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七井 充/侵入者

サーバーのバッテリーを交換するというので、業者から派遣された人と一緒にサーバー室に行くことになった。業者はかなり慎重に選ばれた政府機関御用達の企業だが、その作業員はと言うと、ごく普通の人間にしか見えない。

「TSCシステムズの倉田です。よろしくお願いします」

倉田さんは爽やかな営業マン風の男だったが、本人は、自分は技術屋で営業はしたことがなく、しかも人見知りだと言う。

嘘だ、と思った。

ちょっと緊張はしているようだけれど、人好きのする笑みは人見知りのものとは思えない。俺の浮かべている笑顔の方が余程ぎこちないに違いない。

「お世話になります。七井です。こちらから入ってください」

俺がセキュリティカードで扉を開くと、倉田さんは「失礼します」とはっきりした口調で言ってから、大きな台車を押して中へ入って来た。彼は厚みが10センチ以上ある扉にも臆せず、口だけは「やっぱりセキュリティ厳しいですね」とだけ言った。

慣れているらしい。

「新しいバッテリーなんですけど、前のと少し大きさが違ってて、交換にけっこう時間がかかりそうなんですよ」

倉田さんは申し訳なさそうに言った。

「構いませんよ」
「ありがとうございます」
「今日は、お一人ですか?」
「あ、あの、申し訳ありません。本当は、いつもなら、二人でやるものなんですが、来る予定だった並木が体調を崩しまして」
「そうでしたか。大丈夫なんですか?」
「少し時間が余分にかかるんですが、作業は大丈夫です」

確かに事前に作業員は2名と伝えられていた。暇だから今日一日立ち会っても良いかなと思っていた俺は、「そうですか」と答えた。

倉田さんは台車を不器用そうにふらふらしながら押している。荷物が重いからだろう。

手伝った方が良いものだろうか。

ちょっと手を添えて支えるぐらいのことならば。

「七井さんって、その、お若いんですね」

倉田さんは、そんなことをふいに口にした。しかし俺がすぐに答えられずに言葉に詰まるのを見て、申し訳なさそうに「すみません」と続けた。

「いや、申し訳ありません。つい、そう思ったもので」

倉田さんは目を伏せて笑った。

こういう普通の会話っぽいものをするのは、どうも慣れない。子供の頃からそういうことは訓練でしかやってこなかった。更に、訓練では、「お若いんですね」というのは老齢の人間に対する褒め言葉だと教わったので、それが自分に向けられて余計に頭が混乱している。

普通に、と思えば思うほど、普通の返事ができなくなる。

「倉田さんも、若く見えますけど」

俺の言葉に倉田さんは「本当ですか?」と言って顔を上げて、困ったように笑った。

そういう反応が“正しかった”のか。

「ええ。おいくつですか?」

質問されるより質問する方がまだましだと判断し、俺は間髪あけずに質問した。倉田さんの笑顔は先程よりも力が抜けていて自然で楽しそうで、彼はむしろ質問される方がいいらしい。

「32です」

倉田さんは照れた時の癖なのか、口元を手で隠しながら答えてくれた。

俺は倉田さんのその普通っぽい反応に感心しながら、その内容にも気を取られていた。

32、と言った。

すると彼は俺より6歳も年上ということになる。若く見えるタイプの顔立ちだとは思っていたが、まさかそれ程年上だとは思わなかった。倉田さんは見た目だけなら20歳くらいに見える。学生服を着れば学生に見えるだろう。

「こちらのエレベーターから下ります」

俺は倉田さんの年齢についてコメントできずに、唐突に道案内をしてしまった。

倉田さんは特に気に留めていないらしく「はい」と言って微笑んだ。その表情だって20歳くらいにしか見えない。

大きな黒目は輝いて、前を真っ直ぐ見据えている。綺麗な色白の肌は張りがあって、くすみもない。ワックスで整えられた黒髪は傷みもなく、若々しく艶めいている。細身の体はしなやかで贅肉もなく、きびきび動く。

32歳?

嘘だろう?

「あの。やっぱり、倉田さんは若く見えますね」

俺がそう言うと倉田さんは少し顔を赤くした。

「頼りなく見えますよね」
「いえ、そういう意味ではありませんよ」
「実際、同僚に言われますから……」
「いい意味で、見た目を裏切ってるってことですよ」
「そうですかね。なんか、すみません」

倉田さんは力なく笑って、それは確かに少し頼りない姿だった。軍人にはいないタイプの人間だから、俺にはその平凡さが新鮮でとても好感が持てるように思える。

その時、エレベーターが止まった。

停止音とともに扉が開いて、現れたのは木邨さんと白衣を着た男だった。

白衣の男は、見たことがない人間だけれど、うちの勤務医のようだった。セキュリティカードが首から下がっている。

「あれ、七井君だ。お疲れさまです」

木邨さんはエレベーターに乗り込みながら挨拶した。

「お疲れさまです」

木邨さんは大きい台車を眺めて、「なんですか、それ」と尋ねた。

「サーバーのバッテリーです。交換するので、来てもらってて」

俺は倉田さんに目配せした。

「あ、こんにちは。お疲れさまです」

木邨さんは俺と違って自然な感じで倉田さんに挨拶した。

倉田さんは木邨さんに親しみやすさを感じたのか、ちょっと気の抜けたような笑い方をした。俺と最初に話した時は爽やかな営業マン風だったけれど、今はそうでもない。

「お世話になっております」

話し方もどこか受け身で、人見知りは本当かもしれない、と思った。

木邨さんは倉田さんに一歩近付いた。

「はじめまして」

木邨さんは倉田さんさんを下から覗き込んでじっと見詰めた。照れた倉田さんは「TSCシステムズの倉田です」と言って顔を赤くした。

「ねえ、僕も着いていっていいですか?」

木邨さんは俺を見て尋ねた。にこにこ笑っている割りに、断れないような圧力を感じて、俺は「はい」と答えるしかなかった。横目で見ると、倉田さんもそのプレッシャーのようなものを感じたのか、目線を左右に泳がせている。

俺が念のため「大丈夫ですよね」と確認すると、倉田さんは優しく微笑んだ。

それから木邨さんは白衣の男を見て「藍沢先生も来ますよね」と尋ねた。男は名前を藍沢というらしい。『先生』と呼ばれたので、やはりうちの勤務医なのだろう。

「ああ」

藍沢先生は木邨さんと目を合わせずに短く答えるだけだった。

木邨さんは倉田さんと世間話をしていて、それがとても自然で穏やかだったから、俺は話しに相槌をうってばかりだった。藍沢先生もほとんど話しには加わっていない。

倉田さんが32歳だと教えた時の、木邨さんの「まさか」という反応を、俺はメモして帰りたいとさえ思った。

こうあるべきだ。

学校で習ったとおりだ。良い印象を与える話術。俺には獲得できなかった技術。

木邨さんは、凄い。

エレベーターを降りてサーバー室に向かう道で、倉田さんが楽しそうに笑ったり頷いたり驚いたりして、俺は作り笑いでそれを見ていた。

同じ知能でも、使い方でこうも違うのか。

或いは俺は馬鹿なんだ。

サーバー室は暗くて寒い。寒いのはたぶん、冷房が効き過ぎているからだろう。

まずサーバー室に入ることができるセキュリティカードを持っている俺が中に入った。カードと番号と指紋で開く扉は、これまでより更に分厚い、30センチはあるものだ。中から3人を振り返ると、木邨さんが倉田さんの前に立ちはだかっていた。

「ねえ、倉田さん」

その声はとても優しくて、彼の残忍さを少しも感じさせなかった。

「武器の持ち込みは禁止されていますよ」

サーバー室から流れてくる冷気が辺りを包んだ。




【侵入者】




木邨さんは俺と同じ文官なのに、俺と違ってどうして立派に軍人に見えるのだろうか。彼の持つ残忍さを俺も持っている筈なのに、俺にはできないことを彼はする。

倉田さんが動揺したと俺にでもわかった瞬間、木邨さんは倉田さんを思い切り蹴り飛ばした。容赦なかった。

倉田さんは抵抗しようとしたけれど、膝が折れたらそのまま立ち上がれなくなった。

「君は、この為に私を呼び止めたのか」

藍沢先生は倉田さんを診て溜め息混じりに呟いた。

倉田さんは脳震盪で体が思うように動かなくなったらしい。一度立ち上がろうとして、木邨さんに今度は下から蹴り上げられて、すっかり動かなくなった。

こんな時は、上司に報告?

