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ジョシュ

あんな風に彼が考えるのは、俺にとっては、彼が病んでいるからという他に理解のしようがない。けれどただその一言に込めるのは悲観や諦めではなく希望であって欲しいと思う。

治るものだと信じているから。

掲示板にあったマイヤー先生からの呼び出しの紙は引き剥がして丸めて捨てた。ウェンスの目に入る前に。

「せんせ…っ」

ノックをする前に聞こえたそれは色を含んでいて虫酸が走る。

ウェンスが一人でノートを届けた時にもこんなことが繰り広げられていたのだとしたら、様を見ろ、と思った。込み上げる不快をウェンスも同様に感じただろう。好きな人の、少なくともある程度関係を持った人の軽はずみな情事。

好意がその逆に変化するのは容易いことだ。

「猥褻教諭が」

そう言った口元はしかし緩んでいた。

ローリー

「テンマ博士って知ってますか?」

子どもは目をキラキラさせて尋ねてきた。何か楽しい発見をした、正に子どものような表情で。

後ろにはクロス様がいるけれど、彼は口出ししないらしい。

「テンマ、博士?」
「はい。アンドロイドを造った」
「ああ、知ってますよ。あのアンドロイドの」
「はい」
「……え、と?」
「ここへ来ませんでした?」
「いいえ。まさか」
「本当に?」
「……あ。あの、電話が、何度か」
「電話?」
「テンマって名乗ってましたけど、そのテンマ博士かどうかは」

キラキラしていた瞳はギラついていて取り調べでもされている気分だ。口調も強くなっている。

「……」

『せっかちな人だなあ』

テンマさんから電話がくると、あの人と話せるからドキドキした。

取り次ぐ時に見せてくれたものは僕には理解できなかった。学校にちゃんと通っていないから科学とか数学とかいうものはよく分からない。

あの人の夢中だったもの。

もっと仲良くなれたらよかったけど彼が心も身体も休めるための役割ができるなら馬鹿な僕にはそれも十分過ぎた。豪快な笑い方と八重歯が親しみ深く見せてくれたし言葉が少なくてもあの人の纏う空気は気さくだった。物足りないなんて我が儘なのだ。

「あるお客様が長期滞在されていて、その間にテンマさんからよく電話がありました」
「相手は誰?」
「クルト様です」
「ハニー・クルト!?」

大きな声の主はクロス様だった。

「いえ、クルト様としか…」
「小柄で眼鏡をかけた黒髪の男だろう」
「は、はい」
「間違いないな」

クロス様は子どもの頭を軽く撫でると思案するように目を伏せた。

知り合い、なのだろうか。

「クルト様をご存知なんですか?」
「昔ね」

会いたい、なんて。

「テンマさんに何かあったんですか?」
「いま探しているところなんです」
「…、クルト様は…?」
「あれはどっかの研究員にでもなってると思いますよ。回路の開発ができればなんでもする人間ですから」
「……」
「鍵」
「はい?」
「鍵だ。文字列が解けるかも」
「え、鍵?」

クロス様は形だけのお礼を告げるとさっさと帰ってしまった。

「先生は暗号に夢中なんです」

子どもがにっこりと笑った。

回路の開発。研究員。そんなことを言っていたかもしれない。イチかゼロ、その両方かそのどちらでもない、場合と組み合わせの単調な世界、それは僕には分からなかったけれどあの人が笑うからきっと素晴らしいものだと信じてた。

『テンマは人間という生き物に夢中らしいね』

ああ、僕もきっと、夢中なんだ。

クロス様はそのまま子どもを置いてどこかへ行ってしまった。その存在すら忘れているみたいに唐突に、一方的に退去した。姿勢のいい後ろ姿は毅然として見える。

それは気品と呼ぶのかもしれない。

或は泰然とも。

全体的に線が細くて物静かでクロス様そのものの印象はとても薄い。けれど彼は彼だけのルールで生きてきたような安定感がある。クロス様はそれがどんな内容であれきっと絶対にぶれない真理を知っている。

僕は一度でも、そうであったか。

「もう少しお話ししてもいいですか?」

話しかけられて振り返ると子どもがいた。

置いて行かれたのではなく自分の意思で居残っているとでも言うような様子だったから僕はたじろいだ。

「あ、はい」

その子どもはその時だけ妙に人間離れした、少なくとも子どもらしからぬ不敵さがあった。獲物を檻に閉じ込めて眺めるような余裕と無感情な圧迫に言い知れない居心地の悪さを感じる。

