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京香

「なんで逃げるの?」
「ミクが追い詰めるから!」

私はミクに追われていた。ダイニングテーブルの下で小さくなって震える私はさながら猟師に銃口を突き付けられたウサギだ。

「追い詰めてなんかいないよ。これは、言い寄ってるんだよ」

私にとっては同じだ!

「おかしいじゃん!」
「何が?」
「態度が違い過ぎる!」
「我慢してたからね」
「じゃあもっと我慢してよ!」
「うん、無理」
「なんで!」

ミクは元から愛嬌のある童顔を綻ばせた。

「それは君のことを愛しちゃったからだよ」

笑えない冗談だ。

「ごめん私もう帰らないと…」
「ダメ、帰さないよ」
「ごめん」
「帰さない」

碧玉のようなミクの双眸が鈍く光った。暗く淀んだ瞳はその視線だけで私から身動きを奪ってしまえる。

ミクの瞳は普通の人のそれとは随分違う。混濁して底無しになった緑の闇は、私の意識を引き擦り込んで恐怖を感じる間もなく窒素させる。

息苦しいのはミクも同じだろう。

「ミクのこと嫌いになりたくないの」

ラゼルも、バイアスも、私は彼らを嫌いだとは思わなかった。気持ち悪いとか怖いとかいう感情はあったけれど、嫌いだとは思わなかった。感情の希薄な灰色の瞳も、鮮烈に青い攻撃的な瞳も、綺麗に澄んでいて嘘がなかったからだ。

ミクは違う。

濁った緑が私を見据えた。

「京香の瞳は綺麗だよ。僕なら護ってあげられる」
「護ってもらわなくていい」
「またバイアスに監禁されてもいいの?」

なんなの、この男。

「アルに護ってもらう」
「君は独りじゃないか」
「アルが居る!」
「彼は君を助けてくれたことがあった?」

助けて。

「……ある」

助けて、智仁。

「そう、じゃあ、今度も来てくれるかな」

ミクは私の額に口付けた。ダイニングテーブルの下は狭くて薄暗くて重苦しかった。

助けて、智仁。

私の声は智仁には届かなかった。智仁は来てくれなかった。

京香

「どうしたの、こんな時間に」

そう声を掛けてくれたのはミクだった。ダラスに図星を指されて不貞腐れていた私は「僕の部屋に来る?」という甘い誘いに喜んで応じた。

甘かったのは、私だ。

「ここって、もしかして、」
「前にも来たことあるよね」

この不吉極まる間取りと内壁の材質には覚えがある。

ここは、バイアスの部屋だ。

「なんで…」
「このアパートは僕のだから」
「というと、」
「僕はリッチってことかな」

ミクはウィンクした。

何言ってんの…ミク……。

「じゃなくて、ここってバイアスも一緒に住んでるの?」
「ああ、そういう解釈するんだ」

ミクは頬を緩めて目を細めた。それは毒気がなくて嫌なことも忘れられそうだ。

そうだけれど、忘れられないこともある。

「ここって国防省の寮とかなの?」
「違うよ。ここは僕のアパート。バイアスは僕に家賃を払っていて、この部屋には僕が住んでる」
「あ、」

そういうことか。

「バイアスの部屋はこの直ぐ下にあるんだよ」

ミクはそう言ってストロベリー・ブロンドを煌めかせた。白い肌にほんのり赤みが差した頬は陶磁器の人形のように可憐だ。

「あ、そうなんだ」

ミクに見蕩れた私は上の空で返答した。まさか13歳の少女が自分に見蕩れているとは思いもしないだろうミクは、続けて言った。

「『ロリコン』って何? 『処女』ってほんと?」

最悪だ。

バイアス程ではないにしろ、その時ミクのサディズムが愉快そうに蠢いたのを感じた。きらきらと輝くミクの瞳と春の太陽そのものみたいな髪色に紛れて、濁った人間のエゴイズムが垣間見えた。

彼もやはりこの世界の男だ。私を“買う”と言ったのは、冗談でも脅しでもなかった。

私は顔が引き攣るのを堪えて言った。

「ごめん、用事思い出しちゃった」

余りに陳腐な言い訳だった。けれどそれこそが拒否の意思の現れだと気付いてからは却って気が楽だった。

智仁、助けて。

きっと智仁には、私の声が届くだろう。

智仁、助けて。

私はそれが魔法の呪文でもあるかのように心の中で何度も唱えていた。

智仁、助けて!