応援を呼ぶ?

この場の責任者は、俺?

えーと、なんだ。

どうしたらいいんだ。

木邨さんは倉田さんの近くに屈んで刃渡りが20センチぐらいはありそうなナイフを放り投げた。倉田さんが持っていたらしいそれを、俺は慌てて回収する。

それから木邨さんは倉田さんの服を脱がし始めた。

「七井君、後藤さんに連絡できる?」
「はい」

なるほど、上司に報告するのか。俺は暢気にそう思いながら後藤さんに連絡を入れた。

緊急回線で繋げると、後藤さんは直ぐに出た。

「どうした?」
「バッテリー交換に来た人、武器を持ち込んでたみたいで、いま武器を取り上げたところなんですが、誰か応援を呼んだ方がいいですか」
「ユズとヨルを呼ぶ。場所は?」
「第二サーバー室前です」
「第二サーバー室前、了解した。状況を詳しく教えて」
「えー、と」

こうして話している間にも、木邨さんは脱がせた服で倉田さんを縛っている。状況は刻々と変化して、なんと言っていいのか分からない。危険な状況からは脱したのか。応援が来たら何をして欲しいのか。どう説明すべきなんだろう。

木邨さんはバッテリーが積載されている筈の台車を開けて中を確認し、そこから拳銃を取り出したかと思ったら平気な顔で試し撃ちした。

本物だった。

「銃声か?!」

後藤さんが慌てたので、その声に俺も驚いた。

大丈夫です、と言おうとした時に、ヨルが現れて、木邨さんに銃口を向けた。

「ゆっくり銃を置いて手を上げてください」

木邨さんは黙って従った。

「藍沢先生、状況を教えてください」
「あ、ああ。この転がってるのがバッテリー交換に来た業者で、ナイフを持ってたんだ。そいつは経理課の職員だよ」

藍沢先生は木邨さんに目を向けて言った。

その時、音もなくユズが現れて、俺に銃口を向けた。俺は自分がナイフを持っていることに気付いた。動いたら撃たれそうでナイフを捨てることもできない。

ユズはヨルを見ずに「遅れてごめんね」と言った。

ユズは俺に「ナイフを置いて手を挙げろ」とは言わなかった。言ってくれれば抵抗せずに降伏できたのに、言われないから却って俺は心許ない。

どうやったのかナイフと拳銃を持ち込んだ当人の倉田さんは気絶して転がっていて、俺と木邨さんが銃口を向けられているなんて、なんだか複雑な心境だ。

弁明したいけどできない。

投降したいけどできない。

味方に投降するというのも変な話しだけど、彼らにとって今の俺は敵に等しいだろう。

「藍沢先生、この人は?」

ヨルは木邨さんに向けていた銃を下ろして俺を見た。

俺はユズの目をじっと見詰めている。引き金に掛けられている指が少しでも動いたら、せめて右か左にでも避ける為だ。たぶん手遅れだと思うけど、まあじっとしてるよりは良いはずだ。右か、左か。

うん。左かな?

「情報室の七井君だよ」

答えたのは木邨さんだった。

ヨルは、恐らくは反射的に、再び木邨さんに銃口を向けた。直後、「あ、すみません」と頼りない声で謝罪したが、木邨さんは珍しくちょっと驚いていた。

「ああ、七井さん。情報室の」

ユズはそう言って何か閃いたような顔をした。

俺に向けられていた銃はそれで下された。

「お世話になってます」

俺がそう言うと、声を聞き覚えてくれていたのか「ほんとだ」と呟いてヨルも俺を見た。

二人が俺を知っているのは当然だ。さっき後藤さんが二人を呼んだ時のように、情報室から出動命令や帰還命令を俺が伝えることもあるからだ。何名かでやっている仕事だけど、彼らとも何回か仕事をして、会話もしたことがある。

「じゃあ、そいつ捕まえればいいの?」

ユズはそう言って銃口で倉田さんを指し示した。かなり物騒に思えるが、ユズにとっては違うらしい。木邨さんもヨルもなんとも思っていない様子だ。

彼らは敵なら当然撃ち殺す。殺すなという命令でもなき限り、敵を“誤って”撃つことはあり得ない。

ユズは倉田さんの直ぐ側に屈んで、銃で倉田さんをつついた。

倉田さんは無反応だ。

「それ、私が適当に縛りました。すみません」

木邨さんがそう言うと、ユズは黙って倉田さんの手足を錠で固定して、それを軽々と担いだ。ユズが目配せすると、ヨルは台車の中を簡単に確認してからユズの近くまで台車を押した。台車の扉を開いたユズは倉田さんをその中に放り込んだ。

ガン、とぶつかる音がした。

物みたいに倉田さんが扱われていて、俺は少し怖くなる。

ユズが倉田さんを足で押し込むとヨルがそっと扉を閉じた。ちょっと心配そうに中を覗いていたヨルに、俺はとても親近感を覚えた。

「じゃあ、僕らはこれで」

そう言うと二人は台車を押して廊下を歩き始めた。

二人はもう帰るらしい。

「あ、ちょっと待ってください」

俺が呼び止めると二人は足を止めてくれた。ユズが不思議そうに首を傾げている。

後藤さんに報告した方がいいよな。

ヨルの仕事振りを間近に見たのは初めてで、すっかり感動してしまっていた。いつも頼りなさそうな通信が多いので一般人のように思ってしまっていたけれど、それは違った。

彼も軍人なのだ。

そして俺もまた軍人だ。自分の仕事をしよう。

俺が発信すると後藤さんは直ぐに応答した。

「捕獲は終わりました。あと、俺達って、どっかに行った方がいいですよね。ユズ達について行けばいいですか」

俺はサーバー室を施錠してユズとヨルを見た。

俺達だって証拠みたいなものだ。それに倉田さんをサーバー室の目の前まで招き入れた責任だってある。報告書は提出するにしても、聞き取りの調査もあるはずだ。

木邨さんと藍沢先生は俺が後藤さんとやり取りするのを聞いていて、特に何も話していない。後藤さんの指示に従う積もりのようだ。

「男を拷問にかけるんじゃないかな」
「え?」
「見たいですか?」

『拷問』?

