒を見てきた。話すことはほとんどないけれど彼らがどんな風にここで生活しているかはよく分かる。それは私もかつてここで10年以上を過ごしたからだ。

ジャックのことは、分からない。

「手を離しなさい」

私が言い切る前に清掃用具が蹴り倒されて派手な音を立てた。バケツの水は床に撒かれて集めたごみも散らばった。

「他に言い残すことは?」

顎を掴まれ反射的に閉じた目を開くこともできずにこの荒んだ子どもと寮長としてどう正しく接するべきかが頭の中を巡っていた。答えは出てこず自分の未熟さが嫌になる。

「……ないよ」

小野

「沙織」
「……なんですか」

その顔を見ると明白に不機嫌になるらしい私の眉間には確かに今皺が寄せられている。嫌いではないけれど、迷惑だと思う。

「今日、どっか遊びに行こうぜ」
「すみません、用事があって」
「誰と?」

眞木先輩を一瞥すると厭味かと思う程の壮快な笑みを浮かべている。気分の上がり下がりが激しい人なので今はイイ時なのだろう。

「……とにかく、すみません」

まだ声を掛けてくる眞木先輩を残して席を立つと腕を掴まれた。肘の少し上を強く掴まれたので痛いし不快だ。

「待てよ。用事って何? 俺に言えないようなこと?」
「……」

眞木先輩の手を払って教室のドアまで行くと耳元に口を寄せられて囁かれた。

「バスケ部のコーチとか?」

気持ち悪い。

綜悟さんとは最近会ってない。もう別れてしまうのかもしれない。メールもほとんどしない。綜悟さんは社会人で忙しいみたいだしそもそもなんの取り柄もないただの高校生である私には不釣り合いだった。

嫌なことを思い出したじゃないか。

「……」

混乱して本当のことを言いそうになったけれど自分を惨めにするだけだからと留まった。眞木先輩とは無関係である以上に自分が嫌だったから。

「俺は沙織のこと大切にするよ」

眞木先輩は私の頭に手を置いて慰める。

「先輩じゃなくても大切にしてくれます」
「本当?」
「……」
「こんな風に、沙織に触れてくれんの?」

私は眞木先輩の手を叩いた。

一番言われたくないことを一番言われたくない人に言われた。悔しいし悲しいし情けなかった。図星を指されて自棄ででも認められるような段階ではもうなかった。

視界が滲む。

眞木先輩は知っているけど何も知らない。

「……」

教室を出たらちょうどチャイムが鳴って何人かの教師とも擦れ違ったけれど戻るつもりにはなれなかった。使われていない多目的教室に入ると眞木先輩も後から入ってきた。

最悪だ。

「俺の方がいいだろ?」
「……来ない、で、よ…」
「大丈夫。沙織は可愛いから」
「……」
「大丈夫だから、ゆっくり泣けよ」
「……、」

一番言われたかったことを一番言われたくない人に言われた。近くにいて欲しい人は大人だから私が易々と甘えられない場所にいる。どこか遠くで働いている。

私は綜悟さんが好きなのに。

心地いい声でおいでって言ってくれた。形のいい手で私の手を取ってくれた。細くてさらさらの髪は肌に当たるとくすぐったいけど気持ちよかった。長い腕は私を包むのにちょうどよかった。

前はそう思ってた。

今もそう思う。

泣き止むと30分近く経っていた。

「落ち着いた?」
「……」
「おい、大丈夫かよ」
「……」
「沙織?」
「……」
「泣き止んでんだろ?」
「……」
「やっぱ今日どっか行こうぜ」
「……」
「おごってやるよ」
「……」

