話題:自作小説
『少年蛍』
第三章【廃校の教室】
水銀灯のぼんやりとした灯りに浮かぶ夜の山道を私は独り歩き始めた。
右手を流れる雫川の仄暗い揺らめきと、外界を遮断するように聳える山林の木立の他に見えるのは、遥か頭上の夜天幕に散りばめられた色とりどりの星々と、その中で一際大きく輝く夏の満月のみである。
やがて、山道の緩やかな登り勾配が途切れた所で左手の雑木林がぽっかりと口を開けた。
その場所こそ、かつて私が通っていた【深月野(みつきの)中学】だった。
校門の前で一つ大きく息を吐いた私は、緊張と懐かしさを胸に学校の敷地内へと静かに足を踏み入れてゆく‥。
校門は、都会の学校で見られるような車輪の付いたレール式の鉄門では無く、誰でも簡単に通り抜けが出来るようになっている。
不用心と云えば不用心だが、時代と場所を考えれば、それはごく自然な形で其処に存在していた。
校門の先には一棟の校舎があり、その向こう側がグランドとなっている。その【深月野中学】唯一の学舎は、私が小学生時分にはまだ木造りの建物だったが、中学に上がる少し前にコンクリートに改築されていた。
16年ぶりに訪れる母校は流石に当時より古びてはいたが、建物の佇まいなどは昔の面影そのままに残っているよう私には思えた。
建物の何処かが特に破損している様子もなく、廃墟のような重苦しく澱んだ空気は微塵も感じられない。むしろ、つい今し方まで生徒たちの元気な姿で賑わってでもいたかのような穏やかな温もりが未だ其処彼処(そこかしこ)に残っているかのよう感じられる。
とても此処が、一年近く前に廃校になった場所とは思えなかった。
校舎の玄関口まで歩を進めた私が、ちらりと腕時計に目をやると‥長短二つの針は現在の時刻が午後七時半を少し回った事を教えていた。
実は道中、私は懐中電灯を持って来なかった事を後悔していたが…いざ、こうして校舎の前に立つと、思いのほか周囲が明るい事が判り、思わずホッと胸を撫で下ろした。
廃校にも関わらず、何故か校舎や敷地内の電灯は未だ煌々とした光を放っていて、その灯りが【深月野中学】全体を夜の闇から静かに浮き立たせている。
もしかすると、学校としては使われなくなった後も、校舎やグランドは何らかの形で利用されているのかも知れない。
兎にも角にも、この明るさは私にとって大きな救いであった。そして、校舎全面に降り注いぐ満月の光が場の明るさを更に増している事も、大きく私を勇気づけていた。
思いの他の明るさに背中を押されて、ゆっくりと玄関の硝子扉を押すと‥どうやら鍵は掛かっていないらしく、四角い鉄枠に縁取られた重い硝子の扉は、私に押されるままギィーと奥側に開いた。
玄関を入って直ぐの所に立ち並ぶ靴入れ箱の小ロッカーを懐かしく横目に見ながら、いよいよ私は校舎の中へと静かに足を踏み入れたのであった…。
コツ‥
コツコツ‥
リノリウムの廊下を踏む冷たく硬い足音が夜の校舎に響き渡り、反響した己の足音が再び自身の耳にフィードバックされるたび、平衡感覚に乱れが生じ、ややもすると自分の足元すら覚束なくなってくる‥。
それにしても、校内の天井灯までもが灯っているのは意外であった。
とは云え、有り難い事は間違いない。
昼間ほどでは無いにしろ、懐中電灯なしでも何とか躓かずに歩ける程度の明るさがあるのは助かる。そのせいか、不思議と怖さはあまり感じないまま進んで行くとやがて左側に階段が現れたので、私は慎重に足元を確かめながらゆっくりと、二階へと続くその階段を上り始めた。
【深月野中学】の校舎は基本的に一階が一年生の教室、二階が二年生、三階が三年生になっていて、それぞれが四つのクラスに分かれている。勿論、その他にも校長室や保健室など各種の特務室がある。
私が向かう先は三階で、その南端には私とホタルが最後に過ごした三年四組の教室があった。
婚約者の加賀村美雪とホタルの話をした時から、何故だか私は、自分は今夜この三年四組の教室に来なければならない、そんな気持ちになっていたのだった。
やがて三階に出た私は、そのまま廊下を右に進んで行く‥
[3ー1]‥
教室の番号が書かれた札を眺めながら、更に先へと向かう。
[3ー2]‥
天井が少し低く感じる他、は全てが昔のまま何も変わらず在るかのようだ。
[3−3]‥
そして‥
私とホタルが過ごした教室‥[3ー4]。
その扉は固く閉ざされていた。
それまでは朧気でしかなかった自分の中の予感が、此処に来て、はっきりとした輪郭を象り始める。
何故なら、いま通って来た他のクラスの扉は全て開け放しになっていたからだ。
この三年四組の扉は私に開けられるのを待っている‥16年ぶりに、再び。
私にはそんな気がしてならなかった。
しかし、此処まで来ていながら私は扉の前で躊躇っていた。
このまま扉を開けずに帰ると云う選択肢も、私には残されている。
すると、天井の蛍光灯が今にも切れそうな感じでチカチカチカと震えるように小刻みな点滅を繰り返し始めた。
扉を開けるのか、それとも引き返すのか…決断の猶予は、もうあまり残されてはいない…チカチカと震える蛍光灯を見ながら、何となく私はそんなふうに感じていた。
やがて、心を決めた私は‥
16年ぶりに三年四組の扉に手を掛けると、あの頃よりは幾らかぎこちない手つきでゆっくりと横に押し開けたのだった…。