何が聞きたいのだろうか。

「お名前聞いていいですか」
「ローリーと申します」
「僕はレルムです」
「レルム…?」
「嫌な名前じゃないんですよ。僕は好きです」
「……」

彼は柔らかく笑った。

「クルトさんって、どんな人だったんですか?」
「…さっき言ってた通りの、小柄で、黒髪の、そういう人です」

小柄で、黒髪の、快闊で明るい、不思議な人。無口だけどよく笑う人。遠慮のない優しい言葉を知っている人。

僕の答えには余り興味がないのか反応もそこそこに彼はまた質問を続けた。熟練の刑事を思わせる何かを誘うような聞き出し方は少しも子どもらしくない。

そして笑う。

「長期滞在だとやっぱり親しくなりますか」
「うん、まあ」
「さっき話しに出た時、気にしてる風だったから」
「……」
「仲良かったんですよね、きっと」

子どもはまた笑う。

「……、でも、お客様ですから」

たぶん僕も笑った。

クルト様はお客様で、確かに多少の時間が僕とあの人の距離を縮めたこともあったかもしれないけれど、忘れることのできない圧倒的な隔たりもあった。

「クルトさんもそう思ってたかな」
「え?」
「大切な人の気持ちなら踏み躙ったらいけない」
「……」

僕にはその言葉が理解できなかった。

クルト様が何を考えていたのかなんて、馬鹿な僕には分かりっこない。

「取り壊すのって、なんでですか?」
「それは、ここは古いですし、客足も減っていますし」
「クルトさんに言われたんですか?」
「え?」
「泊まっている間、人を呼ばないように、とか」
「……」
「来た人間は追い返すように、とか」
「……」

『駄目なら出ていくよ』

だんだんと僕のモーテルの経営状態が悪くなっていくのをあの人は知っていた。知って最後まで穏やかに脅迫したんだ。

最後の日に一生かけても使い切れそうにない目の眩むような大金を置いて姿を消した。

分からないよ、そんなの。

「クルトさんはあなたを苦しめるためにここへ来たんじゃないと思うんです」
「……」
「これ、見ましたか?」
「へ?」
「手紙です」
「……」
「ローリーさんはここを取り壊すつもりなんてなかったんじゃないですか」
「それ、は、」
「手紙、読んでくださいね」

あの人は笑っていた。無口だけど、もしくは無口だから話しかけられるとドキドキした。

足音に気付いて知らずに下げていた顔を上げると子どもが去っていったようだった。僕の手には手紙。古くて埃っぽい、手紙。

『いつでも追い出していいんだよ』

追い出すなんて、できなかった。

あの人が脅迫したから?

穏やかに、強く。

深く、静かに。

「てがみ。てがみ、これ、僕に?」

封を開けると焦げ臭くて鉄臭いあの人の気配がした。タイピングしたような整然とした文字は筆圧が高くて丁寧だった。

僕は泣いた。

城内

「お昼、明日も一緒に食べよう?」
「ハァ?」
「なんで嫌がるの。あたしたち付き合ってんじゃん」
「関係ねえだろ」
「……なんであたしと付き合ってるの」

今朝は京平が階段脇で知らない男を口説いていて私は思わず割り込んだ。生徒会長の方には前からそっちの噂があって、女誑しの京平も実は両刀なのではと今でも噂を耳にすることがある。

でも不安になるのは噂が原因ではない。

どうしてお昼を一緒に食べてくれないの。どうして合コンに行くの。どうして優しくしてくれないの。どうして他の女の子に優しく笑い掛けるの。

「お前、付き合う前はもっとあっさりしてただろ」

だからそう言われて我慢していた何かが切れた。

「京平にとってカノジョって何!? どうしてあたしを特別にしてくれないの!?」
「……」
「あたしは合コンに行かないでって言った! 他の女とは遊ばないでって何度も言った!!」
「……それは、アドレス消した言い訳?」
「あたしが悪いの!?」

冷たい目で見られてる。

京平が案内してくれた場所はお昼休みなのにとても静かで、私の高い声はどこにも吸収されずに悲鳴みたいに耳障りに響いた。それは私の理解されない苦しみと行き場のない感情を表すようで悲しい。

彼の中には届かず、入らず。

だから変わりに私の目から形になって溢れるのかもしれない。

「理由があったら他人のもん勝手に捨てていいのかよ」
「……」
「大切な人のアドレスだって入ってるって思わねえ?」

大切って、誰。

「女と遊ばなきゃいいじゃん」
「浮気してるわけでもねえのに…」
「相手はデートしたって思うかもしれないじゃん」
「思うかよ。ガキでもねえのに」
「だって言ってたもん」
「……」
「もうあたしに乗り換えてくれるかもって言ってたもん」
「……」

私は大切にされてない。

「…どうして京平は守ってくれないの…」

化粧が落ちてる。鼻水が出る。目が赤くなる。ご飯がまずくなる。京平が笑ってくれない。嫌われる。もう本当に捨てられる。

「お前もそうやって俺と付き合い始めたからそう思うの?」

悲しい。苦しい。

もう終わってしまう。

「彼女いるのにあたしに構うなって、あたしは言ったよ」
「……」
「別れたって言うから付き合ったんだよ。乗り換えてもらおうなんて、」

その時、京平の携帯が鳴った。マナーモードのバイブレーションが私と京平を決定的に引き裂こうとしているような気さえした。

やっぱりこれは、単なる言い訳なのかもしれないね。

京平はポケットの携帯をズボンの上から触ってバイブレーションだけ止めた。メールだったらしい。

「言っとくけど、お前と付き合ってから女と2人で遊んだのって春絵と高嶋と大野と冴だけだよ」
「……」
「3人は他の男と付き合えるように俺が間を取り持った。冴は良平と付き合ってる」
「……」
「その女が誰か知らねえしなんて言ってたか聞いてねえけど、妄想だろ」
「……なんで最初に、そう言ってくれないの」