見たいかと聞かれたら、見たくないと答えたい。

「そういう趣味はありませんが、必要ならば加わります。倉田さんとは私が一番長く接しました」

俺がそう言うと、後藤さんは「君は度胸があるね」と答えて笑った。

「こちらからも報告することがあります。ユズとヨルは好きにさせていいから、七井君は情報室まで戻って来てくれますか」
「了解です。木邨さん達と居合わせて、いまも一緒に居るんですが」
「ああ、観てましたよ。二人が来たいと言えば来てもらってもいいし、仕事があればそちらを優先させて構いませんよ」

観てたと言うのは、監視カメラからの映像のことだろう。

「了解です」

ちょっと腑に落ちないが、俺は指示に従った。ユズとヨルには台車と倉田さんの体を片付けてもらい、藍沢先生には自分の仕事に戻ってもらった。

時間があるという木邨さんには情報室まで同行してもらっている。

情報室には椅子に腰掛けた後藤さんがいて、何やらにこやかに笑っていた。部外者に武器を持ち込まれたというのに、どうもおかしい。

「戻りました」
「おかえりなさい。お疲れ様でした」

ああ、でも。

落ち着くなあ。

俺は銃を突き付けられたり緊急発信をしたりして、なんだかんだで疲れていた。だからこうして後藤さんに『おかえり』って言われたら、日常に戻って来られたようでとても安心できた。

情けないよな。

「報告することと言うのは、倉田さんのことなんだけど。まずは今回のことについて七井君から報告を聞いてもいいですか」
「はい」

俺は倉田さんと会ってからのことを詳細に報告した。そして最後に、個人的な感想も付け加えた。

「事実は以上のとおりです。あと、気になっていることが幾つかあります」
「うん。何?」
「気になっていることは、幾つかあるんですが、それはつまり、倉田さんはジェリー・ジョンだったんじゃないかってことなんですけど」
「ん?」
「こんなこと言って申し訳ありません」

ジェリー・ジョンは裏切りのプログラムだ。部隊の間でそう呼ばれているが、愛されている訳ではない。

「凄いね。それ、大当たり」

後藤さんは困ったように笑った。

「そうですか」

なんだか安心した。安心したけど、ちょっと納得できないこともある。総合的に判断すればそのとおりだけど、所々、説明できない部分もある。

「あの、ちょっと質問してもいいですか」
「うん」
「倉田さんが持ち込んだ武器は本物でしたか」
「空砲だよ」
「ユズとヨルも仲間ですか」
「二人には訓練用の発信で現場に行ってもらったけど、計画には入ってなかったんだよね。あれはちょっと焦ったな」

後藤さんは困ったように笑った。

「木邨さん、気付いてましたよね」

木邨さんを見ると、当然のように「うん」と言って頷いた。

「それだと納得できます。いつ気付いたんですか」
「疑ったのは、倉田さんの年齢を聞いた時かな。32歳なんてあり得ないから。ああいう悪ふざけは趣味が悪いですよ」

木邨さんは、責めるように後藤さんを見た。

「あれは倉田さんのアドリブだよ」

ああ、内心で俺をからかっていたってことか。

「本当は何歳なんですか?」
「たしか七井君と同い年だよ」

26歳だ。

それならまだ分かる。

「ずっと疑ってたし、他にも怪しいところはあったけど、確信したのは銃が空砲だったからだね。敵地に乗り込むのにあんなもの持ち込んで、なんのメリットもないから」

なるほど。

さすが木邨さん。

「それでなんとなく分かりました」

倉田さんは武器を持ち込んで何かしようとしたのではなく、俺を騙して何かする為に送り込まれただけだったのだ。訓練だったのか試験だったのかは分からないけど。

木邨さんが偶然居合わせてくれたおかげでかなり助かった。俺だけだったらジェリー・ジョンをサーバー室まで侵入させていたに違いない。

まあ、でも、今回はそれで良かったのかもしれない。こういうことは偶にある。まんまと成功してしまったのでは面白くない。

俺ではなく、おそらく倉田さんに切っ掛けがあるのだろう。

例えば腕試しとか。

新しい作戦や武器の試験運用とか。

「倉田さんは、一部への異動希望でも出してたんですか?」

一部に異動する為には技能、知識、経験が問われるし、それを見極めるのはとても難しい。実地訓練より勝るものはない。

俺が尋ねると後藤さんは笑った。

「逆だよ。倉田君は二部に所属している隊員でね、ずっと前から内勤にして欲しいって言ってるんだって」

そういうこともあるのか。

木邨さんも面白そうに「へえ」と言って笑った。

二部といえば6人程度の部隊を組んで物資を輸送したり支配地域の地図を作ったりしているところだ。専門知識を持った技術者などがよく配属されるが、戦闘行為がないとはいえ、内勤とは程遠い業務ばかりと聞いている。現場主義の泥臭くて鉄臭い職場らしい。

確かに彼らはいつでも異動したがっているが、異動希望が通った試しなどないのが現実だ。

しかしそれと今回のことにどんな関係があるのだろうか。

「それで、倉田さんは異動できそうなんですか?」

後藤さんはちょっと困ったように眉尻を下げた。

「モニターしてみる?」
「え?」
「まだユズとヨルに説明してないから。本当に拷問しているかも」
「え……」

後藤さんはキーボードを叩いて映像の一つを切り替えた。画面の真ん中にはユズが立っているのが見える。その影に倉田さんが転がっているようだ。

『……だからキライなんだよ。鼻を明かしてやろうと思ったのに』

倉田さんの声だ。

意識は取り戻したらしい。

『そう。でも貴方は捕まった』
『ああくそ、あいつのせいだ。キムラってヤツ』

倉田さんは俺と話していた時とは全く別人になっていた。

『あいつこそ二部に異動させろよ。あんなの経理にいらねーよ。アレは反則だろ』

木邨さんのことを罵倒しているみたいだ。

木邨さんは涼しい顔で笑みを浮かべてそれを聞いていて、ちょっと怖かった。

『まあ大体のことは分かりました』
『分かってねーだろ!』

ユズにも突っ掛かっている倉田さんは、なんだか頭が悪い男みたいに見える。話した時には人間味があって礼儀正しくて一般人にしか見えなかったのに、これでは丸で別人だ。

『データを盗めれば内勤にしてくれるって約束だったのに、台無しだ!』
『そんなことで異動できるんですか?』

ヨルは心底不思議そうに尋ねた。

希望通りに異動できたら、俺達は皆失職するだろう。こんな仕事はない方がいいと思っているからだ。研究所の学者達は例外かもしれないけど。

「ユズとヨルにもバレてるみたいですね」

三人のやり取りを見て木邨さんが言った。

「異動はできそうにないですね」

俺が言うと後藤さんは微笑んでモニターを切り替えた。

「とにかく、こういうことでした。嫌な役回りをさせて、ごめんね」

後藤さんは謝ったけど、謝る必要なんてないと思った。倉田さんが異動したがって、こんな回りくどい方法でその適正さを図ろうとした組織の方がどうかしている。忙しいのに付き合わされたユズやヨルだって迷惑だっただろう。

「勉強になりました」

俺が言うと、後藤さんは申し訳なさそうに笑った。
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神坂 貴祐

なんでリュウは黙ってられるんだ、って始めは思った。黙って耐えるってことは相手の暴虐を許して認めることと同じじゃないか、って思った。

それから、暫くして、分かった。

言わないんじゃない。

言えないんだ。

クソ。クソ。クソ、クソ、クソクソクソ!!

