へんと言えば初めからへんで、
まず出勤したら「××日にのみ会します/きてね!」という秘密書簡(?)が貼られていて、(全然秘密じゃない)唐突にやってきたすごく久しぶりに会う人がまるまるとした赤ちゃんを抱いていたり、予想外のメールが届いていたり、言えないような面白いことがたくさん起こった一日だった。
当然のことながら一日は二十四時間で終わるため、分刻み・秒刻みでその出来事を処理していくのだけど、ゆっくり思い返して今どっと余韻のリバウンドがきている。
終わってしまうのが寂しく思えるという一日こそ、けっこう久しぶりだったよ。
良いことは、贈り物があったこと。
先日、雑貨屋さんで鏡を買おうとして手に取ったのに、ふと気が凪いでやめた。そうしたら今日になって鏡を貰って、はたしてあれは不思議な予感だったのだろうか。
そしてもうちょっとプレゼントを貰えるらしい。未来形なのは不在配達になってしまったそれを、まだ取りに行ってないから。
それをくれる(推定)人が「手帳の良いこと側のページに書いておいてね」と言ってくれてすごく嬉しかったけれど少し恥ずかしかった……。読まれている……。
あるところから近況を教えてくださいときていたのでこの日記を読んでと軽い気持ちで教えたものの、冷静になって過去のポエジーな記事を読み返しているいま、どんどん冷や汗が出てきて困っている。
……言葉って呪いだもんね……取り返しがつかない……生きてることの証……。
楽しかったのは、とても久しぶりにレポート(報告書)というものを書いたこと。
A4一枚埋めるだけの執筆に夢中になってしまって、文章書くの好きだったんだなと自分のことなのに思い出す感じがして不思議だった。思い出せてよかったね。
手帳に嫌だと書いたような、言葉につまるようなこともいつも通りあるのだけど、今日は言葉で伝えて嫌なことにはさせなかった。
対話は理解に達すると終わってしまう。
――内田樹『先生はえらい』より
大学を卒業するときに貰った本です。ある日ロッカーにぽーんと入れられていて、嬉しかったんですよ。
進んで言葉を病むことでコミュニケーションが回復していく側面が人間にはある、というような段落が途中出てくるのですが、言われてみればなるほどなーと思います。
理解できないから対話になる、じゃあ逆に、嫌だから理解して終わらせようとしているのかな?
と今日、言葉にした自分を振りかえって思ったり。
わかる(と思ってしまう)ことで人は心の自殺を行っているんじゃないのかな。デリカシーを知ってしまうと何も言葉にできなくなる。空気を読むことを知ってしまうと自由をいくつも手放してしまう。距離感を知っているからかえって距離を置くようになる。
何もかもわかってしまうと結果、他者とのコミュニケーションは閉ざされる。
わかる(と思っている)ことと、わかろうとすることは似ているようで違うんですよ。前者は放棄で後者は真摯タイプなの。
私は後者を面倒だなと思ってあんまりしたがらない。わかるということ自体が誤解で、わからないのが本当だと思うけど、ある程度わかっておくほうが楽だからです。ひとつひとつ真剣に考えていくのしんどいでしょ。
けど生きていく上では鈍感な方が、健全だと私は思う。未知も余地も大切ですよ。
わからないということに対してひたむきな姿はわかることを言い訳にしている身にとっては心苦しいものですね。
面白いことがたくさんあって、それらの偶然が特別だと喜べるのは今日という日がひとしお。
五と二と十のつく日。
本日がきりよく二十五回目の誕生日でした。