私と別れたいみたい。

「浮気してるわけじゃねえって言っただろ」

別れさせたいみたい。

私は自分の携帯からメモリーカードを取り出して京平に差し出した。そこにはアドレスを消す前のバックアップがしてある。私の逃げ道。指先よりもずっと小さいそれが完全に嫌われるのを防いでくれると信じて。

京平は不審がったけれど「アドレス残ってるよ」と言ったら受け取ってくれた。

「今日はありがとう。やっぱり明日は一緒に食べたくない」
「別れんの?」

それは軽率で価値のない問い掛けだった。

もっと深刻に聞いてくれたら、もっと重大ぶって聞いてくれたら、もっと未練たらしく聞いてくれたら、たぶん私は嫌になって別れてしまった。

「京平って、女の子振ったことないでしょう」
「はぁ?」
「いつも軽く躱してきたんでしょう」
「……」
「面倒な女は嫌いだから別れたいって言えば? お前には飽きたからそろそろ他の女とヤりたいって言えば?」
「……」
「乗り換えたいのはそっちでしょう? 気になる女の子がいるんじゃないの? 自分だけ逃げられるって思わないでよ。ガキじゃないんだから、キスしてエッチしたら付き合ってることになるなんて考え止めたら?」

京平は気にする素振りを見せずにメモリーカードを携帯に入れた。

「……」

今度は、私の携帯が鳴った。

彼方

「止めてください。こんなところに電話なんて」
「……」

課長が露骨に嫌がったから俺は思わず聞き耳を立てた。

「そうですか。じゃあ切りますよ?」
「……」
「そんな、嫌ですよ」
「……」
「そういうの、パワハラって言うんですよ」
「……」
「あっ、あれは…!」
「……」
「分かりましたから、もう止めてください…」
「……」
「ええ。大丈夫です」
「……」
「はい。では失礼します」

パワハラ?

「顔、赤いですよ?」
「わ!?」
「恋人からお電話ですか」
「ち違います!」

パワハラってことは、内部の人間?

「でも、随分親しそうにしてましたけど」
「ほんとにそんなものじゃないんですよ…」
「……」

しょげている課長は珍しくて、弱みを握っているらしかった電話の相手がさらに気になる。どうやって誑し込んだというのか。

「それで、それはもういいんですけど、今日はセツも直帰だし、君は明日から出張だし、早く上がっていいですよ」

課長を、誑し込む。

いけないことを想像してしまった俺はそれだけで赤面してしまい慌てて目を逸らした。不思議がって首を傾げる彼は一般的にはただの中年なのだけど、そういう素直とも天然とも年甲斐がないとも付かない動作が俺には壺なのだった。

「……ありがとうございます。そうします」

笑うとできる、笑窪が好きだ。

「うん」

俺たちを帰してから残業するのだろう課長が本当は電話の相手と密会するのだとしても、俺には踏み込めることではなかった。

アキ

「タキっていつからそんなにデカいの」
「さあ、分からないな」
「えー」
「お前は適性下げればまた成長するだろう」
「嫌だよ。仕事ができなくなる」
「ユーリならそれくらい気にしないだろう?」
「恭博さんに悪いから…」
「…そうか」
「……レーガンは元気?」
「まだまだ死にはしないだろうな」
「あは。今度顔見せるから、アポ入れといてよ」
「ああ、分かった」