智仁

京香は言った。

『神様に嫌われるようなことしたのかな』

お前が余りに悲しそうに泣くから、その涙は世界を溶かす魔法かのように思えた。溶けた世界は全てを一つにして京香を包み込み二度と彼女を一人にさせはしない。

そんな“術”も在るかもしれない。

「京香と仲が良いようですね」

ソフィアは微笑んだ。

「彼女は世界でたった一人ですから。京香と離れる時は、人生を諦めた時です」
「それは、死ぬという意味ですか」

少なくとも、兄貴の心は死んだ。

俺が答えずに居るとソフィアは悲しげに微笑した。

ソフィアにとって俺は憐れな男かもしれないけれど、俺は京香に捕われるのを歓迎している。彼女より大切な女は今まで一人も現れなかった。京香だけが俺を心の底から楽しませてくれる。

世界に二人きりになった今、俺は歯止めを失った。

「私は嬉しいんですよ」
「嬉しい?」
「もう京香しかいない。私たちは互いに、“そう”なんです」

家族も友人も消えてしまった。実際は消えたのは俺たちの方だと思うけれど、俺たちにとっては“消え失せ”たのは紛れもなく彼らの方だ。

「『そう』ですか」

ソフィアは視線を手元に落とした。

俺は愛想よく笑った。

悪の小なるを以て之れを為すこと勿れ

紀勢主税(きせ・ちから)は自分の女に俺のことをよく話すらしい。その女に俺の方を好きになったとか俺の方がカッコイイとか言われても挫けずにまだ俺のことを話し続ける辺り、紀勢は只の馬鹿以上の馬鹿なのだろう。



「リョータくんって、頭いいんだ〜」

レイコは俺に指を絡ませながらそう言った。細い指の先に尖る長い爪は怖いぐらいに飾られていて、手首にはたくさんのアクセサリーが付いている。

これも元は紀勢の女だ。

「良くねえよ…」

一々否定するのも疲れる。レイコはその否定させることを次々に持ち掛けてくるから、同じ時間ならセックスするより話している方が疲れる程だった。

レイコは声を上げて楽しそうに笑った。

「チカラが言ってた通りだ〜」
「ァア?」
「リョータは男らしくてカッコイイって!」

俺とレイコのやり取りの何がどう『男らしくてカッコイイ』のかは全く理解できない。意味不明。

「で、アンタは何しに来たの」

俺の問い掛けに対してレイコは色っぽく笑んだ。妖艶に意味深に描かれた紅い弧は、きっと同じ手口で紀勢のことも喰らったのだろうと思った。

「…ナニしたい?」

レイコは派手に飾られた女の指を俺の指に絡ませた。それは蛇みたいに俺の身動きを奪う。

はい、思考放棄。

中身はともかく、レイコの容姿は俺のタイプの超ど真ん中なのだった。



「お前レイコと会ったんだっけ?」

紀勢は血塗れのシャツを脱いで俺の用意した服に着替えながら尋ねた。日焼けした背中は広くて逞しいのに、頭の中が腐乱している所為でそれを頼り甲斐があるとは思えないのが残念だ。

「誰だそれ」

俺がしらばっくれていることには間違いなく気付いていない紀勢は少し考える素振りを見せてから何か素晴らしいアイディアを閃いたかのように明るく答えた。

「胸がデカくて肌が白い女」

最低だった。

紀勢はオッパイ星人なので、外科手術でもして自分にオッパイを作れば最高なんだろうと思う。レイコのことも『胸がデカい』という認識しかしていないようだし。

しかし俺は少なからず安心した。

「あー、あの女」
「おぼえてる!?」
「ああ」

そして紀勢は不気味に照れて言い放った。

「俺、レイコに惚れちゃった」

『惚れた』だって?

俺は予想外の紀勢の言葉にかなり動揺した。安心からの動揺。安心からの驚愕。紀勢がどれだけアンラッキーの申し子で、どれだけ俺がその禍根に巻き添えを食っているとしても、紀勢が真剣に惚れたらしい女とヤってしまったとは言い出し難かった。

「惚れたって、」

ははっと苦笑いしながら言うと、紀勢は「今何してんのかな〜」と言いながら携帯で発信していた。

「あ、レイコ!?」

紀勢は暫くそれはもう嬉しそうに恐らくレイコと通話してから、惜しみつつそれを終えたのだった。

「お前、惚れたって、」

本気かよ。

そう言うより前に紀勢は「声もイイわ〜」と恍惚と呟いた。

「レイコ処女だと思う?」
「は」
「だったら俺もうレイコとケッコンするわ〜」

処女、は、有り得ない。

俺がヤったから。

つうかお前、まだヤってなかったの?