理不尽が許せないのに圧倒的な力の前に逆らえない自分もわかっているから悔しくて怒りがわいて冷静でいられなくなる。

俺も同じだからだ。

正しくて強い者に逆らえない。
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垂れ目。




笑ってない時の顔が怖い。

木之下 綾夏/地下

「私、地下って嫌い」

リノが言うには、地下には薄暗い不安感があるのだそうだ。リノはそう言って薄手のパーカーを羽織った。

「私は好き。ここに帰って来る時の、地下のレールポートとか」

任務の後は全く外傷がなくても薬物検査やウイルス検査の為に担架で移動することが多い。担架に寝転んで、地下のレールポートを移動する時のうるささとか、立ち止まった時の驚くべき静けさとか、地下にある二面性が好きなのだ。

暗い不安感さえ、好き。

リノは少しだけ首を傾げてから「それって人恋しいのかしら」と呟いた。

そうかもね。
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澤口 一樹

笑えない。

もう、これ以上は。
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里見 晴紀/殺し屋の道具屋

【殺し屋の道具屋】


彼らの虚ろな目を見ると自らの罪を自覚する。

私は、人には誰かを素手で絞め殺せる人間と、殺せない人間がいることを知っている。誰かを自身の手で絞め殺す人間にとって武器は只の道具でしかなく、私の仕事も食事を用意する職員と同価値と思われている。

一部と零部の連中は人を絞め殺す側の人間だ。

一人も漏れなく、悉く。

どんな殺戮の為の兵器だって彼らは防護服と同列にして仕舞う。

私はそれに救われる。

私は違うからだ。

私は武器の殺傷力を上げる度に暗く重い夢を見る。引き擦られて引き擦り下ろされて泥沼の中へ埋められる夢。深い毒素が舞う霧の中で薄れゆく酸素を求めて彷徨う夢。長い長い階段を這って這いずって降り続ける夢。

「こんばんは」

木邨さんの落ち着いた声が響いた。

「お久しぶりです」

木邨さんはスタイリッシュに背広を着こなしていた。隣には小野さんが居る。小野さんは珍しく白衣を着ていなかった。シャワーを浴びた直後なのか、彼の髪は少し湿っているようだ。

「やあ。雨宮は一緒じゃないの?」
「奥に居ますよ」
「そうか」

小野さんは扉の奥へ目をやった。

小野さんの目はいつも厳しく何かを見定めている。懸命に生きない人間を否定する彼の目を嫌う人間もいるけれど私はその鋭利な目が好きだった。

私はここへ来てから働き詰めで、自分の中の何かが削られていく気がするのだけれど、小野さんの瞳はその鋭さを増すばかりで摩耗することがない。私はそれに憧れる。木邨さんも、そうなのかもしれない。

小野さんと木邨さんの仲が良いことは有名だ。

二人で旅行にも行くらしく、互いの部屋のスペアーキーを持ち合っているとも聞いた。

「まあ、今日はいいや」

小野さんは扉から目線を外して言った。

「伝言があれば伝えます」
「いいよ。また来る」

小野さんは微かに笑った。

こういう和んだ表情もするんだ。良いな、と思った。

思ってから自然と木邨さんを見ていた。

「食事に誘う積もりだったんですよ。ハルちゃんも来る?」

突然の誘いに私は戸惑った。

これは社交辞令で誘ったものだろうか。それとも断る方が無礼なのだろうか。

木邨さんは整った顔を優しく微笑ませて「おいでよ」と更に言った。男の私から見てもとても魅力的な彼からの誘いを断ることはできなかった。

「あ。じゃあ、ぜひ、いいんですか」

そう答えると、木邨さんの行動は早かった。何を食べるか、何処で食べるか、何時食べるか、そして気付くと二次会とも言うべきところまで来ていた。木邨さんが「小野さんの部屋、使わせてくれませんか」、そう遠慮がちに尋ねたのだけれど、その割りには部屋に入ってから飲み物やつまみを不自然なくらいに手際良く用意し始めたので私には例の噂の真相が余計に気になってしまった程だった。

「トオルの料理は美味いよ」

小野さんは木邨さんの居ない時にそんな耳打ちをしてにやりと笑った。

どういう意味だ、それは。

普段から手料理を食べさせてもらっている仲なのか。もっと深い意味があるのか。前に食べたことがあるというだけの世間話か。自慢話か。

自慢って、なんの?

私は酔った頭で小野さんの会話の意図を考えようと試みたけれど駄目だった。

「そりゃいいですね。楽しみです」
「誘えば、部屋に連れ込んでもらえるよ、きっと」

え?

ぇえ?!

「いやー、木邨さんモテるからどうかなあ?」

へらへら笑いながらそんなことしか言えなかったけれど小野さんはそんなちょっと笑い難いジョークで快くしたのか或いは彼自身も酔って大らかになっていたのか嫌な顔もせずに、ふふん、と笑った。

「やらしい笑い方ですね。なんの話しですか?」

木邨さんが現れた。

手にはビールとつまみが少々。

「いやあ、そんな」

そんな、なんだよ?

無性に恥ずかしくて顔を赤らめている私には説得力が皆無だったろう。時既に遅し、酔っている所為だと木邨さんが思ってくれることを祈るしかない。

「女の子の居る店に行った方が良かったですか?」

木邨さんが小野さんを見下ろしながら少し冷たくそう告げた。

「確かにちょっと、物足りないね」

木邨さんの恐ろしげな雰囲気に負けずに小野さんはそんなことを言った。私は二人の作る険悪なムードに耐えられずに席を外してトイレに向かった。

「小野さんってハルちゃんのこと好きですよね」
「面白いからねえ」

部屋に戻ろうとしたらそんな会話が聞こえた。

私は思わずそこに留まった。

「ハルちゃんの専攻知ってます?」
「知らない」
「“安全を作る”研究だそうです」

木邨さんの言葉に小野さんは、ふふん、とだけ笑って答えた。

木邨さんの言うとおりだ。

小野さんの笑った理由もよく分かる。

私は安全を作る研究をしていた。いかに安全に工場での生産活動を行うか。いかに事故による怪我人や死亡者を減らすか。実際に企業に協力を求めて行う実施試験が楽しみで仕方なかった。

褒められたくて勉強した。

尊敬されたくて進学した。

感謝されたくて研究した。

思えば私は自尊心ばかりの為にこれまで研究してきたのだ。

そして辿り着いた場所がここ。

人を殺して殺して殺して殺して殲滅し尽くした人間が最後に立つ場所。ここでは毎日誰かが死ぬ。毎日誰もが死ぬ。墓石が指標となって明日の糧を授ける場所。

小野さんが、ふふん、と笑う声が聞こえた。

「あのグループに、なんでハルを入れなかったんですか。俺が四部にいた頃にはもっと酷い仕事を山程やらされた記憶があるんですけど」

木邨さんが尋ねた。

『あのグループ』?

なんのことだ。

「僕はトオルのその冷酷なところが好きだね」

小野さんがそう言うと、ビールの缶を開けたのか、カシュ、っと音が鳴った。私は何故かその音に急かされて立ち上がった。

「人を褒める時は、もっと上手く褒めるものですよ」
「僕はどうも君が好きだ」
「ハルちゃんより好きですか?」

暫くの沈黙。

「ハルの幼さは、現実だよ」

『幼さ』?