ダリア

チャップは笑った。

「リュウ、生きてたんだね」
「ああ」
「僕、てっきり…」

空気だけするりと抜けていくような笑い。楽しいのではなく、もっと他の感情が彼を笑わせる。

「チーフの気まぐれだろ」
「でも、よかった」
「いつ死ぬかは、分からない」

チャップは優しく首を振りながら「大丈夫」と言った。

「大丈夫」
「何が」

目が合った。不自然に優しく笑うチャップのその表情と頬を撫でる温い風を不快に思いながら、自分が不快に思っている一番の理由に気付いた。

「リュウ、笑ってたから」

俺はあいつに会っていない。

フォルテ

「授業、出ろよ」
「ああ」
「卒業できるのか?」

狭い部屋の蛍光灯の下で黙々と本を読むジャックは蛍雪には程遠い。

「お前は卒業できんの」
「できるよ」
「だろうな、」
「……」

姿勢をそのままにこちらを見たその青い目からは感情が読み取れない。ただ直線的に、刺さるように向けられている。

「意味ねえこと聞くなよ」

嘲りもしないで俺を蔑む。

ジャックは以前からこうだったか。いつからこうも頽廃的な態度だったか。彼は何に反抗しているのか。

俺には分からない。

彼は読んでいた本を投げ出すとベッドの中へ深く沈んだ。周囲の気圧まで下がっていくように思え、俺の心もその中心に引き擦り込まれていく。孤独というよりは失望が似合う。

「暖かい格好をしろよ」
「ぁあ?」
「最近、寒いから」
「…お前もな」

俺の言葉に反応する。

俺の想いに反応しない。

「そろそろクレアが帰ってくる」
「……」
「きっと楽しい話しができるな」

学習室へ行こうとしたら本当にクレアが帰ってきた。上品なノックの後に現れた彼は初対面の時と変わりない淀みない笑顔を浮かべる。

「どこかへ行くの?」
「いや。着替えが向こうにあるから」
「そっか」

タイを緩められた喉元から通るクレアの声はまだ子どもで、その彼が楽しそうに笑うと俺も否応なしに安堵させられる。

ジャックとは丸で違う。

「食事は?」
「食べてきちゃったー、あ、やっぱりいたんだ」

ベッドに転がるジャックを発見したのか一段と声が弾んだ。

「ガキの癖に帰りがおせぇ」
「ね、ジャック。ジャックは音楽、ピアノで履修したの?」
「……」
「聞いたんだよ、カルメン弾いたんでしょう?」

『意味のないことを聞くな』とは言わないのか。

「リストが言ったのか」

ジャックの声は呆れてはいるけれど心底嫌がってはいない。詮索が嫌いな彼が許してしまえるのはクレアが純朴だからだ。クレアが美しいものだからだ。

2人のところへ行くとジャックは起き上がっていた。

「僕が聞き出した。ねえ今度弾いてみせてよ」
「もう弾けねえよ」
「下手でもいいよ」

誘惑するようなクレアに靡く。いつだって。

「下手なんて言わせねえから」

溺れた魚。落ちる鳥。折れた剣。破れた城。晴れない空。明けない夜。或は忘れない人。

不毛で不幸で不埒な君が、俺にはまだ耐え難い。

ジャックは感情の篭った目で笑った。

シバ

場所を示す言葉、不規則な文字列、数字、図、そのどれも俺には不可思議。

「……」

レルムは暗号には全く興味を示さず部屋をうろうろしては壁や床を覗き込んでいる。窓から外を見たり触り心地を楽しんだりと飽きることはないらしい。

子どもができたみたいだ。

「先生」
「……何?」
「この部屋、最近家具を取り替えてます」

レルムに近寄り、細い指で示されたベッドと壁の間を見る。そこには日焼けしていない白っぽい壁が少し露出していた。

「へえ」

「ここも、新しい傷です」と言ってレルムはベッドの脚から1、2センチ伸びる線を指す。

「変ですよね」
「うん」
「そうですよね!?」
「……」

キラキラと瞳を輝かせるので頭を撫でてやると、レルムは満足げに目を細めた。

「僕、あの方に伺ってきます」
「……」

すっと立ち上がったレルムの腕を掴む。

「…ダメ、ですか…?」
「いいよ。ただし私も行きます」
「はい! お願いします!」

レルムには探偵の才能があったらしいことに驚いた。もっとも、行方不明の人間を6年間かけて捜し当てるだけの能力はあったのだから他のどのアンドロイドよりもその点では優れていただろうし、兄弟機に比べて演算能力や運動能力が著しく劣る分の挽回がどこかに必ずあるだろうとも思っていた。

感情特化だけのアンドロイドではないのか。

「……」

暗号に興味を示さなかった彼を責めたのが恥ずかしい。

「ねえ。今日のあれって本当なの?」
「んー、どうだろ」
「真井先輩とは仲良いの?」
「良くないよ」
「……もしかして、無理矢理とかそういう…?」
「そうなら面白いんだけどねー」
「……」

結衣の考えてることは昔から私には計り知れない。セーラー服で学校に来た時と、携帯を校内で使うなっていう先生の注意を全く聞き入れなかった時と、そして今日が3回目だけれど、結衣が問題を起こすとなぜか私が呼び田されてしまう。

「お姉ちゃんて真井さんカッコイイと思う?」
「へ!?」
「興味ある?」
「いや…まあ、カッコイイんじゃない?」
「彼氏にできる?」
「……付き合ってるの?」
「じゃなくて、お姉ちゃんが」
「……」
「彼氏にできる?」
「知り合ってみないと、なんとも」
「……。ふーん」

結衣はにっこりと笑った。

ロージー

ルーセンはあまり笑わなくてちょっと暗い印象の男だけどなぜかグリーンと仲良し。

「今日はずっと一人?」
「ええ」
「ちょっと前にグリーンが一人できて、馬鹿みたいに飲んでたわよ?」
「そうですか」
「恋しちゃったかもって触れ回ってたけど」
「それをなぜ私に?」
「べつに?」

『あいつが笑うと、ドキドキしちゃうのよ』

そう言ってにやけたグリーンはそこまで酷く泥酔していたわけではなかった。頻りに何かを思い出しては照れて気持ち悪がられてもそれさえ嬉しそうに応対する様はやはり酔っ払いだったけれど。

