とあるお祖母ちゃんっ子の日記。


話題:バカだなぁとおもったとき

俺のお祖母ちゃんは肩凝りだ。
それも筋金入りの肩凝りだ。

八十年もの間、働きに働き続けてきた肩は岩盤のように硬く、並の肩叩きではまるで効き目がない。

家族の中でお祖母ちゃんの肩叩きが出来るのは俺しかいない。

だから俺は変身する。そして、お祖母ちゃんの肩に思いきりチョップを振り下ろす。

「ああ〜ちょうどいい力加減だよ〜♪」お祖母ちゃんは気持ち良さそうにそう言って、十円玉を二つお小遣いにくれる。

お小遣いが欲しくてやっているわけじゃない。でも、俺がいくらそう言っても、お祖母ちゃんは俺の手にに十円玉を握らせようとする。

痩せ細ったお祖母ちゃんの手はとても温かい。

その温もりを感じる時、俺はいつも思う。

自分が仮面ライダーで本当に良かったと。


いまなら素直にこう言える…。


ありがとうショッカー。

俺を改造してくれて本当にありがとう。


怪人の中にも時々、物凄く肩の凝っていそうなヤツがいて、俺は肩叩きをしてあげたくて仕方なくなる事がある。

でも、今はまだ我慢の時。

いつの日か、世代交代をして次のライダーにバトンを渡したら、得意技のライダーチョップを生かし、町に小さなマッサージ屋を開くのが俺の今の夢だ。


【終】




一分で読めるシリーズ「いわゆるひとつの優・良・不可」(映画の宣伝文句編)。


話題:おやじギャグとか言ってみたら?

よくある、映画における宣伝文句の優・良・不可。


【優】

『全米が泣いた!!』


【良】

『善兵衛が泣いた!』


【不可】

『煎餅が無いだ!』


―――――

「一分で読めるシリーズ」は文芸のヴィダー in ゼリーを目指しています。




「Hey! タクシー!(* ^ー゜)ノ」と言ってタクシーを停めた事はないけれど。


話題:エッセイ


タクシーで“ほぼ目的地”に到着したとしましょう。そうすると今度は“厳密な停車位置”乃ち“タクシーからの降車位置”を決定しなければなりません。

その際、タクシーから降りたい地点が、例えば何かしら目印となるような建物がある場合は良いのですが、問題はそういう目印になりそうな物がない場合です。

そういう時に目印として使われがちな物が“角”であるような気がします。この場合の“角”は“つの”ではなく“かど”と読みます。目印が“つの”であるならば、そこにはサイやユニコーン、又は鬼、般若、つのだじろうなどが居なければなりませんが、そんな場所は滅多にないでしょう。

“角”は改めて言う迄もなく“曲がり角”の“かど”です。

運転手「どの辺で停めます?」

客「ええと…あ、そこの角でいいです」

そんな感じの会話が運転手と客との間で交わされる事はけっこう多いように思います。曲がり角は十分な目印となり得るわけです。

ところが、ここで一つの問題が浮かび上がって来ます。それは、つまり、“曲がり角の手前”で停まるのか、それとも“曲がり角の先”で停まるのか、という二者択一的な問題です。

上の会話で客は「そこの角で」と言っていますが、手前か先かの指定はしていません。という事は、手前と先、どちらを選択するかは運転手の胸ひとつという事になってきます。

曲がり角の手前で停まる運転手。逆に、角を曲がった先で停まる運転手。

経験上、この振り分けはほぼ半々といったところでしょうか。

では、何がこの二つを分かつのかと問われれば、それは恐らく運転手の性格やその時のフィーリングではないだろうか、としか答えようがありません。

実際、タクシードライバーである友人のロバート・デ・ニーロ君(仮称)に、この問題について訊ねてみたところ、彼は「取り合えず俺は角を曲がってから車を停めるかな」と言ったので、更に理由を訊ねると「いや、何となく」という曖昧な答えが返ってきた事がありました。