勝手な人だ。

私は綜悟さんが今でも好きで、どんな状況であれ眞木先輩と仲良くすることはできない。綜悟さんと別れてからだって全く好みとは違う眞木先輩とは付き合えないと思う。

けれど弱っているところを見られ過ぎて今は断れない。

「シカトこくなよ」

肩を引っ張られた。

教室の隅で壁を向いて座り込んでいた私は体勢を崩して背中を壁に打ち付けた。少しも優しそうに見えない眞木先輩の目に見据えられる。

「いたい…」
「遊び行くだろ?」
「……」

顔を下げると眞木先輩の顔が目の前に迫った。

「答えろよ」

私の髪に眞木先輩の息が当たるのが分かる。肩を押し返そうとしたけれど手は簡単に捕まってその動きを封じられてしまう。

「浮気になっちゃう、から」
「から?」
「……」

言葉に詰まった。

「じゃ、これも浮気?」

なんのことかと思って顔を上げると、キスされた。

何、これ。

綜悟さんとキスする時はもっと甘い雰囲気だったこととか最後にキスした時は綜悟さんはすごく疲れて見えたことが思い出された。

顔を逸らして横を見ても今度は耳を舐められてしまう逃れられない状況にまた涙が出る。

最悪だ。

「も、やだ…」
「なんで泣くわけ?」
「……」
「なんで?」
「分かんないよ。先輩が、」
「キスしたから?」
「……」
「俺じゃなくてバスケ部のコーチが原因じゃねえの?」
「……」
「最後にキスしたのいつ?」
「……」
「俺なら今すぐまたキスできんだけど」
「……」

なんで泣いてるんだろう。

何が嫌なんだろう。

眞木先輩が少しも優しくないところとか、無理矢理キスされたこととか、綜悟さんの悪口言われたこととか。

「今日うち来いよ」

断る理由はないように思えた。

頷いた私に笑い掛けると眞木先輩は私の頭を撫でた。それは少しも優しくはなかったけれどここにいない綜悟さんよりは私を想ってしてくれている行為に思えた。

もちろん、後悔することになったけれど。

ルカ

「何か食べたいものはありますか」
「……」
「できる限り、ご用意します」

ほとんど音を立てずに肉を細かく切り分けるクラリッツはその所作まで誰もが美しいと感じるよう予め設計された陶器の置物か何かみたいだ。一緒にいる程に酷く虐げられた記憶ばかりが過ぎるのに彼がどんな顔でそうしていたのかを思い出せないのは、彼が美しくて儚いから。

清潔で可憐な世界がお似合い。

「ベーコン」
「…はい?」

俺の突然の発言にクラリッツは手を止めた。

「安っぽくて塩っぽいベーコンが食べたい。目玉焼きと一緒にな」
「……伝えておきます」
「チョリソーと甘いソーダ。チョコレートのアイス。なんの味か分かんねえゼリービーンズ」
「……」
「トリプルパテのハンバーガー」
「……」
「オニオンリングとオリーブの実とポテトチップス」
「……」

好きでもないのにそう言った。

クラリッツは動揺しながらもきっと優秀な頭脳の中で俺の要望を復唱し漏れなくシェフに伝えてそれを実現させる算段を立てているに違いない。彼らの意思の前では塵芥に過ぎない俺という個人を見てくれる唯一の人間。

「叶えてくれよ」

あの碌でなしの男が神だと言うのなら。

この俺がお前の神だと言うのなら。

お前の願いは全て吐き捨てた。容赦ない加虐に平伏すよりも前からお前だけには特別に優先的にそうだと示してきたのだからそろそろ理解する頃だろう。

願い事を叶えるのは神か?

「……承知致しました」

人間を支配するのは神か?

「ホットドッグもな。マスタード多め」
「はい」
「だったら早く出てけよ」
「……」
「俺のためならなんでもするんだろ?」

クラリッツは静止した。

俺は拘束衣の下から彼の体温を想像する。

滑らかな肌。艶やかな爪。柔らかな髪。穏やかな声。澄んだ目。それら完璧な造形と上質な衣装に隠された冷たくてしめやかな血液。ひくりとも笑わないクラリッツは死んだように、或は初めから生きていなかったように思える。

彼に触れたことはなかったかもしれない。

「…食事はもう宜しいのですか」
「ああ」
「手洗いは」
「いい」

フォークを皿に乗せるとかちりと鳴った。

かち、かち。かちり。

彼の中に灯った炎は青い。それで煮詰められた器には一滴の水分も残されていない。静かに深く自覚する劇甚。

「場所を移動します」

冷たい訳がない。

急激にクラリッツの中に生きた人間の生を感じて俺は笑ってしまった。その不器用さはルーセンとは真逆で可愛いげすらある。

「なんだ。そういうこと」
「お客様をお呼びしております」
「せっかく食べたのに」
「申し訳ありません」

人間を貶めるのは神か?