「あの、」

彼の制止に振り返る。

「…なあに?」
「どんな様子でしたか」
「何が?」
「彼、…グリーンが飲んでた時」

遊んだことも遊ばれたこともある人間がいつか本気になれるのだろうか。

「悔やんでいたかしらね」
「…そ、」
「嘘よ」
「はい?」

いつか本気になれるなら、それはきっと面倒で泥臭くて少し子どもっぽい、けれど確かに本物の恋なのかもしれない。

「嬉しそうだったわ」

ルーセンは困ったように笑った。

恭博

卒業を考える頃にはどこからかリクルーターが来て大手の金融や商社への就職を誘うのだった。10年ちょっとはそこで働いたけれど自分の立場が分かってからは頻繁に転職するようになった。

適格者がどれほど希少なのかを理解したのはもっと後。

「ほんなら、いただきます」
「挨拶が遅れた分も、これで…」

目の前では汚い金で生きてきた人間が楽しくもなさそうに話していて、今日も日常茶飯事の面従腹背とは丸で矛盾する義理立てを高く掲げて商売する。

それを商売と呼ぶなら、だ。

搾取とか暴利を貪る行為とかいっそ略奪とか言った方が正しいと思うけれど、彼らはそうは言わない。

『そないな言い方、しないでください』

彼らは何を話していてもどこか品性に欠ける。例えば身に纏う貴金属とか、独特の貶し言葉とか、遠慮のない視線とか、そういうあれこれ。

彼らの方が桁違いの報酬をくれるのだと気付いてからの俺のがめつさは、そんな彼らに負けないけれど。

「これであんたらも、わしらの傘の下っちゅうことやね」
「世話になります」
「ええなあ。平和は素晴らしい」

その口でよく言うな。

俺は誠意とプロ意識を売りにしていた当時を思い出して笑いかけた。情けなさと報われなさと必死さは笑わずには思い出せない。

『世話してやった恩は忘れたか?』

『八方美人もここまでにしい』

『ほな、誠意を見せな』

『平和的に解決しましょうや』

彼らはそんな言葉で俺を突き落とした。真剣に自分の精一杯の仕事をしているのにどこからか解れていく。いつか必ず立ち行かなくなるところまで含めての大金なのだろう。

17年間の軟禁生活の後は自己防衛にも細心の注意を払うようになったけれど。

ま、今日はこれで終わりだな。

あくどい商売を続ける俺は、彼らの腐ったやり口が嫌いではないのだった。

ミツル

「殺せばいいのに」

どうせ酷い暴力でいたぶるならあっさり殺してあげた方がずっと優しい。

「あれはもうチーフのものだよ」
「お前が迎え入れたんじゃないか」
「でも今はチーフのものだ」
「どうして許した?」
「……」
「少年だから、許可したの?」
「……」
「始めに殺さないからこうなったんだよ。チーフにいたぶられるリュウを俺は見ていられない」

弱いものを嬲って愉しむなんて外道だ。狂っている。人の道を大きく踏み外している。

俺にはできない。

「死んだと思ってた」
「死んでないから言ってんだよ、殺せって!」
「…チーフに言えよ」
「……お前の言うことしか聞かないじゃないか」

理由は知らないけれど。

「俺の言うことだって、気かねえよ」
「……」
「リュウは俺が大切に扱ってた時にだって一度も笑わなかったんだ。俺もチーフも同じなんじゃねえの」

失禁させたり嘔吐させたり、お前はしないじゃないか。自分で同じだなんて言うのか。

「それは自虐?」
「……そうかもな」

ダリアは俺の言葉を振り払ってどこかへ消えた。

厚底のブーツが廊下に鳴る。

自己嫌悪と責任転嫁で世界が成り立つというのなら、きっと今は責任転嫁の順番が回ってきているのだろう。チーフやチーフという人間を生み出した世間へ転嫁できたら楽になる。

「俺は自虐なんてしないよ」

俺の声は誰にも届かず温い風に吸い込まれた。

宇津木

縒りを戻す時に彼は浮気を否定した。だから許した。

「一緒に食べるって言ってたから彼女でもいるのかと思った」

湊さんはそう言いながら座った。女子の中でも断然短いスカートから脚が覗いて、男にもそういう手段があればいいのにと思った。

「似たようなものだよ」
「…何が?」
「付き合ってるから」
「……」

湊さんを見ると驚いているようだった。自分だってレズビアンじゃないかと心で呟いてから、彼女がカミングアウトしなければ僕だって言うことはなかっただろうなと思った。

仲間意識なのかもしれない。

「話って何?」
「…クラスの雰囲気、変じゃない?」
「……」
「私と宇津木くんをくっつけたいみたい」
「……」

「違う?」と同意を求められてから漸くクラスメイトの言っていたことの意味を理解した。女性は恋愛に関する勘が鋭いというのは本当なのかもしれない。

くっつけたいから、なんて気付かなかった。

「私が宇津木くんを好きとか、宇津木くんが私を好きとか。今日のことでますます噂話の捏造がはっきりしたみたいだし」

湊さんは笠木さんたちへ目をやる。

「放っておけばいいんじゃない?」
「理由があるんじゃない? 少なくとも私は彼らに松江さんのこと言うつもりはないし、放っておいたら面倒なことになるんじゃないかと思うんだけど」
「そっか…」
「思い当たる節はある?」
「……」
「私たち、教室でもそんなに話したりしてないのにね」

