話題:突発的文章・物語・詩

夏の季語に《蝉時雨》と云う言葉がある。音韻にも字面にも和の情趣のあふれる美しい表現であるが、その言葉を耳に或いは目にする度、趣の美しさだけでなく、つくづく“云い得て妙”だなと云った感慨を持つ。

改めて説明する迄もなく《蝉時雨》とは、一斉に鳴く蝉の声を雨に見立てた比喩的表現で、水滴と鳴き声の違いはあれど、共に頭上からシャワーの如く降り注ぐと云う共通点がそこにはある。

しかし、そのような比較的イメージしやすい“状態・状況的共通点”の他にも《蝉》と《時雨》の間には実はもう一つ共通点があると私は考えている。

それは先に挙げた“状態・状況共通点に対して“性質的共通点”とも云うべきもので、その共通性は音にある。

時雨とは云うなれば雨の音、つまり雨音(あまおと)であるが、この雨音なるものは、他の音とは少々異なる特殊な性質を持っているように思う。

雨音とは、空から降って来た雨粒が“何か他の物”にぶつかった時に生じる音を指す訳だが、その音質は多岐に渡っている。アスファルトに落ちる雨粒、トタン屋根を叩く雨粒、傘を濡らす雨粒、車に吹き付ける雨粒、それらは何れも違う音である。

雨の音とは、そうした異なる音が幾つも集まって生まれた集合音(或いは全体音)であり、鐘の音などとは違い、複数の音源を持つ“音”である。つまり、一口に“雨音”と云っても、音源の構成次第で変わってくる“不定形な音像”と云う訳だ。

同様に蝉時雨も、一匹一匹の蝉の声を構成要素とした複数の音源を持つ集合音(全体音)であると云えるだろう。

雨の音も蝉時雨も楽譜にする事は出来ないのである。

更に、雨音と蝉時雨には今述べた物の他に、もう一つ共通点があるように思う。

先程私は、雨音は集合音(全体音)であり、異なる音質の複数音源を持つと云ったが、実は異なるのは音質だけではない。

集合音としての雨音(蝉時雨でも良いが)の中には、音源の近いものと遠いものが存在する。

例えば、貴方が雨の街角に傘もささずに立っているとして、その時貴方の耳に届く全体音としての雨音は、貴方の体を濡らす雨の発する比較的近い雨音と、離れた路上に落ちる遠い雨音が入り雑じったものである。

音は発生してから耳に届く迄に時間を要するので、実際にその音が発生してから聴覚で感知する迄には幾らかのタイムラグが存在する事となる。

そう考えた時、いささか大仰な言い方をさせて貰えば、遠くの路上に落ちる雨の音と云うのは、現在ではなく、少し前の時刻に発生した“過去の音”と云う事になる。それに対して、体に落ちる雨の音は(ほぼ)現在の音であると云える。

蝉時雨もまた然りで、近くで鳴く蝉と遠くで鳴く蝉、それら発生時刻の異なる鳴き声が渾然一体となった末に初めて“蝉時雨”と呼ばれるのである。

雨音も蝉時雨も、その、一括りにされた全体的な音像の中に“現在と過去”と云う異なる二つの時間を持つ不思議な存在であるように思え、その共通性こそが、蝉の鳴き声を雨に喩えた蝉時雨と云う言葉をもって私に“言い得て妙”だと云わしめる理由である。

雨音や蝉時雨に包まれた時に感じる、追憶にも似た遠い感覚の理由は、もしかしたら、そのような事によるものかも知れない。

其れにしても、

本来、秋から冬にかけて一時的に降る雨をさす時雨と云う言葉に“蝉”の一語を付け足し、瞬時に時雨を夏の言葉へと変換せしめた先人たちの感性に“粋”を感じずにはいられないのである。


〜終わり〜。


追記。

平仮名の“せみしぐれ”も、花札の短冊にある“あのよろし”(読みは、あかよろし)のような独特の風情を持つ美しい言葉であるように思う。