※夢枕版 陰陽師
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mblg.tv のつづき
金曜日の深更、博雅は晴明と学校に来ていた。博雅が学校で見掛けると言う女について知る為だ。
その女は博雅の目の前に不意に現れては、何処へともなく姿を消してしまうという。話し掛けても返事をくれないので声が出ないのではないか、と博雅は気に掛けている。その女が目の前に現れるということよりも、博雅にとってはそちらの方が困り事の種らしかった。
夜の学校はとても静かだ。
昼間の騒がしい分、余計に音が無い。
門扉は堅く施錠されていた。
晴明には丸で学校に拒絶されているように感じられた。かつて日々通った懐かしい筈の母校なのに、そこは踏み込み難かった。在学中は傍若無人に振る舞っても、卒業するとどんな人間にとっても居場所が無くなるのが学校らしい、と晴明は思った。
晴明は引き返そうとしたのだが、博雅がドアホンで用務員と話して、鍵を開けて校内に易々と進入してしまった。
「用務員とも仲がいいのか、お前は」
晴明は呆れたように言った。
博雅はどうという事も無げに「おう」と答える。晴明には、どうにも博雅のその誰にでも懐く性格が信用ならないと思えることがある。
「晴明。あそこから入れるよ」
晴明は博雅のその呼び掛けには答えず、校内をチラチラ窺い見ている。
博雅の頭の中は女のことでいっぱいだ。
彼女は居るだろうか。博雅にはこんな時間に彼女がまだ学校に居るとは思えなかったが、晴明が「まあ行こう」と言葉巧みに誘うので、こういうことになった。彼女が居るとは思えない、けれど、期待もしている。
「なんだか寂しげな夜だな」
博雅は誰にともなく呟いた。
晴明はふと博雅を見たが、博雅が気付くことはなかった。
博雅の前に、件の女が居た。
「待ってください!」
女に逃げられると思った博雅は何より先にそう叫んだ。これまで何度となく逃げられ続けたので、もう逃げられまいと必死だ。それでも逃げられるのがいつもなのだけれど、今日は違った。
女は晴明を見て、博雅を見て、苦しげに顔を歪めた。
「何故辛そうな顔をするんですか。俺に理由を教えてはくれないんですか。俺はあなたの辛そうな顔ばかり見ている気がする。今日は何処へでもこの博雅が着いて行きます。だから、もう逃げたりしないでください」
博雅は真剣に説得した。
晴明は博雅の横顔をじっと見てから、優雅に女に視線を戻した。
女は色白で細身の美女だ。外国人の血が入っているのか、日本人らしからぬ顔立ちの美女だった。博雅が心を奪われるのも無理はない、と晴明は思った。
女の長く真っ直ぐな髪がさらりと肩から落ちる。
「まあ、急くなよ」
晴明は博雅にそっと言ったが、博雅は納得しない。
「しかし、」と声を大きくする博雅を、晴明は常と変わりない様子で宥める。
「博雅、こういうことは急くものではない。それはお前の良いところでもあるけどな。今日は時間が無い訳でもあるまい。あなたも、博雅にその声を聞かせてあげたらどうですか。さぞ美しい声をお持ちだろう」
晴明が意味深長にそう言って微笑んだ。
「声を持ってるなら、俺に聞かせてください」
博雅は晴明の言葉を聞きつつも、まだ必死に話し掛けている。
女は晴明を見てからゆっくり目を伏せた。
「姫、と」
そのか細い声は、酷く恥ずかしげに、心許なげに聞こえた。
「……」
博雅は女の声が聞けたことに感動してその内容までは聞こえていないらしい。
「姫、とはなんですか」
晴明は博雅の代わりに尋ねた。しかし晴明にはもう彼女の言いたいことも、こうなった事情も分かったような気がした。
晴明の口元は少しの微笑を浮かべて、何やら楽しそうである。博雅の浮かれ切った表情を面白そうに眺めて、またにやり、と笑みを刻んだ。晴明には博雅の子供らしい情熱が理解し難く、また愛しい。女に惚れっぽいところがまた面白くて、笑ってしまう。
いつもであれば博雅に笑うな、と咎められるところが、今日は違う。博雅は目の前の女に夢中だ。
「……博雅、さま」
女は上目遣いに博雅を呼んだ。
博雅はそれを顔を赤らめて聞いている。
「はい。なんですか」
それは実直な声だった。
博雅は自分が「様」を付けて呼ばれたことにも気付いていない。とにかく女が自分に話し掛けていることに飛び上がりそうなくらい喜んでいる。目はきらきらと輝いて、それは見ている者を笑顔にさせる。
そして博雅の声は、どんなものも受け入れてくれるような、しかし如何なる不正も許さないような、強くて真っ直ぐな声をしている。
博雅と話すと心が伸びる、と言う。
晴明も例外ではない。
博雅の純潔は疲労や憔悴を忘れさせる。今この時も漏れなくそうだった。
晴明は誰に気付かれることもなく、ふっと笑った。
「私のことを、私の『声』を、姫、と呼んでくれたから。私にはそれがとても嬉しくて。だから私の『声』は博雅様のものになってしまったんです」
女がそう言って、漸く博雅は何か考えるように首を傾げた。
「俺が、『姫』と?」
女は黙ったまま小さく首肯した。
博雅は何も覚えがないらしく、助けを求めるように晴明を見た。助けてくれ、と言わんばかりの目だ。
晴明は久しぶりに博雅と十分に見詰め合ってから、女に目を向けた。
「あなたの声は美しい。この博雅が姫と呼んで惚れてしまうのも無理はない。しかし、どうか許してやってほしい。この博雅はあなたのことをすっかり忘れているようだ」