思い当たる節。

「これ、ありがとう」

僕はハンカチを差し出した。湊さんから借りたものだ。

「丁寧に。ありがとう」
「いや、助かったから」
「あれからどう?」
「…それは大丈夫なんだけど、あの日、このハンカチ水道で洗ってる時に小川さんに声かけられて、湊さんからの借り物だって話したんだ」
「……」
「もしかして、それからかもしれない」

湊さんは「有り得るね」と言ってから卵焼きを口に運んだ。その小さい一口ではいつまでも満腹になれそうにないなと思える僅かばかりの卵焼き。

「意識して話さないのも勘繰られるし、噂を止められるようなことができたらいいんだけど」
「できるかな、そんなこと」
「嫌じゃないの?」
「別に、僕は」
「カレシは?」
「…え?」
「カレシは嫌なんじゃないの?」

考えたこともなかった、とは言えなかった。

笠木さんを見ると目が合った。

「そう、だね」

湊さんは怪訝な顔をした。

笠木

紘平は知らんぷりをしている。一緒に昼食をとるようになってまだ数週間だけれど選りに選って女とのダブルブッキングなどされるとは思わなかった。

第一向こうはダブルブッキングだと思っていないのかもしれない。

「遅くなってすみません。一度忘れものを取りに行って」
「あれ何? 昼一緒に食べんの?」
「はい。誘われて」

誘われて?

「ふざけんなよ」

俺が立ち上がると教室の入口にいた女の一人が声をかけながら近付いてきた。睨み付けても少しも怯まない辺り紘平を狙う度胸はあるようだ。

女は淡々と挨拶を続ける。

「突然すみません。宇津木くんのクラスメイトの湊です」
「……」

紘平をちらりと見ても無反応だ。

「ちょっと宇津木くんと話したいことがあって、よろしいでしょうか」

俺が何か言う前に声を上げたのはもう一人の女だった。俺と紘平と湊さんを見比べながら湊さんの腕を掴んで訴えるように大きな声で話した。

「なんでですか!? 二人で食べるんじゃないんですか!?」
「うん。ごめん」
「聞いてないですよ! 何話すんですか!?」
「個人的なこと」
「…私はどうしたらいいんですか?」
「向こうの方にいて欲しいんだけれど。出てけってことじゃなくて、教室にいていいから」
「そんな…」

湊さんはもう一人の頭の撫でた。「ごめん」と小さく言うと観念したのか弁当を持って教室の反対側へ向かった。

「……」

合わせられた目は真っ直ぐ俺に向いていた。ぱっちりとしたその目と面長だけどバランスのいい顔は『可愛い』部類だろうから余計に苛立つ。

紘平は静かに笑っている。

「それで、先輩にも松江さんと一緒に向こうにいていただきたいんですけど」
「は?」
「宇津木くんとはなんでもないってこと、見ててもらえば安心だし。あの子、嫉妬するから。べつにあの子と仲良くして欲しいわけじゃないんですけど、席は外していただきたいんです」
「……」

それって、つまり。

「あの子、私の彼女なんです」

言葉が出なかった。勝手に紘平狙いの女だと思って苛立った自分が恥ずかしい。「今日じゃない方がいいですか」なんて気遣われて更に情けなくなる。

「…じゃあ」

その場を後にして湊さんの彼女の少し間隔を空けた隣に腰を下ろした。警戒されながら、少なくとも俺たちには堂々と紹介されたその女が羨ましくなった。

紘平は、きっと言わない。

無言で食事を始めると彼女も食べ始めた。

松江さんは女の子数人と楽しそうに話していた。教室に入ると一緒にいた女の子の一人が声をかけてくれる。松江さんは勢いよく私に向き直ると眩しいくらいの笑顔を湛えて挨拶をした。

「あかり先輩!」
「お昼、食べちゃった?」
「まだです! 食べましょう!」

松江さんは天真爛漫に答える。

彼女のこの純真をいつか私が汚すのかもしれないと思うと申し訳ない気持ちになる。

分かっていてもこの子は笑うから。

裏切りとかエゴイズムなんて言葉で悪ぶるつもりはないけれど、いつどのタイミングで別れるかということしか頭にない自分はどう繕っても彼女にとっての害悪でしかない気がしてしまう。