中には、手前か先かを固いポリシーによって決めている運転手も居るかも知れませんが、多くは感覚的に選んでいるように思います。

ここから先は私見中の私見でありますが…

《曲がり角の手前で車を停める運転手》はタイプ的には“いぶし銀”、サッカーで言えばディフェンダーに向いている気がします。

懐かしのアイドルで言えば中森明菜派。曲がり角の手前で静かに車を停め、降車後ドアがしまる時に消え入りそうな声で「アリガトウゴザイマシタ…」と語りかけてくるイメージです。

ラーメン好きの人で例えるなら、出されたラーメンをそのままの状態で黙々と食べるタイプのように思います。


逆に、《わざわざ曲がり角を曲がってから車を停める運転手》は、タイプ的には“ファンタジスタ”、サッカーで言えばセンターフォワード向きでしょう。

懐かしのアイドルでは松田聖子派。陽気に裸足でペダルを踏んで運転しそうです。心はいつも裸足の季節といった感じで。

ラーメン屋でも、出されたラーメンには必ずコショーを掛けたりラー油を入れたり、自らの手で何かしら“ひと手間”加えたいタイプであるような気がします。



以上、自分でもビックリするぐらい説得力の欠片もない分類をしてみた訳ですが…

果たして、自分の乗ったタクシーは曲がり角の手前で停まるのか?

それとも、角を曲がった先で停まるのか?

日々のタクシーライフを楽しむ為にも、停車場所を指示する際には是非、「そこの角でお願いします」と“人生において、もっともどうでも良い二者択一の問題”を運転手さんにプレゼントして差し上げてみては如何でしょうか?


〜本日のピックアップ文章〜

「鬼や般若、つのだじろうなど…」。


【終わり】。

銀河の片隅で洗濯機を回す。


話題:散文



深夜のコインランドリーに独りでいると、こうしてもう何千年もずっと自分は此の場所で洗濯機を回し続けているような、そんな気持ちになってくる。

小さな窓から射し込む一筋の月光が半ば閉ざされた埃っぽい空間に直線的なプリズムを造り出しながら、机の上にポツンと置かれた少年雑誌に降り注いでいる。いつか誰かが忘れていった少年キングは1974年の発行物で、表紙はとうに失われていた。

奥の壁を背に置かれている年代物の自販機でジュースを買うにはちょっとしたコツが必要だった。

例えば、缶コーヒーを買う為には一段上の烏龍茶のボタンを押さなければならないし、その烏龍茶をが欲しいのならば今度は二段下の二つ右にある不二家ネクターのボタンを押さなければならない。

きっと電気に詳しい誰かが、洗濯を待つ間の暇に任せて勝手に配線をいじったのだろう。

棚上の固定テレビは未だ地デジに対応する素振りを見せず、執念だけで電波を拾い続けていた。

深夜のコインランドリーはまるで銀河の最涯の地のようだ。起きているのは洗濯機を回す孤独な人ばかり。宇宙はとうに深い眠りに落ちている。

備え付けの本棚に置かれた何冊もの古い雑記帳は無口な夜の語り部で、そっと頁を捲るたび、見知らぬ誰かが主人公の小さな追憶の出来事を聞かせてくれる。

例えば

1982年に、誰かが光代さんという女性にフラれて哀しんでいた事。

1975年に、誰かが“ぶら下がり健康器”を買うべきか否か一ヶ月も悩み続け、結果買わなかった事。

2000年に、誰かが“ノストラダムスとはいったい何だったのか?”と呟いた事。


時代をも軽々と飛び超えた、顔も知らない人たちとの不思議な文字の交流に、こんな銀河の片隅でも人は決して孤独ではない事を知る。


右端の乾燥機が《使用禁止》の理由は、そこに小さなオジサンが暮らしているから。オジサンに挨拶されれば、それは常連と認められた証しとなる。


誰もいない深夜のコインランドリーに照らされていると、もう何千年もこうしてずっと洗濯機を回し続けているような、そんな気持ちになってくる。

此処に時間は流れない。

時間は静かに降り積もる。

袖に落ちる白雪のように。



夜の銀河は安らかな寝息の中に。

宇宙はとうに深い眠りについている。


〜終〜。


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