『少年蛍』 エピローグ【ひとしずく】。

話題:自作小説


『少年蛍』

エピローグ【ひとしずく】



旅館【月水荘】の部屋に置かれている僅か数頁の小冊子。

のどかな山並みとその間を流れる小さな川の景色が淡い和風の色彩で描かれている表紙には和筆で書かれたような字体で「雫川の由来」と記されていた。



―《雫川の由来》しずく弁財天神社に伝わる古い民話より―。





ずっとずっと遠い昔、まだ此の土地に誰も人が暮らしていなかった頃のお話です‥

或る夏の夜、一匹の蛍がこの辺りに迷い込んで来ました。

それは、仲間たちとはぐれてしまった迷い蛍でした。

蛍は水辺を探して、山や森のあちこちを飛び回りましたが、生憎その年は、何年も続いた干ばつのせいで、川と云う川は全て干上がっていたのです。

それでも、その哀れな迷い蛍は水を求め、力の限り飛び続けました。

しかし、蛍が水辺へ辿り着く事はありませんでした。

やがて‥その孤独な迷い蛍は、山の頂きに近い岩場に出ると、遂にはそこで力尽き静かにその身を横たえました‥。

最後に蛍は、仲間たちの事や美しい川の事、楽しかった頃を思い出し、亡くなる間際に一雫の涙を零しました。

すると、その一部始終を夏の夜空から眺めていた満月のお月様が孤独な迷い蛍を哀れんで、同じように涙を一雫落としたのでした。

蛍の零した一雫の涙と満月の落とした涙の一雫は、迷い蛍の亡骸の下で一つの大きな雫となりました。

そして、幾百年の月日を経て‥その小さな一雫は更に大きな雫となり、やがては透明な水を湛えた小さな川になったのでした。

或る時、旅の僧侶が雫川の畔で月を見ながら瞑想していると、遥か昔の光景が脳裏に飛び込んで来ました。

全てを悟ったその僧侶は、懐から筆と紙を取り出すと、美しい字で紙に何か言葉を書くと、川原の石を重し代わりに紙の上へと置いたのでした。

それから少しの時が経ち、此の場所で人が暮らし始めるようになった頃‥或る夏の夕暮れに、数え切れない程の蛍を追いかけていた一人の男の子が、川の畔で大きな石の下に一切れの紙切れがあるのを見つけました。

其処には子どもの目にも判る達筆で、こんな言葉が書かれていたのです‥。



すべてのもの

月光に溶けゆくとも

ふたたびの

逢瀬をかなへる

雫川



男の子は、書かれている言葉の意味はよく判りませんでしたが、何だかこれはとても大切な物のような気がして、紙切れを家へと持ち帰る事にしました。

紙切れを握りしめ家路に着く男の子の周りには、まるで仲間を見守るかのように、たくさんの蛍たちが夏の夜空に舞っていました。

そしてその時から‥

此の川は【雫川】と呼ばれるようになったそうです…。







       

『少年蛍』


全ての終わりにして‥
全ての始まり。



『少年蛍』 最終章【月光に溶けゆくもの】。

話題:自作小説



『少年蛍』

最終章【月光に溶けゆくもの】



【国破レテ、山河アリ】

先ほど書かれた詩の一節に続けて新たにホタルの手で書き足された一節、それは次のようなものであった。


【山河破レテ、心アリ】



書き終えたホタルが口を開く‥

「杜甫は国が滅んでも山や河は残ると云った。でも、彼は其処で終わってしまった。‥僕からしたら、それではまだ不十分なんだ。足りていない…云ってる意味、判るかな?」

「ごめん‥よく解らない」

私は正直に答えた。

しかしホタルは、特に失望した様子もなく話を続けた。

「彼は山や河は残り続けると思っていたみたいだけど…山や河だって、いつかは滅びるんだ。いやそれどころか…星ですら、いつかは寿命を迎えて滅びてしまう事を彼は見逃していた」

私はようやく、少しずつではあるが、ホタルの云わんとする事を理解し始めていた。

「確かに。だけど…杜甫の時代では、星にも寿命があるなんて誰も考え付かなかったと思うな」

私の言葉に、ホタルが小さく頷く。

「判ってる。何も僕は杜甫を責めている訳じゃないんだ。ただ、僕にとって重要だったのは“星が滅んだ後でさえ残り続ける物”で‥僕はそれをずっと探して求めていた。そして‥やはり、それは“心”だと結論したんだ」