本気の彼女に対して私は遊び半分。

もう半分は、やっぱりそれも、遊びなのかも。

「今日はね、科学室で食べたいんだけど」
「へ?」
「いい?」
「はい! もちろんです!」

机に置いてあった弁当を手にすると教室の扉まで直ぐに辿り着いた彼女は、若いとか元気とかいう表現では足りないくらいにはしゃいでいた。

それを見ても悪い気はしない。

科学室に着くまで彼女は終始嬉しそうに顔を綻ばせて私にシュールな豆知識を教えてくれるのだった。

ドアを前にして松江さんを見る。

「実はここで人と待ち合わせしてるんだけど」

私の不意打ちに松江さんは面白いくらいに驚いた。そして言うと同時に開いた扉の向こうにいた男を見た時には私も驚いた。

「……」

たぶん高等部の先輩だ。大きな身体に鋭い目つきで私たちを威嚇している。あれで松江さんと同い年の中2だったら、ちょっと怖い。

「あの、宇津木くんは…」
「……何。君たち」
「宇津木くんと約束してるんですけど」

松江さんは状況が飲み込めない様子ながらも負けじと先輩を睨んでいてコミカルだ。

「湊さん」

それは中等部にして風紀委員長を務めるに相応しい凛とした声だった。ジャージに落書きされようと嫌な噂話を立てられようと毅然と前だけ見てきた人間の声だった。

「宇津木くん」
「中、入らないの?」
「うん。入るよ」

宇津木くんが怪訝がったのはほんの少しで、さして気にすることもなく科学室に入っていった。

松江さんは、子どもが怒ったような顔をしていた。

宇津木

昼休みにトイレから出ると湊さんがいた。待ち伏せ、に近かったと思う。

「宇津木くん」
「…あ。ごめん、ハンカチ、」
「それはいいんだけど、今日お昼一緒してもいい?」

湊さんは手にしていた弁当の袋を心持ち掲げた。首も少し傾げていて普通なら具合のいい状況なのだと思う。

自分が普通ではない自覚はある。

「……」
「今日だけでいいんだけど」
「……」
「ダメならまた別の日に」

正直、変な勘違いを、僕はした。

「いいけど…。科学室行っててもらえる? いつもそこで一緒に食べてる人がいるんだ」
「うん。あのね、少し迷惑かけるかもしれないんだけど、いいかしら」
「……とりあえず、食べながらってことで」
「ええ。じゃあ」

『湊さん、お前のこと好きらしいよ?』

このところのクラスメイトの声が頭にチラついて恥ずかしくなった。ナルシストなところ、広倫さんから感染したのかもしれない。

春と龍

「この閉鎖空間で経験豊富って、龍って手が早いの?」
「…いや」
「局の人とってことでしょう?」
「そもそも俺は経験豊富じゃないよ」
「でも付き合ったりしてるじゃない」
「付き合ったりくらい、するんじゃないの」
「……」
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ジョシュ ノートン/決壊

「……」

ウェンスはぎりぎりまで寮に帰らない。教室で自習したり図書館で読書したり好きに動いて学校が締まるまで残っているから探そうとすると苦労する。どの学年のクラスもどの教科の教室もトイレも廊下も屋上も彼を隠してしまう。

それでも諦めたくはない。

彼は同室者とずっと一緒にいるのに耐えられない。それは俺に対しても同じで、不意に姿を消すのは人と接することが苦痛になるからだ。

それでも諦めたくはない。

「ウェンス」
「……」
「さっきピノに言ってた用事って何?」
「……」
「また不安になってる?」
「違うよ。大丈夫」
「ならいいけど」
「……やっぱり大丈夫じゃない」
「え?」

思わず声が漏れた。

教室にはまだ何人も生徒が残っていて、聞いてはみたけれどそういう状況で彼が弱音を吐くとは思わなかった。人目を恐れるウェンスは病的な自身を誰にでも曝す訳ではない。

「死にたい」

ウェンスの青白い肌と生気のない瞳がその言葉を担保するようで薄ら寒い。

「……」
「辛い。死にたい」
「…ウェンス…」
「死んだら笑える気がする。全部忘れて楽になれる気がする」
「違うよ」
「死にたい。もう嫌だ」
「違う、ウェンスは頑張ってきたじゃないか」
「飛び下りたら死ねる? 首吊ったら死ねる?」
「……」
「でも迷惑かけるね。でも死にたい。死んで消えてしまいたい」
「駄目だよ。俺が許さない」
「ジョシュに僕の気持ちは分からない。ジョシュと僕は違う。僕は死にたい。君には迷惑かからないようにするから」
「死んだら悲しいからだよ」
「嘘だ」
「悲しいよ」
「本当は僕のこと面倒な人間だと思ってるんだろ」
「ウェンス、君が生きてきたことを俺は知ってる。君の孤独や努力は俺には理解しきれないかもしれないけど、俺は君がちゃんと生きてきたこと知ってるよ」
「よく分からないよ。僕は死にたい」
「分かるだろ? 本当は俺の気持ち、分かってるんだろ…?」
「僕なんて死ねばいいって思ってる」
「違う」
「……」
「大丈夫。ウェンスは悪くない」
「死にたい。死んで詫びるよ」
「それは君の本心じゃない」
「本心だよ」
「違う。君は生きる為に頑張ってきたんだ。簡単に死ぬな」
「でも死にたいんだよ。自殺すら一人前にできない僕だけど」
「ウェンス。君は何も悪いことをしてない。俺と同じように生きる権利がある」
「ないよ」
「あるさ」
「……」
「今日はもう帰ろう」
「……」

