俺は軽率でバカで浅はかだ。だから社会のゴミみたいな連中と人間のクズみたいなことをして生きてきた。それを時には楽しいとさえ思って生きてきた。
だから、俺が悪いんだよな。
「恭博さん。まさかー、喧嘩越しで契約かなんかしたんじゃないですよねー?」
ロスの目の奥がぎらりと光ったように思えて目を反らした。怒られる、と思って。ロスに怒られる、なんておかしな話しだけど。
「あなたは、どうしてそーいう……いえ、すみません。それで、どーするつもりなんですか」
ロスは鋭い目付きを優しくして、尋ねた。
「今日中に、足にキスするだけだし、まあ、これから会って、ヤる積もりだけど」
「恭博さん!!」
ロスが大きな声で怒鳴った。
こんなことは珍しい。それを知らないであろう店内の客でさえ、ざわめきを一瞬にして消してロスを見た。客はみんな面倒事に巻き込まれたくない、という顔をしている。
ロスは周囲からの視線に大袈裟な笑顔と軽い会釈で詫び、小さな溜め息を吐いた。
「騒ぐなよ。つうか、履行しない方がやべぇんだから、俺としてはまあいっかって気にはなってるし」
最初は絶対にあり得ないと思った。
それにロスには言っていないが、キスする時、俺は裸にならなければならない。
でも、それさえ大したことじゃない。
履行しない方が、ずっとヤバい。
以前、契約の能力を甘く見て代償を求められた時は、17年間も監禁されて本当に酷い目に合った。思い出したくはないが、色んなことが体にも脳裏にも焼き付いているし、詰まんない言葉でまとめれば、いい勉強になった。
一時の恥なんか、どうってことねえ。
「恭博さん、あなたの力になりたい」
ロスは意志の強そうな目を真っ直ぐ俺に向けて言った。
こいつが頼りになるように見えるのは、顔がそこそこ男前だからに違いない。中身を知っている俺としては、だから全然頼りにならない顔なんだ。いい加減でちゃらんぽらんな顔だ。
ああ、でも、ちょっとは嬉しい。
「ありがとう」
俺の小さい声で言った言葉がちゃんと届いたらしく、ロスは再び大袈裟に笑った。
「じゃあ思い切って不履行にして、俺はあいつに命令権を与えてみようかな」
「馬鹿言わないでくださいよー」
ロスは爽やかに笑って言った。
けっこうひどい。
ロスが俺に執着していたらしいことは、分かってはいたけど、それがどういう意味なのか理解はしていなかったし聞こうともしなかった。ただストーカーされていただけだ。
ロスが卒業して暫く経てば、俺がロスを思い出すことがあっても、彼が俺を思い出すことはない。
そういう関係だった。
ロスはいつだって作り笑いを浮かべて、上辺だけの睦言を吐き、なんとなく俺をストーカーしていた。そう言えば好きと言われたこともなかった気がする。
あれには好意なんてなかった。
ロスはそういうことがしたかっただけだ。
相手がたまたま俺だっただけ。
「お前もこういう経験あると思ってたけど、ねえんだな」
「ふつー、ないですよー」
「俺はあるよ。これで二回目」
「えー?」
ロスは笑顔のまま首を傾げた。
「まあ、足にキスするくらい、楽しくていいだろ。自分の足を斬り落とせって言われてんじゃねえしな」
俺は声に出して笑った。
頷いて欲しい、と正直思った。
確かにー、って笑ってくれよ。
なあ、ロス。
そうだって言えよ。
こんな屈辱は、本当は、嫌なんだけど、でももし命令されて、もっと下劣な要求をされたら、俺には耐えられないから、だから、こんなことガキの悪ふざけだと思って笑ってやれば、いいんじゃねえのって、そう思うしかねぇだろ。
不安がってた自分がみっともなくて、俺は無理して笑った。
ロスは俺の望みとは裏腹に、その顔に不満を顕わにした。
「恭博さん、結婚しましょーよ」
「しない」
「結婚したら、俺が恭博さんの夫になれば、妻に代わって債務を履行できますよ」
ビックリした。
そういう意味があんのか。
「それに、恭博さんを襲っても強姦にならずに済みますしー。夫婦って響きもいいしー。愛の営み、したいですしー」
実にストーカーらしい理論だ。
「だいたい、もう役所も閉まってるだろ」
契約は今日が履行日だ。
今日じゃなきゃ意味がない。
「じゃあな」
俺はいくらかお金を置いて帰ろうとしたが、筋肉のついたロスの長い腕に阻まれた。それが余りに握力が強くて、俺の右腕は悲鳴を上げた。ロスは笑っている。
痛い痛い、腕が千切れそう。
「俺も行きます」
ロスの声は震えていた。
なんだ、こいつ。
怒ってるのか喜んでんのかわかんねえけど、それを愛しいと思ってしまえば終わりだよな。たぶん戻れなくなる。
「ごちそうさまでした」と言ってロスがお金をテーブルに出して、店を強引に出て行く間、そして今も、俺の腕は掴まれっぱなしだ。歩き難い。
「恭博さん、結婚してたんですよね」
誰に聞いたんだよ。
「ああ」
「いいなー。やっぱり結婚すると早く帰ったりするんですかー? たまには料理を作ったり? 片付けとかはあんまりやらないんでしょうねー」
お前が嬉しそうに話すから、何か答えそうになった。
「恭博さん、足にキスするなら、俺の足にもキスしてください」
「はぁ?」
「それで明日、結婚しましょう」
ロスは満面の笑みで言った。
この笑顔だ。無垢を装って核心を見せない白く濁った純真。俺の嫌いなロスの笑顔。
俺はロスに好かれているかもしれないと思う反面、憎まれているようにも思う。
暴利に舌なめずりするロスは、その本心を包み隠して、俺が絶望するのを綺麗な笑顔で見送る積もりなんじゃないか。俺が下らない契約を結んだのを内心嘲ってるんじゃないか。
俺がお前に頼るのを知っていて、静観してるんじゃないか。
ロスは俺が苦しむ姿を見たいだけ。
だったら真面目に付き合うだけ損だ。
「結婚したら、浮気すんなよ」
俺が言うとロスは「しませんよ」と言った。
嘘つき。お前はきっと浮気するよ、必ず。あの時みたいに。
本当に変わらないんだな。
「さて、その、相手のところに行きますかー」
「ああ。助けてくれて、ありがとう」
本当にロスが俺を助けてくれるなら、どれほど嬉しいか。俺はそんなことを夢見た。
【濁った純真】