私は幼いのだろうか。

「あの白々しいくらいの純情が今ここに存在してしまえるという事実が、君の凡庸な冷酷さより劣ることはないだろう。世界にはまだ居るんだね、ああいう人間が。ハルはね、」

それ以上は聞いていられなかった。

私は幼稚なドリーマー。そんなことは知っていた。現実世界に嫌気が差して数字だけで成り立つファンタジー世界に住み着いた。けれど私は現実を棄てる度胸のない小心者だった。私は現実世界を漂うドリーマー。現実の残り香に吐き気を催す貧しい奴隷。

彼らは違う。彼らは現実など棄てて夢など見ないで世界と宇宙を繋ぐ真理を求めるリアリスト。彼らは知っている。世界の現実を無視した圧倒的で倒錯的なファンタジーこそ真に現実世界を席巻していく。彼らは非現実世界を統べるリアリスト。夢の残り香に酔いしれる高貴な支配者。

働きたい。

働きたい。

そう思っていたのは遥か昔のことだ。

アヤが修理を依頼した長刀にはびったり血がこびりついていた。そこに肉片を確認して、私は、吐いた。

その肉片は、私が削いだものだ。

木邨さんと小野さんがどんな関係だろうと、そんなことは私の生活にはなんの関係もない。この最悪な現実の中でそんなことをどうして話していられるんだろう。

今日も誰かが死んだ。

今日も私は殺した。

誰もが死ぬ。

私は誰をも殺す。

小野さんが、ふふん、と笑った。

彼らは特別だ。

リュウもアヤも小野さんも木邨さんも雨宮さんもキザキもユズも澤口さんもハルも真木さんもミズもトシも普通の人間ではない。素手で人を絞め殺してその死体に微笑む連中だ。

私は自分の手の臭いを嗅いだ。

グレープフルーツの石鹸の香りがした。

「おなか、すいた」

お腹が、ぐう、と鳴った。
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鬼原 駿/嘘つきのゲーム

嘘は人を殺す。

嘘が人を殺すって言うのは、何かの例えだと思っていた。今は、しかし、俺はどんな些細な嘘も見逃さないし、誰かの嘘で何時でも人を殺す準備を整えている。

「仕事はどうだ」

澤口さんが尋ねると、リュウは無表情のまま「任務を遂行することだけしか考えていません」と言った。

人形みたいなガキだ。

作り物の人形みたいに空っぽで気迫も熱情も持たない。

「他に痛いところは、ある?」

藍沢さんの質問に、リュウはやはり冷たく「いいえ」とだけ答えた。

よく言うよ。

リュウは貧血で倒れた。昏倒したのだ。昨日の任務でかなり出血したので当然だと藍沢さんは言っていた。真っ青に腫れている指先はこれから回復するのかどうか怪しい。

リュウは氷のように冷たい顔で嘘を吐くけれどその身体は何時でも悲鳴を上げている。

「ダウト」

それはあるカードゲームの言い回しだった。お前は今、嘘を言った、という意味を持つ。

「ダウト?」

面白がったのは雨宮さんだった。

「リュウが嘘を言ったからですよ。違うか?」

リュウを見ると相変わらずの無表情だったが、はっきり「はい。嘘でした」と答えたことには驚いた。俺に服従してはいたけれどまるっきり言いなりになっているようではなかったからだ。リュウのプライドを傷付ける積もりで言ったのに全く通じていない。

リュウの主治医である藍沢さんも驚いたらしく、リュウのことをぽかんと眺めている。

「それ、ヨルにもやってあげてるの?」

雨宮さんはリュウのことには気を留めていないのか面白そうに目を細めてそんなことを尋ねた。

「ヨルに?」
「そう。嘘は身を滅ぼすからねえ。訓練になるでしょ」
「訓練ですか」

雨宮さんはにこにこしながら頷いた。

確かに雨宮さんの言う事は正しい。私たちはどんな嘘であれ敵に見破られればその身を滅ぼすことになる。

ヨルは嘘が苦手だ。

嘘と言わず、話すこと全てが嘘の様に聞こえる呪いにかかっているとしか思えないくらい挙動不審だ。生まれ育った環境の所為らしいが余りに酷い。

嘘を言う訓練。

いずれは行わなければならないだろう。

「その話し、悪くないですね」
「ヨルだけじゃあ可哀想だから、私も参加しよう」

そう言うと雨宮さんはリュウを見た。

「リュウは参加する?」

リュウは雨宮さんの問いに淡白に「はい」とだけ答えた。

「あとは藍沢先生も参加しますよね。あとトシも、かな?」
「え、私もですか」

驚いたのは藍沢さんだった。

「私は、その、嘘は下手な方なんですが」
「だったら尚のこと、いいじゃないですか」
「それは、その、どこかで清算もするってことですよね」
「お、乗り気ですねえ」

藍沢さんは、そういう意味じゃない、という顔をしたが、ぎこちなくやっと愛想笑いだけしていた。

「清算については、まあ、僕が色々と考えておきますよ」

雨宮さんは楽しげに「じゃあ私はこれで」と退室していった。

リュウはやはり表情を変えずに「はい」とだけ答えた。


【嘘つきのゲーム】
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谷田部 愛里/好きな人を捜索しよう

所属の部署くらい聞いておけばよかった。

若手の集まりという名目で開かれた懇親会は予想通り男女での交流がメインとなって合コンとしての意味しかなかった。そこで出会ってしまったらなんだか“その積もり”としか思えなくなったのも無理はない。

二人で抜けたとは言え、何か有ったかと言えばそうではなく、連絡先を交換したのも思えば形式的な流れだった。

どんな人なんだろう?

私の身体がタイプじゃなかったの?

時折垣間見えた冷酷そうな雰囲気は表だったのか裏だったのか。彼の優しさは無関心の裏返しだろうか。


【好きな人を捜索しよう】


「痩せてて、頭が良さそうで、かなり格好良かった。木邨さんって名前なんだけど」

リノは白けた顔でパソコンに何か打ち込んでいる。

「黒髪で、物腰が柔らかくて」

覚えていることはそれくらいだ。リノがこれらのヒントから木邨さんを特定してくれるのかどうか、彼女の表情が冴えないところを見ると可能性は低いらしい。

「すごく格好良かったなあ」
「それはもう聞いた。他にないの」
「優しい人だった」
「他には」

どうだったかな。

「せめてフルネームならね。『キムラ』じゃ大して絞れないよ」
「そうかあ」

メールか電話をしても良いのだろうけれど、ああいう場で得た連絡先を利用するのはなんとなく嫌だ。

下心がありましたって宣言しているようなものではないか。まあ、結果としてはそうなのだとしても。

そうかと言って向こうから連絡が来るとは到底思えないから、何かしなくては進展は望めない。

どん詰まり、と呼ぶ。

「以上です。いくらなんでも情報が無さ過ぎます」

リノが言うならそうなのだろう。

「珍しい名字だから、分かるかと思ったんだけど」
「珍しいって程ではないでしょう」
「そう?」
「『キムラ』だよね?」
「だけど、漢字が」
「『漢字が』?」
「“木邨”って。珍しくないの?」

私はパソコンに彼の名前を打ち込んでみた。検索されたのはたった二人だった。

「そういうことは先に言ってよ」

リノは声を低くしてそう言った。感情を抑える訓練を積んでいる彼女が怒ることは滅多に無い。目の前で恋人が殺されても表情から心拍数まで一切変化させないのが彼らだ。

リノはまだ感情をコントロールしきれないことが時々ある。

だから訓練を続けている。

日常の中でも心拍数や声の抑揚を監視されている彼女を怒らせてしまった。後で彼女には何かが有るに違いない。私の所為で、罰則が。

「ごめん、ほんとうに」

リノは私の謝罪の意味するところに気付いたのか、また数分前の白けた顔に戻った。

「まあいいや。この人じゃないの」

ああ、そうだ。

格好良くて、優しくて、頭が良さそうで、しかし時々冷酷な顔をする人。リノの権限からでなければアクセスできない人。

私は木邨さんの個人情報を眺めながら、欲しかったものを手に入れたような、見なければ良かったという後悔のような、複雑な心境になっていた。

これは、“好きになってはいけない人”だ。

私は深く溜め息を吐いていた。
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蛟 進/ジェリー・ジョン

【ジェリー・ジョン】


ここ最近はキツい仕事もない。

今日は任務で2人抜けているので、ガキ共は4人で訓練しろとのことだった。俺は自分自身の任務がない時はこうして零部のお守りをしなければならない。

「お前は適当でいいよ」

リュウに言うと、彼は涼しげな顔で答えた。

「僕は指示通り動きます」

なんでだろう。

リュウは何時も澄ました顔をしているけれど、それを見る人間は酷く悲痛な気持ちになる。

澤口司令に好かれるガキは皆そうだ。

ユズも相当に表情が硬い方だけれど、見ていてリュウやトシを見た時のような気分になることはない。普通の会社に勤めていれば同僚とはこういう付き合いをしたんだろうと俺は想像する。だからなのか、だけれどなのか、ユズは澤口司令には特別好かれているということはない。

