話題:自作小説


『少年蛍』

第二章【夏の終わりの転校生】。




夕闇の降りて来た川べりの小道で私は思い出したように云った。

「一人だけ‥いたかも知れない」

すると彼女は、不敵な笑みを浮かべて私の腕をポンと軽く叩いた。

「ほらね。私の云った通りでしょう」

「昔の事だからすっかり忘れてた。‥美雪さんに云われて思い出したんだ」

そんなふうに私は、如何にも“たった今それを思い出した”かのような口ぶりで答えたが…それは単なるごまかしで、実は故郷を離れた後もずっと、あの少年の事は心の中に残っていたのだった。


ただ、どうしてもそれを誰かに話す気にはなれなくて‥いや、本当は‥どういう風に話せば良いのか判らなかっただけなのかも知れない。

「‥‥で?」

明らかに彼女は話の続きを聞きたがっていた。

好奇心旺盛なところは間違いなく彼女の大きな魅力の一つだ。そして、一度食い付いたならば容易な事では離れない。

仕方なく私は、記憶の中に佇む古い友人の事を話し始めた。

「友達って云っても…現実、彼と一緒に過ごしたの時間は、僅か一年にも満たないとても短いものだったんだ‥」

「それって、いつ頃の話?」

「中学二年の夏。夏休みが終わって学校が始まった二学期最初の日、彼は私のクラスに転校して来たんだ」

「転校生だったのね‥」


「うん。正直、その時の学校は大変だった」

「え、何で?」

「ほら、此処は見ての通り山の中の小さな村だから‥都会へ出て行く人間は居ても、他から来るなんて滅多にない事だったんだ」

そんな話を続けている内、私達はいつしか雫川に掛かる小さな朱色の橋へと出ていた。

橋には【しずく弁天橋】と書かれている。

雫川を上流に向かって遡った先に【しずく弁財天】と呼ばれる神社があって、恐らくは弁天橋と云う名前も其処から取られた物に違いなかった。

“橋”を“ばし”とは読まずに“はし”と発音するのは、濁点で川の水が濁らないようにと云う、先人たちの洒落っ気も含めた祈りが込められているのが理由であるらしい。

この朱色の【しずく弁天橋】を渡れば、私達の泊まる【月水荘】は、もう目と鼻の先だ。

「なるほど…転校生が来るなんて、此処では大事件だったのね」

「そうなんだ。転校生が来るらしいって噂が朝から学校中に流れてて‥で、妙に興奮してる奴とか逆に冷静なふりして気取り始める奴とか、なんか学校中が変に落ち着きが無い感じで…いま思い出しても本当におかしな空気だった」

苦笑いする私に同調するように、彼女も苦笑いする。

「なんか判る気がする。で、その転校生‥どんな子だったの?」

問題はそこだった。

この話になった時から密かに心の中で考え続けていたのだけれど…やはり、その少年がどういう人間であったかを適切に説明するのは、とても難しい事の様に思えてならなかった。

それでも、ここまで来て何の説明もしない訳にはいかないだろう。

「それを説明するのは凄く難しいんだけど…何て云えば良いのかな…一言で云えば“あんまり人間っぽくない感じの少年”って感じかな」

ああ、我ながら何て下手糞な説明なのだろう。これで納得する人間などいる筈もない。案の定、彼女もと呆気に取られたような顔をしている。

「…何それ?」

彼女の反応はもっともだ。しかし…私は思っていた…どのような説明の仕方をしたとしても“あの少年の本質”からは遥かに遠ざかってしまうに違いないと。いや、遠ざかるだけならば良い。むしろ、自分が拙い言葉で語る事で、あの少年の本質を損ねてしまうのではないかと、私は其れを恐れていたのだった。

そんな想いを知ってか知らずか‥しずく弁天橋の袂で佇む私たちの頬を髪を、夏の終わりの夜風がサァァと優しく撫でて行った‥。

「どう説明したら良いのか判らないけど…透き通るように肌の白い華奢な体躯の少年で、こういう云い方は良くないかも知れないけど、生命力みたいな物をまるで感じさせない子だったんだ」

そう云いながら私は、心の中の彼が少しずつ鮮明な姿で蘇って来るのを感じていた。

「ひょっとして‥何か病気だったとか?」

彼女の言葉は、恐らくは単なる当て図法に違いなかったが…私はそれで、当時、少年に関して或る一つの噂があった事を思い出していた。

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