スポンサーサイト



この広告は30日以上更新がないブログに表示されます。

まだ死んでるの?

このごろ車の中でアヴリルを聴いている

今日はなにとなく
「マイ・ハッピー・エンディング」

〈Let's talk this over/It's not like we're dead〉

今日で三月が終わることよりも明日から四月と言うほうがぞっとする。布団の中で夜から逃げて、いつまでただのしかばねになっているのだろう。

(話をしようよ/私たちまるで死んでしまったみたいじゃない)



〈And all of the memories, so close to me, just fade away〉

街角でどきりとする顔に会う。終わりのまま止めて置きたいこと、めぐりあいたくないもの、それらはどれも自分の中に負い目を感じているものばかり。だから幸せを願うことで救われたがっている。
手から離れていった記憶もあれば、わざと捨ててしまった続けられたはずのものもあるけどひと括りに思い出と呼んでいる。

(思い出はどれも私の側にいたのに消えていってしまう)




〈So much for my happy ending〉

人に対するハッピーエンドはエゴ半分だし自分に対するハッピーエンドはどうせ明日がくればまた上書きされてしまうのだ。

じゃあとりあえずもう明日の晩御飯のこととか、歯医者の予約の日とか、買いに行きたいビーズの色とか、そういうことから考えよう。



(ハッピーエンドなんてそんなものだよ)














コイン精米って二十四時間あいてるよね


〈春は曙そろそろ帰ってくれないか〉
       ───櫂未知子

そんな俳句を思い出したのは、深夜の明かりの中に子どもを見つけたあと。
あかあかと灯る光と、大きく響いている子どもの声。どちらも真夜中には似つかわしくないよ。そんな時間に出歩いている私が言えたことではないのだけど。

高校時代に書いた自分への手紙を五年ごしに投函してくれた先生から郵便が届いた。お礼の手紙にさらなる返事をあててくれたのだ。
美しい文字、こまやかな挨拶、丁寧に折り畳まれた便箋。ぴんと張った白い封筒。
そのままお手本として掲示できそうな先生の手紙は、私があてたものとはまるで違っていて、先生は手紙の上でも「先生」として存在していた。
逆立ちしても書けないような手紙を眺めながら、彼女はどうしても私にとって「ふみさん」であるということを実感した。
こういう手紙をいつか書けるようになりたいと思うことは、月が欲しいと泣くよりはいくらか現実的だろう。
(ふみさんとは『ななつのこ』という話に出てくる人の名前です)


という日記を言葉は違えどもう少し長い文面で書いていたのだが、全て消えてしまった。書き直したものもこれまた全て消えてしまった。死んでしまった三千ほどの文字たちを思えばもうだめだ、と、それしか浮かぶものがなかった。
〈春は曙そろそろ帰ってくれないか〉
それは、私に対しても切れ味を持つ言葉だった。誰かのために使わない夜なのに、寄り道をして、小さい子のことにぐびぐびと管を巻いて何をしているのだろう。自分のためにもう帰ろう。

というわけで帰宅したのち新たに日記を書いている。家に戻ると家のテンションになるね。

帰りに桜が花をひらき始めていることを知る。夜に見る桜はこの上なくおそろしい。見上げると殺されてしまいそうだ。


手紙を介して先生ともう一度会ったように、本にも出会いと別れがある。本は生きていて、少し年月をあけて再会したときに「もしかして今、好きな子いるの?」「ちょっと年、とった?」くらいの変化はとげているものなのだ。

吉本ばななさんちの白河夜船ちゃん(だいたい同い年)、今日見かけたとき帯に「映画化!」の文字が踊っていてたまげた。

夜船ちゃんとは真夏の真夜中に、寝ぼけまなこで話をうかがったとき以来だがそんな映画になるような派手な子ではなかったのに意外だった。(しかも不倫してたし)


四月はお別れが待っていて、今からもう寂しい予感を携えて月が変わるのに備えている。犬が亡くなったのも四月だし、君がいなくなってしまうのも四月だ。犬にお花くらいは供えようかな。