あのガキ共は人間じゃない。

特にリュウは。

「じゃあ1割の力で参加しろ」
「はい」

リュウは多少の抑揚も付けずに首肯した。それは銃弾で眉間をぶち抜いた時のジェリー・ジョンに似ていた。

ジェリー・ジョンは演習に出てくる人質に隊員が勝手に付けた渾名だ。決まった容姿は持たないが裏切って敵に寝返るプログラムを持っている。

裏切られたら迷わず殺す。

現実もそんなもんだ。

リュウが局を裏切るとは思わないけれど、澤口司令が抜けたらそれも分からない。俺はだからリュウと仕事をしたことは一度もない。

「お前って可愛くねえな」

俺が言うとリュウは微かに微笑んだ。

「シンって可愛いもの好きですよね」

なんでだろう。

それは世界で共通の美しさを形にした様な造形をしていたと思う。神の使い。或いは人間を惑わす悪魔。人間らしさとは程遠い禁忌のシンボル。恐ろしいくらい綺麗な死者の親近者。

生命を与え、そして奪う。

俺はやはりこいつとは仕事をしたくないと思った。

「人間は可愛いものが好きなようにできてんだよ」
「深いですね」

リュウは真面目な顔で呟いた。

それは何処かトシに似ているなと思った。

木之下 綾夏

リュウは私の前で時々笑う。冷たい氷細工の様な顔が綻ぶのを見るとドキドキする。

「明日も走行訓練だって」

リュウはタオルで髪の水滴を払うようにしながら言った。金色に近いはずの髪色は黒っぽく艶めいて水を垂らしている。男装するリノよりも長い髪は昔はリュウを女の子みたいに見せたけど、今はそうは思わない。

「じゃあ、私はヨルと組むのかな」
「そうなのかな」

リュウは今まで任務だった筈だから、明日の訓練は午後から参加するのだろうか。どうなんだろうと思ったけれど、リュウはちょっと疲れて見えたのでそれ以上は話し掛けなかった。

「おつかれー」

声の方を振り返ると雨宮さんが居た。その後ろに里見さんとヨルが居る。里見さんは白衣を着ていたけれど汚れて白いところは余り残っていない。雨宮さんと里見さんは二人とも服も髪も全体的に汚れているのに肌が艶々しているところが逆に怖い。

「見てよこれ」

雨宮さんは手に持っていたものを掲げた。

「じゃん」

筒状のものがスイッチを押して長刀に変わった。新しい武器だ。それは光沢のない黒い刃を持っているからなんだか安っぽくて殺傷性を感じさせない。

「ヨルにって思ったんだけど、アヤにいいんじゃないかってヨルが言うから。使う?」
「ありがとうございます」

持ってみると可成り軽い。使い方を聞いて刃をしまったりしてみたけど不気味な仕掛けも有りなかなか面白い武器だった。

「ヨルも長刀欲しがってなかった?」

私が尋ねるとヨルはゆっくり首を振った。

「澤口さんに銃に慣れろって言われて、今は銃器とナイフ使うようにしてるから」

銃は殺す為の武器だから、ヨルは使いたくないのかと思っていた。長い刀は場所を選ぶので使い勝手が悪い上に相手に武器を見せてしまうので私達の仕事には向いていない。銃やナイフは違う。

ヨルは前に警戒されないと攻撃できないと言っていた。

「そっか」

私は他に言葉が見付けられなかった。

それが戦争だ。

私達はテロリストを殲滅する為に働いている。彼らのうち最後の一人が息絶えたその時に絶滅が完成する。

そんな日は来ないのに。

リュウを見ると彼は私達を見て優しげに笑った。

澤口司令、すみません。

私は戦争しているのに男の人を好きになってしまいました。
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室生 悠夜

訓練してもリュウには追い付けないんだと僕は思った。何をしても完璧なリュウがボロボロで帰って来る度に、僕は恐怖に呑まれた。

「死んだかと思った」

僕は本当にそう思った。

澤口司令はリュウを気に入っているけれど、それで僕たちを甘やかす人でもないのは分かってる。

それに、甘やかされたら僕たちは生きる意味を失う。

リュウは僕の頭を撫でた。

「俺が死んでも泣くなよ」

人間とは思えないくらい綺麗なリュウが死んだら、きっと偉い天使が迎えに来るんだろう。それで天使にスカウトするのだ。神様の世界には時間がないだろうから、ミケランジェロが天使になったリュウを壁画にしたり宗教画にしたりしたのかもしれない。

リュウが死んだら僕は泣くだろうか。

僕が死んだらリュウは泣いてくれる気がする。

リュウは僕の癖っ毛で纏まりのない髪を梳かしてその感触を楽しんでいる。トシも僕の髪を触るのが好きたけれど、リュウはそれとは少し違う。

リュウは僕が淋しがりで怖がりなのを知っている。

僕が子どもの時、母は妹を虐待していた。妹が泣く力もなくなった時、母は僕の頭を撫でた。頭を撫でられると当時のことを思い出して辛い筈なのにとても安心する。僕は頭を撫でられるのを嫌がったけれどリュウは止めなかった。

今僕は頭を撫でられるのが嫌ではない。

「僕が死んだら、泣いてね」

僕が言うと、リュウは「そうだな」と優しく答えた。

藍沢 亮司

疼痛の中、俺は子供の頃を振り返っていた。

俺は頭が良かったしその自覚もあった。家庭は裕福で良識のある親を持ち全くの苦労知らずだったけれど、不興を買うような能のない若者ではなかった。未来への展望は限りなく広く、有事下においても国外で遊行する余裕があった。

これが傲慢そのものだと今日まで気付かなかった。

医学を得てからは人の役に立つ仕事をしようと思ったけれど、始めは自分の頭を生かせる仕事ならなんでも良かった。病院勤務とは違うことがしたくて、その為にはここが一番面白そうだと思った。

木邨は最悪だけれど、人間としては俺より真面だろう。

『医者っていうのもいいですね』

木邨は初めて会った時にそう言った。教育枠児童の彼には将来を選ぶ権利がなかっただろうから、俺は後ろめたい気持ちさえ覚えた。

「忙しそうですね」
「ええ、そうみたいですね」
「休みたかったら、何時でもここを使って下さい」

俺が言うと、木邨はにこっと笑った。

「ありがとうございます。でも悪いですから」

初めて会った時に彼を匿ったことで俺は背徳への好奇心を抱いていた。そして何より世界を穎脱した頭脳を持つ青年が唯一心を許せる場所を俺だけが提供できるのだという愉悦は冷静な判断力を鈍らせた。

