本当に思っていること、願っていること、しようと考えていることを、打ち明けると、いつも誰からでも「あなたは危ない」と言われます。……おひさしぶりです。
むかし、好きだった人に告白したあと「大丈夫?死んだりしないよね?」って生死を心配されたことを今日ふと思い出したりしました。
……今年は特に、大丈夫? 危ないよ、ってたくさん、人から言われた年でした。告白はしていません。
私は自分が死ぬなんてこれっぽっちも思っていない(死にたいと思うことはよくあるけれど)のに、そんなに危ないよ、大丈夫?ばかり言われるから、もしかして突然死んでしまったりするのだろうか、と思ってしまう。私は本当に「あやうい」人間だと言えるのだろうか、そうだとは、私は必ずしも思わないのだけど……。
いつもと違う感じですか?
……そうでもないですか。
最近投げ遣りぎみです。
傷つきたい。傷つけられてみたい。傷つかずに傷つく方向へ自分を持っていってみたい。私の心なのに歯止めがきかなくなってきていて、でも傷つきたいのは他でもない私自身を防衛するため、みたいな。病んでますね。
でも元気なんですよ。元気は元気。本当なんだけどな……。
そういえばこれ読みました。表紙からばりばりきますね。
自分にとっての危険な読書、ってなんだろう。ね。こわい本なのか、内面を暴かれるような本なのか。優しすぎる本なのか。嫉妬してしまう本なのか。
この本のなかに人が幸せになるための方法が書かれていて、それはもうそれしか方法はないだろうというほど、完璧な答えではあるのだけど絶対に自分には成し遂げられない。とても危険で素敵な方法。その場面は初めて読んだときから今でもずっと、危険な読書体験として私の心をヒリヒリさせています。
ここまで前置きです。長いね。
今年が終わってしまう前にどうしても紹介したい本が三冊あって、それを書き留めておくために今回キーを打ち込んでいます。
三冊とも、揺らいでいる女性のエッセイです。
揺らいでいるとうのは例えばおのれの性だったり年齢だったり、理想と諦念とのはざまであったり、色々あるんですけど、とにかく不穏で不安定。
そんな彼女たちの共通点は〈日記をつけている〉ということ。
あやうい皆さんのエッセイだから今回は「あやうさ」について、長い前置きを書きました。
きちんと読んだものはきちんと感想を書きたいから読み終えてからも寝かせておくことが多いんですけど、だらだらしている間に年末がきてしまいましたね。ようやく紹介します。
今日は一冊だけです、おまたせ。
植本一子『かなわない』
これは新聞の書評に載っていたのを見て知りました。仕事中に見かけて、この本はなんだか良いかもしれないと根拠もなく思い、取りあげていいんじゃないかと、上の人に言ってみたところ……
「いらない。タバブックスってどこだよ」
……私ね、むちゃくちゃ腹が立って、じゃあ買ってやるよ!読んでやるよ!と思って自分で購入しちゃったんですよ。京都の丸善で。丸善かよ!って感じですけど……
だから四月くらいにおそらく読んで、もう八ヶ月ほど経ってしまっていますね。
植本さんのこと私は何も知らなくて、この本から得られた情報しかないのですが、
・カメラマン
・既婚者(夫はラッパー)
・以前、育児エッセイを出した。
・子どもは二人いる
という女性。
このひとは日々のことを日記に書き留めており、日記とみじかい散文を一冊にまとめたものがこちらの本です。
およそ三年ぶんの日記がとじられています。植本さんは女としても母としても揺らぎまくっていて、ぜんぜん完璧じゃない。ぜんぜん不安定。
育児に悩み、ご主人とは離婚したがっていて、夫とは別に恋人もいる。仕事も右往左往、母親との関係もあやうさをともなっていて、心身ともにぎりぎりの生活。
どこからでも読むことができて、どこから読んでも心がぐらつく、そんなエッセイになっている。
〈こんなことまで書き始めて。私は誰に何を知ってほしいと思っているのだろうか。〉
(植本一子『かなわない』「2014年」より)
私は植本さんとは感覚が違う。
はっきり違うな、と思うのは、例えば子どもがいるのに恋人もいるところ。何よりそれを正直に書いてしまうところ――だって夫の名前も、子どもの名前も出しているのに。
そして〈石田さんと結婚するには妊娠するしかないと思い妊娠にこぎつけたが〉――――こういうことを、隠さないところ。何もかも、隠していないところ。
違うけど、この日記は誰しもに〈ありうる〉ものだとも思う。夫がいて子どもがいて、好きな人がい……たとしても、私なら日記にそのことは書かない。書いたとしても公表しない。
でも結婚すればもう好きな人ができないか?と言われるとノーとは答えられない。
この人みたいに部屋で暴れたこと、好きな人とお風呂に入ったこと、母親とうまくいかないことを、私は本にしないだろう。日記は都合の悪いことは書かなくてもいいし、忘れたい思い出は残さない方がいい。でも残さないからといって、ないわけではない。私にだって植本さんの日常みたいなことはある。私でなくとも誰にでもある。みんななら隠してしまうことまで、この日記には良くも悪くもすべてが詰まっている。
私たちが言わないでいるだけのことを、この日記は臆せず言葉にしてくる。
だからこれを読む私たちは決してこの本に「かなわない」のだろうと、思うのだ。
〈書かなければ何も残らずに、全ていつか忘れてしまうのだろうかとも思った。/私はやっぱり、今年も書くかもしれない。そして書くことで誰かを、母を、傷つけるかもしれない。〉
(同上「2013年」より)
彼女は自分のことを守りながら多くのものを傷つけようとしているし、人を傷つけることで自分が傷つこうとしているし、自分が傷つくことで自分やまわりの何かを守ろうと必死になっている。
傷つける自分と傷つく自分には、とても嫌気がさしている……けど、それよりも上回る思いがあるんだろうなと思う。
それってなんなんだろうね。考えずに言うと自己愛なのかなと思うのですが、日記の中の言葉を借りるなら「孤独」や「甘え」なのだろうか。
〈「甘えるって何?」/彼の返事には少しの怒りがはらんでいるように思えた。/「甘えるって……しんどいとか、辛いとか、素直に言えることかな?」/私はそう思っていた。/「違うよ」/彼の目にはすでに怒りがあった。/「甘えるっていうのは、例えば好きな人からもらった指輪をめちゃくちゃにして捨てることだ」〉
(同上「誰そ彼」より)
傷つきたいとか、傷つけたいとか、ただめんどうな言いまわしをしているだけで、結局その対象にどうにかしてほしいだけなのかもしれない。それが甘えだというのは、その通りだと思う。この会話に植本さんは(読んでいる私も)ショックを受けているけど、たぶんこう言われたことも心のどこかでは嬉しかったんじゃないかと思ったりする。……私ならそう思う。
でもね、植本さんは偉いと思いますよ。ひとりで働いているし、子どもも育てているし、生活をしているし。私は子どももいないし結婚もしてないし、彼女にはかなわない。
そして彼女の望みは半永久的にかなわない。かなわないと、とりつかれているあいだはたぶんずっとかなわない。
でも「かなわない」ということが私たちを何よりも生かしていくのだと思う。かなえるためにとか、追いつくために、ではなくて永遠に手の届かない「かなわない」なにかを拠り所にして生きているのだ。彼女は……おそらく私も。