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細胞が変化していく

松村栄子『僕はかぐや姫』を読む。

……の前に、夢をひとつ思い出したので記しておく。
とても大きなサイズの硝子の指輪をプレゼントしてもらう。濃い翡翠のような色をしたそれはまだどの指にも合わなくて、先に嵌める指を決めてくれと言われる。嵌める指が決まったら、そのサイズに直してくれるのだと。
怪我をしている右手の指が良いだろうと思う。薬指が一番細いから本当はそこにしたいが、右手であっても薬指に指輪をするというのは少し勇気がいる(夢の中では)。しかし、人差し指や中指では薬指ほどしっくりこない。美しく見えない……などと考えているうちに指輪はいつしか小さく縮んで、割れていってしまう。
気がつけば卵の殻のように白く乾いたヒビだらけの塵になってしまって、私はそれをさっと隠した。

はい、そんな寝ぼけた頭で『僕はかぐや姫』の残りの部分を読みました。
ちなみにどこで入手したかというと図書館です。まさかあるとは。


 ◆  ◆  ◆


私の数少ない受験生としての思い出のなかにセンター試験の赤本(国語)がある。



よく、国語の教科書は贅沢なアンソロジーだと言われるがだとすれば赤本なんてものはものすごく贅沢なアンソロジーだと思う。初めて読む作品に涙腺が緩んだり、読了したはずの『ぼくは勉強ができない』の問題に、リアルぼくは勉強ができない状態にされたり(ほんとうにひどかった)真面目に解きつつ楽しい時間だった。そんな中にこの作品も載っていて、いまでもそのことは覚えている。
ものすごく読みたくなったというわけではないがなんとなく忘れることもできずに「いつか読みたい」リストの上位には常にランクインしていた。
今回も特別強い気持ちで手に取ったわけではないが、時期的にしっくりきたので読んだ。前置きが長くなった。

まあこの本を読んだから昨日は十八歳になるなんていう夢を見てしまったのだが、現実の私は十八ではなく、当時のままの細胞を抱えてこの物語と向き合うことはできなかった。
たとえばこの物語を読んだのが本当に十七や八の年の頃だったとしたら、私にとって『僕はかぐや姫』という本はとても近い心地で寄り添える、かけがえのない一冊になっていたと思う。ほんとにそう思う。
裕生がこだわる屈折や守ろうとしているもの、遠くから眺めているものはたぶん十八のころの私にとっても共感できる世界だったし、理解することはできる。
でも今の私にとってその世界は、とけ合うにはあまりにも生々しい。


"ふたりの間には一冊の詩集があり、ひとつのセンテンスがあった。
 ──夢は、たったひとつの夢は生まれなかったらという夢だから、贈られるのは嬉しいだろう。
 その言葉は裕生の胸の中で、硝子の触れ合うような音を響かせた。……"

"〈プラ成〉(プラナリアと成増という姓と、もしかしたら〈うらなり〉にも少し由来する)は学ぶ者が師のもとへ足を運ぶのが当然と考えていたので、また自分の城を愛してもいたので、裕生たちは週に二度、教室から最も遠い南棟の一階にある生物講義室に足を運ばなければならなかった。"

(どちらとも本文より)


二ヶ所ともそれぞれ全く接点のない場面ではあるけれど個人的には似たような印象を受けた。
唐突に放たれる表現に一瞬、おいてけぼりをくらってしまう。二、三歩遅れてついていってようやく〈何を〉表しているのかは理解できるのだけど、〈どういう〉ことなのかは暫くわからないままでいる。あるいは考えても答えが出せない。
えぐいほど主観的に書かれているというべきか。

小説というものがもともとそういうものであってさらにそういう書き方をしているからというのもあるのだけど、特に顕著なように感じられる。そしてその特徴が、思春期のエゴみたいなもの(あるいは十代らしい主観性)とよくマッチして青春小説としては相乗効果を増している、のだが。

己の表現だけで(第三者視点ではあるものの限りなく主観的であると思う)事象の全てを記そうとするところに、どこか不気味さというか、幼さというか、思春期のこわいところまでもがリアルに出てきてしまっていて、びびってしまうのだ。
この違和感をうまく表現できなくてもやもやするのだが、文庫版のあとがきでだいたい代弁してくれているのでそちらも読んでほしい。
ちなみにその違和感は、どちかといえば長所だと思う。

ようは私の感覚が、この物語と同じ目線ではいられなくなっている。
陶酔と孤独にこわさを覚えてしまう。
年を取ると食事の好みが変わるように、本を読む細胞も変化しているということ。
そういう自分自身の変化に気付かされた。