俺は彼らに慈愛の手を差し伸べた積もりだった。

しかしその手は彼らを谷底へ突き落とした。

僅か9歳のリュウでさえ誰にも心を許すことはなく、ヨルが頼るのは同じ境遇のリュウだけだ。

俺は甘ったれた人間だった。

欲望はなかった。なんでも手に入ったから。

俺の様な世間知らずに彼らが共感したり心を開く筈がなかった。どんなに苦しくてもどんな暗闇の中でも彼らは這ってでも前に進もうと生きてきた。無数の選択肢の中から一番楽な道を呑気に鼻唄交じりに歩いてきた俺は彼らの視界にさえ入るべきではなかった。

だから、こうなったのだ。

木邨の暴力は俺への怒りだ。

俺は鼻にある詰め物を取った。血をよく含んだそれが取れると、奥から再び血が垂れてきた。前にこれだけ血が出る怪我を負ったのは何十年も昔のことだと思う。

俺は自分の惨めさに泣いた。

無知な自分の惨めさに漸く気付いたのだ。痛め付けられて初めて知ったのだ。

木邨が優しく笑いながら諭していたら、きっと俺は実感しなかった。そんな情けないことを今頃になって10歳以上も年下の青年に思い知らされた。

悔し涙は目のずっと奥から溢れてくるのだと知った。
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後藤 直之

生きる意味があるとすれば、それは細やかな希望があること。大いなる野望も革新的展望もない。そして人生のどん底に突き落とすような苦痛もない。この手にあるのは野菜が溶けて甘ったるくなったスープのような希望。

『絶望するな』と文豪が言った。

私には希望がある。それは今日を生きるのには十分なものだし、或は明日を夢見ることのできるものだ。

スープから白くて温かな湯気が上って顔をゆっくり包んでいった。澤口司令はそれを大きめのスプーンで掬ってそっと口に流し込む。

「うん、美味しい」

私は自分でもスープを掬って飲んでみる。

美味しいとは思わなかった。

「ありがとう。私には、普通のスープだけど」

スプーンでカップをぐるりと回すといい匂いが湯気とともに漂ったけれど、それはあくまでよくある平凡なスープのものだ。ホワイトソースを小麦粉から作ったこと以外にはこだわりも工夫もない。

澤口司令は私を見てから破顔した。

「今日は第8管区防衛局長との会食じゃなかった?」

澤口司令の視線に耐え兼ねて私が尋ねると、彼は「そうですよ」と暢気に答えた。

「リュウを連れて行った?」
「何故私と食事を?」
「え?」

私が?

それは、何故って。

私は言葉に窮した。

「そうしたいと、思ったからじゃないかな」

私が苦し紛れにそう言うと、澤口司令は厭な顔もせずに「ありがとう」と言った。

私は澤口司令を利用している。彼はそれに気付いている。

だから、何。

「そろそろ肉が焼けたかな?」

私が立ち上がると澤口司令は「いい匂いがする」とだけ言った。その声にはなんの感情もない。私を冷笑することも疎ましがることもない。彼は怒ったり悲しんだりするべき時に、却って感情が凪いでしまうらしい。

肉の焼け具合を見ると言ってキッチンでふうと息を吐き出すと、澤口司令にすぐ背後から名前を呼び掛けられた。驚いて脈が跳ねた。

「私以外の人間も、よく招待するんですか」

そう言葉を続けながら彼の指先は遊女のように食器を撫でた。澤口司令との食事には使ったことのないカップル向けのペアの食器だ。

その声は、無感情だった。

世界の絶望を見た気がした。

谷田部 愛里

私は人生で一度たりともモテたことがない。10代の頃に女の子が好きになって気持ち悪いとこっぴどくフラれた。20代になってからはいい感じになった上司に奥さんと子どもがいることに気付いた。

「はあー」

思わず溜め息が漏れる。

「相変わらず薄幸オーラ背負ってますね」

振り返るとうんざりした顔でリノが立っていた。訓練の後なのか髪が少し濡れていて気怠そうだ。

「口説かれたのかと思ったんだけど、いま思うと身体が目的だったのかなと思って。はあー」

リノはちょっと驚いたように目を見開いた。長い睫毛をぱさぱさと上下させている。

「ごめん、子どもにする話しじゃなかったですね」

リノはまだ12歳なのに。

「で、ヤったんですか」
「え?」

リノは実験器具でぐちゃぐちゃの机に腰をかけてなんでもないように尋ねた。

「や、やっ、て」

あれ?

そう言えば。

「……楽しく飲んだだけです」

今度はリノがわざとらしく「はあー」と溜め息を吐いた。
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木邨 透

合コンで可愛い女の子を口説いた。谷田部さんは美人ではなかったけれど、何故か俺は彼女がとても気になった。

「木邨さんって、何考えてるか分からない人ですね」
「そお?」

谷田部さんはグラスをくるくる回した。丸い手の甲と長い指は白くてふっくらとしているのでマシュマロみたいだと思った。

「悪い意味じゃないですよ」

嗚呼、その言葉は何度となく聞いてきた。

「じゃあ、褒めてくれたの?」

“悪い意味じゃない”という言葉も、“褒め”言葉も、俺にとっては慣れたものだ。どうってことない。どうだっていい。藍沢さんだけが心の底から俺のことを嫌悪していて、心の上辺を滑るその他の言葉はなんだっていい。彼らには俺がなんだろうと気に掛けやしないのだから。

美辞麗句は聞き流すものだ。

「そうですね。ただ、そう思っただけなんですけど」
「俺は谷田部さんのこと考えてるよ」
「幹事だからって、残り物の私に気を遣っていただかなくても平気です。私、フラれたばっかりだから、あそこに連れ出してもらっただけだし」

谷田部さんはふうと息を吐いた。

「俺もね、一昨日フラれたんだよ」

グラスの氷がからんと崩れた。

「え、そうなんですか」

いいえ、嘘です。

もう来ないでくれと藍沢さんに哀願されはしたけれど、そもそも俺には彼女なんていない。フるもフラれるもない。

でも傷を癒し合うって状況の方が女は好きだよな。

俺はちょっと悲しげに俯いて見せた。

「嫌になっちゃったんだって」
「それは、なんて言うか、強烈な別れ文句ですね」

ちょっと笑ってから谷田部さんは「なんかすみません」と頭を下げた。真っ黒のショートヘアが白い肌にかかる。

「お互い気楽に飲もう」

俺の言葉に谷田部さんは黙って頷いた。

触りたい。

ふっくらとしたこのマシュマロに触りたい。胸はEカップぐらいだな。胸から脇腹、くびれ、腰にかけてのラインがたまらない。綺麗な脚とは言えないけれどすごくキュートだと思う。

どうしたんだろう、酔ってんのかな。

俺は谷田部さんを真似てふうと息を吐いてからグラスを揺らした。

ちょっと動揺して髪を耳にかけた谷田部さんの挙動ははやりどうして可愛く思えて仕方がない。形の揃った楕円の爪は華やかではないけれど、顔の真ん中にありながらその鼻梁は自己主張がないけれど、短くて飾り気のない髪に色気は感じないけれど、その辺の女とは違う気がする。