「君が云いたいのは“魂”って事なのかな?」

私が尋ねると、ホタルは少し困ったような顔で答えた。

「まあ、そうなるのだろうけど…“魂”って云い方は何だか、やけに大袈裟で自尊心が目に立つ気がして、僕はあまり好まない。それよりは、“心”と云った方が、和らかい感じで僕は好きだ」

「そうかな‥」

「いや、感覚の問題。君が気にする必要はないよ」

ホタルは息を一つ吐いて言葉を続けた。

「正直、僕は…文明や国家なんか、どうなったって構いやしない。まるで興味がない。僕が欲しいのは金輪際そんな物じゃないんだ」

‥なるほど。ホタルが云いたい事は判る。でも‥私は少し違うかも知れない。

「でも…僕らはいま、確かに目の前の文明の中に居て、多くの人たちがその中で必死に生きている。だから‥例え、それが人間が勝手に作り上げた幻想の枠組みで、いつかは消えて無くなる物だとしても‥其処に生きる人たちが、例え刹那の時間であろうとも幸せを感じられる世界であって欲しい‥僕はそんなふうに思う」

云いながらも、私の言葉はきっとホタルをがっかりさせるに違いないと感じていた。しかし、ホタルは逆に微かな笑顔で云った。

「君はそう云うと思っていた」

「えっ?」

「…いや、君ならそう云ってくれるだろうと信じていた」

正直、私は戸惑っていた。

それは、どういう意味なのだろう?

「実はね…」

そう云うホタルの表情は、何時の間にか寂しげなものに変わっていた。

「実はね…僕は生まれつき重い胸の病を抱えていて…幼い頃から、自分が長くは生きられない事を知っていた。少なくとも、大人にはなれないだろう事を。だから、いつしか自然と現実に対する興味を失って行ったのだろうと思う…。目の前にある世界など僕にとって所詮は泡沫。‥僕は、永遠だけを求めていた」

それは、初めてホタルの口から直接語られた彼の真実だった。

恐らく彼の心は、私の考えなど遥か及ばぬところに存在するのだろう。

私は知ったふうな口を利いてしまった事を、少々悔やんでいた。

しかし、ホタルが次に語った言葉は、そんな私の後悔をいともあっさりと引っ繰り返した。

「僕が独りで景色を眺める時‥それはいつも醒めた色をしていた。でも、君が一緒だと‥この虚ろな現実の世界が途端に輝いて鮮やかな色に染まり始める。僕は君と居て初めてこの世界の本当の色や匂い、鼓動を知る事が出来たんだ」

ホタルがそんな事を思っていたなんて、私は全く知らなかった。

「それはたぶん君が、目の前に在る世界を有りの侭に受け入れ、愛していたからなんだと思う‥勿論、僕の事も含めてね。だから、僕にとって君は“今と云う時間を自分が確かに生きている”事を実感させてくれる、とても大切で唯一無二の存在だったんだ…」

私はすっかり言葉を失っていた。

そしてホタルも、それ以上語ろうとはしなかった。

無言の教室に、壁掛け時計の音だけが響き続ける…。

そうしたまま、どれくらいの時が過ぎただろうか…

私は、兼ねてから気になっていた事を思い切って訊ねてみようと思い立った。

「ねぇ、ホタル…一つ訊ねてもいいかな?」

「何だい?」

しかしそれは、どうにも訊ね辛いものだった。それでも自ら賽を投げた手前、ここでやめる訳にはいかない。

「ホタル…君はもう、亡くなってしまったのかい?」

するとホタルは逆に聞き返してきた。

「君は、どう思うんだい?」

私は正直に答えた。「判らない…だから、聞いてるんだ」

しかしホタルは、首を何度も横に振りながら、こんな事を云った。

「そうじゃない、そういう事じゃないんだ。僕が云いたかったのは…“君の中で僕と云う存在はもう消えてしまったのかい?”って…そういう意味なんだ」

窓から差し込む月の光に、僕らの影がゆらゆらと揺れている。

考えて見れば、おかしな質問だった。目の前に居る相手に、亡くなっているかどうかを尋ねるなんて‥。

ホタルは、私が答えるのを待っている。

私はホタルの目を真っ直ぐに見ながら云った。

「そんな訳ないじゃないか。僕の中で君は、ずっと生き続けているよ」

するとホタルは少し頬を崩しながらも、はっきりとした口調で云った。




「なら‥きっと、それが答えなんだ」




それ以上、聞く必要はなかった。

私もホタルと同じく、答えはそれで十分だと感じていた。

「そんな事より‥」

云いながら、ホタルは何故か教室の時計をちらりと見た。
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