「ええ。わかっています」
女は悲しげに答えた。
「あなたの声を博雅だけのものにするのは惜しい。それに、あなたの『声』が博雅のものになったとしても、あなた自身は博雅のものではないでしょう。どうかあなたの声を、自由にしてください」
女は伏せていた目を上げて晴明を見た。
「あなたはなんでもご存知なんですね」
晴明は、「そんなことはありません」と言って、しかし言葉に反して余裕たっぷりになんでも知っているという顔をしていた。
博雅は焦れて女に声を掛けようとした。
何故晴明とはなんでも話すのですか、俺とは話してくれないのですか、事情を教えてください、どうかあなたの力になりたいのです、俺になんでも話してください、と言おうと思った。
彼らは丸で知らない言語で語り合っている。
博雅には、二人の言葉がこんがらがって頭の中でぐちゃぐちゃに絡まっている気がした。それはきっと晴明にしか解けない。晴明の不思議な能力でしか、ダメだ。
博雅は、始めは女に話し掛けられて嬉しかったが、次第に疎外感も覚えていた。
何か言ってください。
叶うならば、俺にも分かる言葉で。
博雅は、そんな言葉が口先まで出かかって、しかし言えなかった。
彼女の瞳が切なく細められて、窓の外を見たので、博雅も釣られて外を見たのだ。長い髪がまた一房、その細い肩から落ちた。
窓の外には、雲間から無数の星々が見えた。
夜にはまだ冬の寒さが残る中、空が高くて何処までも深く星の世界が続いているように思えた。
それは宇宙だった。
果てし無く、途方もなく遠い、もの寂しいものだった。
「なんて。綺麗だなあ」
博雅はついうっとりとそう呟いた。
晴明の返事が無いのは何時もと同じだが、今夜は違う。彼女が居る。同じ夜空を見た彼女に同意を求めるように博雅は目線を戻した。
「え」
声が詰まった。慌てて視線を彷徨わせたが無駄だった。
彼女が何処にも居ない。
「晴明、居ない!」
晴明はまだ窓越しに夜空を眺めている。
「なぜ。晴明、彼女は、一体……」
晴明は漸く博雅を見て博雅の頭を撫でてやった。博雅は嫌がりもせずに晴明に縋るように目を向けている。
「説明が必要なら、うちへ来るか」
晴明がにやりと笑ってからそう言うと、博雅は少し悔しそうに頷いた。
晴明と二人、タクシーの中で、博雅は待ち切れずに尋ねた。
「なあ、晴明。どういうことか話せよ」
「家に着くまで、もう10分もかからないだろう」
「そういうの、ちょっと意地悪だと思わないか。俺は彼女に何かしたのかな。それで彼女は帰ったのか。なあ、早く教えてくれたっていいじゃないか」
博雅は殆ど泣きそうな声を出していた。
晴明は博雅の切ない表情を見て思わず「すまん」と謝罪した。博雅のその顔は宇宙を旅して迷子になった子供みたいだ、と思った。果てし無い孤独の中で震えている子供。その子供は今にも泣きそうな顔をしている。
晴明にとって、博雅をからかって遊ぶのは楽しいが、彼が心底落ち込むのは見ていて辛い。
晴明は内心ちょっと慌てて説明し始めた。
「あの子は合唱部の子だよ。実は合唱部の一人が歌わなくなったという話しを前から聞いていたんだ」
「合唱部?」
博雅には益々なんのことやら分からない。
「合唱部が歌うのを聞いて、最近、綺麗な声だと思ったことはなかったか」
晴明に尋ねられて、博雅は首を傾げた。
「あったかな」
「あったさ」
晴明が念を押すように言うので、博雅もあることを思い出した。
「そう言えば、女の子が何人かで歌っていたのを聞いたな」
博雅はその時のことを思い出して言った。生徒が数人で歌っていたのを通りがかりに聞いたことがあった。その中でもソプラノの声はとびきり綺麗だった。
「それで、お前は『姫よ、綺麗な声だなあ』と呟いたんだな」
「え?」
「覚えがなくてもそうさ。それで彼女はお前に惚れたんだ」
「え?!」
「『声』をお前だけのものにしたくて、歌うのを止めてしまったんだろう」
晴明はすっかり事の次第を理解しているようだが、博雅は違う。
「そんなこと、あるか」と半信半疑だ。
「お前の独り言があの女に『呪』をかけたんだ」
「はっ?」
「博雅、あれは『博雅の姫』だよ。『博雅の声』だよ。お前の為だけに歌ってくれる女とは、なかなか健気な話しだが、当の本人がこれでは可哀想だな」
「それで帰ってしまったのか?」
「それはまた少し違う理由があるだろうさ」
「何故だ」
博雅はすっかり混乱している。
博雅は頭を抱えて「そんなこと、あるか」ともう一度呟いた。
「そんなものだよ、我々は」
晴明は博雅を優しく見て言った。それはゆったりと穏やかでもどこか確信めいた声音だった。
博雅はタクシーの窓から外を見た。
時間は深夜だというのに車とビルが溢れ返って余り寂しい気持ちにはならない。不思議な力で優しく包まれたような、温かい気持ちになっている。
「晴明。お前、いま俺に『呪』をかけたか」
博雅は外を見たままそう言った。
晴明はふっと笑って答えた。
「お前は、かかり易い質だからな」
「どういう意味だ」
「お前は良い男だという意味さ」
「全然意味が分からない」
「勘ぐるな。そのままの意味だ」
博雅がむっとして晴明を見ると、ひどく甘い目で自分を見ていたので、反論の言葉は飲み込んでしまった。
ちぇ、と優しい舌打ちが、車内に響いた。
【博雅と歌姫(後編)】