『幸せになりましょう。一緒に』

罪に課された永遠の罰をこの背中から剥ぎ取ることができるなら、一秒でも、一瞬でも、俺はきっとまた笑う。性懲りもなくまた笑う。

けれどいまは笑えない。

俺は降り掛かる鞭の重みを想像して溜め息を吐いた。

ルキ

彼らの世界を知ったばかりの頃は嫌悪とも嫉妬とも付かない感情で彼らを見ていた。同時に自分には奢侈な物や行為に陶酔もした。

豪奢な世界しか知らないタキはどう思っているのだろうか。差し出されたカクテルを受け取りながらそう思った。

「どうぞ」
「ありがとう」

軽く会釈してそれを手にする。

「ウェイターのお勧めだって」
「綺麗だな」
「ええ。味もね」

少し舐めると思ったより重たい。タキの好きそうな酒だ。香りはそこまで強くないが、こくがあって円やかで口当たりが優しい。

「お前の好きそうな味だ」

タキはにっこり笑った。

「それ、スカウトですか?」
「ああ」

指に挟んでいたビジネスカードを持ち上げる。タキに会う前に渡されたもので、「会社の方はいつでもご案内します」とのことだった。俺が転職を好まないことは知っていると思うので半ばお世辞のようなものだろう。

「パーティー、もっと楽しんでくださいよ」
「楽しいよ」
「あの子に目も合わせてあげてないだろう?」
「……仕事向けのパーティーかと思ってたんだよ」
「今日は女の子が主役の社交パーティーなんだから、ルキももっと彼女たちを立てないと」
「うるせえな」

顰めた俺にタキは笑顔で答えた。

「宜しくお願いしますね」

よろしくされる義理はないのだけれど、それ以上にタキが離れてから寄ってきた女の子たちを振り払う理由はなかった。

ダリア

空調の壊れた食堂はそのまま調理や人の出す温度を保つ。首筋に触れるとまだ汗ばんではいなかったけれど不快な感触はした。

暑いな。

「最近あのガキがまた出歩いてるみたいっすね」

ケントは大量のナイフを机に広げて順に手入れをしている。製造も型も丸で違うナイフは大きくて殺傷力の高いものがほとんどだ。

武器は自分たちで管理する決まりになっている。俺がそう決めた。

「生きてたらしいからな」
「俺なんて何ヶ月も見なかったからもう死んだと思ってました」
「そうだな」
「しかもチーフまで訓練見に来たりして、みんな妙に緊張しちゃってるんすよね〜」

チーフが?

「あの人も裏では色々仕事してるからな」
「あははっ、この基地じゃオモテの仕事なんてないっすけどね」
「……」

悪意なく笑うケントは頭が悪いように思える。苛立っているから余計に。暑いから余計に。思い通りに行かないから余計に。

身体に熱が篭る。

「でも俺、チーフは猟奇的サディストだって話でしたけど、チーフでも笑うんだなぁってちょっと安心しちゃいました」
「は?」
「ガキと楽しそうに、」
「チーフが?」
「そうなんすよ〜」

刃が悪いものを除けながらナイフを拭いていたケントのタオルは濁った血の色に汚れていた。そのタオルは人間と人間の殺し合いを物語っている。

ケントはそのタオルで自分の首筋を拭った。

そして単調に作業を続ける。

おそらくケントはテロリズムも人殺しも悪いことだと思っていないのだろう。額に浮かぶその汗は労働の証であって、その笑顔は社会を動かす勤労に喜んでいる。

俺が殺されても、こいつは笑う。

「……」

ケントの腕に重なる傷痕は同情も悲嘆も誘わない。

リュウも傷だらけだった。美しい身体に不釣り合いな傷痕と鍛えられた筋肉。それは均整のとれた容姿が引き擦り込んだ道かもしれないし、生きるために彼が選んだ道かもしれない。

もしくは俺の仕事が手伝って。

貧弱かと思えば射殺すような眼光を向けるリュウは一度も笑いはしなかった。だから俺たちの生きる世界に彼もいるような気がしていた。

殺して殺して逃げて殺す。

チーフは俺の前では笑わないし、父の前でもそう易々とは笑わなかった。

「チーフの下で働くのって、押さえ付けられてんのかなぁって思ってたんすけど、違ったっす」
「これからも頑張ってくれんのか」
「もちろんですよ〜」

ケントの顔を汗が伝って落ちていく。

俺はまた酷く不快になった。
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