主人公も最後にある変化を迎えるが、私はそのことに少しだけがっかりした。というか寂しかった。そうなることは仕方ないしベターだけど、いざ目撃してしまうとなんというか。きつくいえば失望に近いものを感じた。これはあくまで私の嗜好だから物語のよしあしには関係ない。
物語としてはむしろ、最善だろう。

話が飛ぶが私には憧れの女の子がいて、私は彼女が彼女たりえるならどんな道を歩いていても良かった。
でもある日、彼女自身が彼女の生き方を肯定していることを知ってから、憧れは以前のままではいられなくなった。
違う例えをするなら、私はつくりの巧すぎる小説が好きではないし、歌の上手くなった歌手より、つたなく無機質に歌っていた初期の頃の歌が好きだった。


うまくしようとしているものよりも、どこかで歪んでいたり破綻してしまうもののほうが愛しい。
私は裕生に変わってほしくなかったのかもしれないし、物語の終わりを望んでいなかったのかもしれない。
そんなことを思ってしまうあたり私は全然大人ではない。かといってかぐや姫でいたいと思うことも、できる気はしない。


一人称の〈僕〉について。
私は昔、自分のことを〈うち〉と表現していた。名前で呼ぶにはもうそこまで幼くないし、かといって〈私〉と言い切ってしまうのはとても敷居が高いように思えて、気恥ずかしさもあって、〈私〉なんていうのは課題で書く原稿用紙やノートの上でだけだった。
高校生、まさしく裕生と同じくらいの年頃になってようやく〈私〉と名乗ることに不自然さを感じずにいられるようになったのだから彼女たちのことをとやかく言える立場じゃないんだろう。
もし田舎育ちでなければ、方言なんてものがなければ、もしかしたら〈僕〉だったかもしれないのだし。

というか今もたまに一人称を〈僕〉とすることがある。ふざけているという前提ではあるけれど、内心真面目に僕と言いたがっているときもある。〈僕〉という言い方でしかあらわせないニュアンスも、個人的にはあると考えている。
浜崎あゆみも昔テレビでそんなようなことを言っていた。僕、の視点だからこそ歌詞が書けるというか。aikoも〈僕〉で歌詞を書いたときには特別だったとかなんとか。
〈俺〉と〈おれ〉は使い方が少し難しいけど嫌いではない。不評のことが多いけどひらがなの〈おれ〉という呼び方も私は好きだ。
反対にひらがなの〈わたし〉とは最近うまくいっていない。少し距離をおきたい、すれ違い期だ。〈私〉が近すぎず遠すぎず、理性ある距離感を保っている。


作品の内容に戻る。
文芸部の部員が太宰、芥川、三島と続けて名前を挙げたときに〈ほんとに自殺が好きなんだな、こいつら〉とつっこむ場面が好きだ。

あともうひとつ収録されている短編「人魚の保険」もほどよかった(何がだろう?)。
「マイコを好きになったりしちゃダメよ、不幸になるから」という台詞は唐突すぎて何だッ!?と焦ったけどそういうことね。
設定や人物は大きく異なるものの、終わらせたくないから終わりから始める、という少しせつない願望は「僕はかぐや姫」に通じるものがある。


表紙はトーイのひとが書いてるんですね


じつは僕の(ここで使う!)両親がトーイ大好きで、子どもの名前を「二矢ちゃん」(にやちゃん/ヒロインの名前)にするかもしれなかった(ならなかった)。
トーイは僕も(ここでも使う!)全巻読みましたが面白いので皆さん未読なら読んでみましょう。時代を感じさせない素敵な作品だよ。
なんか揉めてスプリンクラー作動させる話と猫がいなくなる話が好き。あと実家編(ちょっとうろ覚え)。ニヤちゃんの制服コレクションも可愛いよ。
トーイはまぁカッコいいですよね主役だし。トーイじゃないほう(名前忘れた)もカッコいいと思いますよ僕は。


なんでトーイの話になってんだよ


『僕はかぐや姫』の単行本は、私と同じくらいの歳だった。出た頃が。
ちなみに赤本で知ったくせにこの本に出てくる「シケ単」の意味がわからなかったあたり、自分の受験力の低さがうかがえる。



『僕はかぐや姫』の章題に「僕にはY染色体がない」というのがあって。



  ◆  ◆  ◆


夢の話をするなら現実のことも書き留めておくべきだろうか。

「あなたがいて何か変わりましたか」と尋ねられる。
いいえ……と答えることしかできない。

細胞は知らずのうちに変化していくけど、そうはいかないこともたくさんあるようだ。
今年の目標ができたからいいじゃない、と私Bが囁いた。






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