例えば匂いとか。

「あの、きっといいことありますよ」

谷田部さんはそう言って神妙な顔でうんと頷いた。

いいこと、ね。

嗚呼、でも、おかしいな。すんと匂いを嗅いでみるけど煙草の臭いしかしない。

そうか、やっぱり。

たぶん酔ってるんだな、俺。

「いいこと、ねえ」

あったかもしれない。

「そうです」

谷田部さんはうんうんと今度は力強く頷く。

そうですね。

君に逢えたしね。

谷田部さんは少し長く俺に目をとめてから頬を赤くした。

俺は彼女はやっぱりとてもキュートだなと感心した。

澤口 一樹

後藤が笑うと仕事を忘れたくなる。

神坂 貴祐

とくん、とくん、と脈打つリュウの心臓は、彼がはっきり人間であることを知らしめる。頬はひんやりと冷たかったけれど、首筋は確かに温かかった。

「誰?」

その無機質な言葉が耳に届くより早く、リュウは俺の手首を掴んだ。その指はやはり死人のように冷えている。

「零部のユウ。よろしく」

リュウは訝しんで俺を見た。

「零部?」

俺の手首に絡まるリュウの指はするりと解けた。今度は俺がそれを捕まえる。冷たくて生気のない手は抵抗せずに俺の手に収まった。

「聞いたよ。お前も零部なんだろ」

俺の手首に残る彼の指の痕が、その握力がかなり強いことを示したけれど、死人のような頬と指先はどうしてもまだ冷たかった。

「そう」

リュウは目を伏せて俺の手から逃れた。

「うん、そう。だからよろしく」

リュウは起き上がって「よろしく」と答えた。痣だらけの顔は赤紫や黄土色に染まって、何よりも死人のようだった。

登志

リュウはほんの小さな子どもだった。けれど生きる為に命を懸けていた。

「彼がリュウですよ」

同じくらいの年だと聞いてはいたけれど、僕はなんとなく3歳程は年上だと思っていたのだ。

「はじめまして。登志です」
「はじめまして」

子どもの声。僕と同じ。

「2人で仲良くできますか? 私はもう行かないといけないので」

澤口さんはそう言って部屋から去った。

「働いてるの。凄いね」

僕が言うとリュウは「そう?」と答えた。厭味の無いその返答と仕種は蝶屋の人みたいだなと思った。

そこそこ格式のある娼館は僕の居た地域では花屋台と呼ばれていた。身体を売る女の子たちが“花”。その中でも飛び切り美しいとか特別な芸がある人は“蝶”。だから蝶の居る棟が蝶屋と呼ばれるのだ。

僕は施設の人に売り飛ばされて花屋台で働いていた。

「働きたがってるって聞いた」

黙っている僕に見兼ねたのかリュウが言った。

透き通る白い肌は人形みたいだけれど、話しているところを見て人間なのだと安心する。笑ったりしたらもっと綺麗なんだろう。

「ここで働けたら澤口さんに恩返しできると思って」
「恩返し?」
「2年前に助けてもらったの。花屋台にいた時に澤口さんが身請けしてくれて」
「…そう」

大して興味ないのかな。

僕が花屋台にいたことは余り話さないようにと澤口さんに言われた。けれどリュウにはこんなに簡単に話してしまった。

僕にとって澤口さんの命令は絶対なのに。

「リュウは?」
「なんとなく」
「なんとなく?」
「怜一さんが、いいって言ったから」
「誰?」
「俺の父親」
「え、リュウは被災じゃないの?」
「違うよ」

親がいるのにこんなところに?

「身有りでも働くんだ」
「生きる為には、働かないと」

リュウはそう言った。

凛とした声だった。

僕は親や親族などが生きている『身有り』の子どもを、初めて真っ直ぐ受け止めた。

僕たち『身無し』は、働いたり政府から配給されないと生きて行けない。人に縋って、諂って、顔色を伺って生きて行く。

身有りは甘えている。

だから僕は身有りが嫌いだった。

こんな人間もいたのか。

「身請けされるまで花屋台で色んなものを見たよ。リュウみたいな頭のいい人は、蝶屋に居た」

君のように美しい人は。

「居たことあるよ」
「え?」
「蝶屋」

リュウは平然と言った。

「蝶屋って、蝶屋?」

白い細い指がひくりと動いた。

「あんなところに居て、大変だったね。でもここは、あそこよりも苦しいかもしれない」

隊員は自分の命と引き換えに捕虜を救うこともある。

彼らは死ねと言われれば死ぬ。

崇高な目的の為に死ぬ。

だから借金の返済を夢見て自分本位に生きられる花屋台の方が楽だと言うのだろうか。

あの牢獄の方が?

あそこでは自分が踏まれれば容易く潰れてしまう“花”だと身体に刻み込まれる。あそこでは自分が人間に傅く人間未満の玩具だと自覚しないと心が狂ってしまう。

僕だってそうだ。

花屋台には戻りたくない。

「じゃあなんでここにいるの?」

丸で死にたがりじゃないか。

敵に捕まればまず生きては帰れない。冷酷な拷問を受けて苦痛の果てに死ぬ。

リュウは笑って言った。

「生きる為だよ」

その言葉は神からの啓示のように僕の頭を巡った。玲瓏な響きを以て刻み込まれた。

笑うと余計に人間離れして美しかった。

『生きる為には、働かないと』

リュウは確かにそう言った。ほんの数分しか経っていないのに忘れていたのは、彼をあくまで小遣い稼ぎでもしている身有りの子どもだと軽んじていたからだ。

生きる為に働く。

それは身に染みて理解している。

そんな当たり前のこと、数年前の僕なら鼻で笑った。

彼の言葉が僕の胸を打ったのは、それが僕にとって最も大義ある真理だったからだ。そして澤口さんに拾われてから忘れかけていた真理だったからだ。

リュウを軽んじた。

自分の信念を軽んじた。

だからへらへら笑って働くか働かないかなんて悠長に悩んでいられたのだ。

僕は働きたくてリュウを紹介してもらったのだ。だからここにこうして2人で居る。

「これから、よろしく。僕もここで働きたい」

僕が言うとリュウは「こちらこそ」とだけ言った。

藍澤

検診のことで呼ばれたのだと思った。澤口司令が静かに「リュウが戻った」と告げた時、俺はリュウよりも自身のことで安堵した。

彼らはほんの子供なのに。

血塗れで横たわるリュウを見て、そういう自分を恥じた。

「何か変なところはある?」
「いいえ」

リュウはそれが仕事であるのを自覚して、ただ決められたことを答える。

“はい”か“いいえ”。

彼らは疑わない。自らの存在や正義を。人間性と愛情の意義を。

「所見なし。これから澤口司令のところまで行ける?」

リュウはただ「はい」と答えた。

彼が送った98日間の生活は、きっと俺には想像もできない。しかしそれを甘受して彼は当然のようにここへ戻って来た。

奇跡の生還。

そう呼べばまた月並みに思えてしまうけれど。

第一司令室の前に着くとリュウは漸く俺に声を掛けた。まだ変声期を知らない少年の声だった。

「藍澤さんも来るんですか?」
「うん、行くよ」
「少しだけ、ここで待っていていただけませんか」

茶色の瞳が俺を見据える。

俺はリュウの心を知らない。彼にとって任務がどういうものなのか分からない。自殺未遂をしてもここへ戻って来る訳を考えられない。彼が生きている理由を説明できない。

俺は動揺して笑った。

歪で安っぽい笑いだった。

リュウは黙って俺を見ていた。

「あ、じゃあ、俺はここで、」

リュウは職員としての名簿から名前を消されていた。通信が途絶えて存在を証明できなくなったから居ないことにされた。生命を敵に支配されたから組織として彼の存在に責任がなくなった。

でもここに居る。

彼は確かに存在している。

リュウは拷問されてもここの存在を明かさない。存在を抹消されても忠誠を貫く。

不均衡な関係。

ここはバランスを知らない所だ。

ドアの向こうへ消えたリュウの存在は、俺にとってはその瞬間に不確かになってしまう。リュウが中で死亡しても悼むことさえできない。

『お前は最善を尽くせばいい』

入局する時にそう言われた。しかし今は何が最善か分からない。

怖いのは血ではない。

怖いのは、血の奥に見え隠れする傷の方。
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