笑ってみせるとウェンスは「ごめんなさい」と謝った。その姿があまりに弱々しくて俺は悲しくなった。

教室には2人きりになっていた。

「ごめん。また甘えた」

ウェンスを見ると泣きそうな顔をしていた。けれど決して泣かない顔。疾うに決壊していてもおかしくないけれど、寝不足で栄養不足のその顔が悲しげに歪むところをを何度も見ながら彼が泣くのを見たことはない。

「もっと甘えてよ」

不安定の波が収まったのかウェンスは曖昧に頷いてから立ち上がった。

折れてしまいそうだ。

俺は無為に笑いそうになるのを堪えて彼をエスコートした。腰に触れると痩せているのがよく分かる。抱いてみればきっと彼の不健全な生への渇望を思い知らされて、今よりもっと悲しくなるに違いない。

昨日あんなことを言ったから俺が突き放すと思ったのだろうか。

今日ウェンスが死にたいとまた言い始めたのは彼が生きることに興味を持った証であって、同時に俺への疑心暗鬼が生じている証でもある。

もう、疲れた筈なのに。

ウェンスが素直に甘えてくるから、一線を軽々しく越えたマイヤー先生よりもウェンスが憧れ続けたピノよりもずっと自分の方がウェンスを支えているのだと実感できて、それが俺の自惚れだとしても嬉しいことに違いはなかった。

振り向いたウェンスの、頬に触れる。

「ジョシュ…?」
「うん」

髪に触れる。

「何」
「ウェンス、」
「……何」

首筋に触れる。

「死んだら駄目だよ」

触れたい。まだ足りない。

ウェンスはそれには返答せず先に寮へ行ってしまった。薄暗い廊下を、それでもしっかりした足取りで歩んでいた。

心にも触れられたらいいのに。そう思った。

ピノ

「ノイウェンス」
「……」
「今日、空いてる?」
「いや。ごめん」
「どこか通ってるんですか?」
「……何故?」
「何回か寮の部屋に訪ねたことあるんですけど、いつも居ないみたいなので」
「……」
「急いでないので気にしないでください。また時間がある時に」
「……」

俺といるのが嫌なわけではないと思うけれど。

リノ

『視え』るものは無数にあって、それらは読まなければただの景色の一部でしかない。小さい頃は完全には発動してしていなかったし『手紙』の中身がなんであるか瞬時には判別できないことが多かった。

けれど今は全て『視え』る。

知りたくないことがたくさん在った。聞きたくないことがたくさん在った。

文字の羅列は三次元で得られる情報よりも遥かに膨大で、その質量が私を乱暴に苛む。重篤なのは私なのか彼らなのかさっぱり分からない。ぶれない事実は目の前に広がる『手紙』だけ。

嫉妬は嫌いだ。

能力なんて必要ない。生きる為には必要ない。

『火』や『電気』ならば私は悩まなかったのだろうか。大勢の仲間と一緒に切磋琢磨し成長する喜びを覚えたのだろうか。他人の顔色を伺う煩わしさも他人の過去を覗き見る痛みも知らずにいられたのだろうか。

そうかもしれない。

けれど、それだけではないかもしれない。

世界は流転している。

人間は世界に巻き込まれてきただけで、私の感じる苦しみはきっとこれまで誰かが経験してきたものの一つでしかなく、繰り返して、繰り返して、丸で大きな流れに取り込まれたように感じられたらそれが世界そのものなんだ。

私一人の苦しみなんてない。

悲しいことはたくさんあるけど世界は喜びもまた含んで廻るから寂しくない。人がやがて教科書の片隅の挿絵の中に埋まっていくように必ず私も明日には笑っていられる。

そんな気がした。

『よかった。嫌がられなくて』

私もそう思ったよ。

自分が滑稽に思える。後悔を重ねて迎えた朝には光なんてない。新しい何かが軽やかに動き始める気配は大嫌いだ。去り行く夜に取り残された不安と罪悪感は私にそっと寄り添い囁き掛ける。黙れ、お前が幻聴だってことには気付いてる。そうして頭痛と空腹感が責め立てる昼に眠りにつく。

ごめんなさいごめんなさい。私は悪くないのに。ごめんなさい。

だから私を殺してください。

生きることに縋りたくなるような残酷で暴力的な方法で私を殺してください。自殺はもうしないと約束したからせめて早く殺してください。

ごめんなさい。違う、死にたくなかった。

誰にも知られず私の存在そのものをなかったことにして消えられたらいいのにって何度も考えた。死にたくないけど、生まれたくもなかった。

見捨てないでください。

嫌がらないで、お願いだから。

目の前でさらさらと笑う男の人が嘘も同情もない心で言う。本音。真実。これが?

『よかった、会えて』

現金な私は途端に自分の能力を祝福した。こんな使い方ができるなんて知らなかった。百も千もある見たくもない情報と引き換えに手に入れたのは一筋の光。救いの手。

下らない思い出話に花が咲く、そんな日が来るのかも。

想像して、私は笑った。
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