「聞いてみたら?」
「そうする!」

紀勢は即答した。それは俺への死の宣告だった。



俺はよく憶えている。

紀勢の初恋の文枝ちゃんと初めてヤった男は紀勢がボコって病院送りになった。中2にして淫乱に目覚めた文枝ちゃんと中1にして停学をキメた紀勢は俺の目にはお似合いに見えたけれど、文枝ちゃんはそれ以来紀勢を毛嫌いするようになった。

紀勢についての良くない陰口は文枝ちゃんが発信源だったと聞いたこともある。しかしながら紀勢は昔からそして今でも文枝ちゃんを悪く言うことを許さない。

紀勢の純情は真実だ。

惚れたと知る前とはいえ不味い女とヤってしまった。

「バージンだったらいいな!」

俺は軽薄に同意したけれど紀勢は全く疑うことはなく頷きながら照れたのか俯いた。

後でレイコに連絡しよう。

アノコトは秘密にしてもらおう。

そう思いながら笑顔で紀勢の肩を叩いて見せる。その白々しさは俺にしか分からないだろう。

紀勢は柄にもなくはにかんだ。

俺は自ら紀勢の純情を裏切ることは遂にできずに曖昧に笑って飲んで話して帰ってしまった。嘘を吐いて、正さなかった。



翌日、俺は鬼のような形相の紀勢に隣街まで追い掛け回された。

鬼の、正にそれ。

バイクで逃げ切れずに降りて走って、それでもあっという間に紀勢のゴツイ腕に捕まるとビルの谷間で徹底的に殴り倒され、大事にしていた歯を初めて折られて爪が2枚も割れるという憂き目に合った。

「てめぇ嘘じゃねぇぇぇかぁぁぁぁああああ!!」

紀勢の心からの叫び声を聞いて気付いた。

簡単なことだ。

分かっていたことだ。

嘘はいけない。

それがどんな些細なことでも、だ。



曰く、“悪の小なるを以て之れを為すこと勿れ”。
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悪銭身に付かず

三波は知っている。

苦労せずに得た金は、特にそれが多ければ、簡単に掌から離れて消えてしまうものだ。そして得た以上のものを引き剥がして不幸を誘う。

三波の母親は宝くじで3000万円を当てた。そしてあっという間に浪費癖が染み付いて、最後には父親にも捨てられた。

「じゃあ、それって、正社員に成るってこと?」

七窪は三波の言葉を重たく噛み締めるように唸った。そこには純粋な喜びだけではない複雑な思いもあるようだった。

「正社員に成るのは結果論だよね」
「まあ、そうだけど」
「学生時代に稼いだお金は、汚すぎたから、真っ当に働こうかなって」
「へえ」

三波は七窪の薄っぺらなところは好きだけれど、今のように真面目なところは鬱陶しいと思ってしまう。

三波は七窪が浪人している時にバイト先で知り合ったのだが、その頃の七窪は仕送りばかりに頼って生活する自堕落な男だった。それから彼が一晩で数十万円を稼ぐようになり、学生時代には阿漕なことを山程して違う意味で堕落していたのも知っている。

汚い金だという自覚があったのか。

三波は苦笑いした。

「三波が貯金してるって言うから、焦ったのかな」

そう言って七窪も苦笑いした。

三波の貯金は本当に細やかなものだ。七窪がギャンブルで一度に生んだり捨てたりする金額にも満たない微々たるもの。

「七窪にしたら、貯金とも言えないようなもんだけど…」

三波が小さな声でそう告げると、七窪は爽快に笑った。

「私は貯金なんてしたことないよ」
「え」
「稼いだ分だけ投資する。だからいつも手元には何もない」
「何もって、」

七窪は三波の言葉を制した。長い腕を三波の目の前に突き出して、舞台役者みたいに派手に大袈裟に分かり易い身振りをした。

「汚い手で稼いだ金は、いつも直ぐに消えて行く」

七窪の明るい金髪が幻想的に揺らめいた。母親と別れる直前の父親の声が思い出される。

『お前は、この言葉を知ってるか?』

三波は知っている。



曰く、“悪銭身に付かず”。
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