春の花でもっとも好きなのはあんずの花です。
〈いきいきと死んでゐるなり水中花〉
      ──同じく櫂未知子
この俳句もすごく好き。


清少納言ってFacebookとか上手そうだよね。紫式部はpixiv派だと思う。




〈あの中で朝を迎えるような恋、と指さしてみるコイン精米〉
     ────あお


おそまつおそまつ。








ぷかぷかマン

【前回までのあらすじ】
親不知を抜歯するよと宣告されるも、まず次の日が休みのときに歯医者いけねぇ(仕事だったり私用だったり)と思い至った私はなんとか抜歯を逃れようと画策していた。しかしミザリーさん(歯科助手さん)の「次どうします?」の言葉につい「ア……木曜きます……」と答えてしまう。そして木曜当日、目が覚めるとAM11:00。午前診療は12:30まで。これを逃すと次は15:00。今日は買い物に行きたいのに!
いったいどうする!?


いまおなか痛くて日本語がきちんと書けないです。ぼくの知る歯医者さんってもっとこう、混みあうのを防ぐために細かい予約時刻みたいなの決められてたような気がするんですが今の所ではそんなこと全然気にしてなくて最近ではもう診察券も出さなくてもいいよみたいな感じで本当にこれでいいんでしょうか。でもいつ行っても人いねーんだ。腕はいい(と思うん)ですけど。

流石に抜歯するって言われといて診療時間ギリギリに行くとかナメてるだろ怒られるよねって思いながら12:00に歯医者にゆく。

天気もいいしUターンして帰りたい……と思った矢先、外に出てぷかぷか煙草をふかす先生の姿をとらえてしまう。
いちゃった……。
なんで診療中に煙草吸ってんだ(患者がいないから)

「あ……あの……今日って何するんですか(抜歯したくない)」
「え? 今日……今日ねえ。何するか考えようや」
「は?」
(この間ずっと煙草をふかしている)

「ば……抜歯しますか」
「抜歯? 抜歯しないよ。抜歯の都合が悪いときは言ってね」
「次の日が休みのときに抜歯がいいです」
「あーそのほうがいいよ。まーとりあえずなか入って考えよう」
(まだ吸ってる)

何のためにきたのかよくわからなかったけど何か別の場所を診察されて終わったのだった

「よし! 俺も着替えてくっか!」
診察後、そう言い残して先生は立ち去ったけど、私は椅子を倒されたまましばらく放置されていた(なぜ)。

ミザリーさんの「次はエキスト(抜歯)ですか?」の問いに「うん、抜けたらいいね!」と答えていた先生。それは抜かなくてもいいってこと? ねぇねぇ!

帰宅してからばたんと倒れて気がつけば夕方だった。そんな切なさ。

夜は恒例であり久々でもある習い事。
今日はしばらくぶりに先輩もきてくれたし後輩ともがんばって話せてよかった。
ちびたちは可愛いですね。思春期なんかこなくてもいいのよ。
もっとがんばってもいいかも、もっと練習したいかもと最近は思えるようになってきたんだけど、そうするためには仕事のことがどうしても関わってくるからどうしようと考えている。でもあと二年もしたらまた状況が変わってくるだろうし、どうしようかなあ。

今年の小さな目標はコンタクトをつくることと、原付を運転できるようになることです。教習所で習ったけどもう覚えてないよ。

ちょっといいなと思ったけど今回は保留

中学の風邪の日に学校さぼって一巻買ったきりだったけど、今回やっと四巻まで揃えた。(約十年ぶり)
一巻買った頃はただがむしゃらに仕事をこなしていく話という認識だったけど、四巻まで通して読むとまた違ってみえた。十年経ったのも大きいけど。
「仕事がんばろう」とか「仕事をすることは素敵だ」とかそういうことを伝えてるものではなくて、なんてゆーかこういう風に大変なときもあるしこういう風に思うことあるよなぁっていうのを見ている気分。
もともと安野さんの作品はどれもスポーティーだしこの漫画はとくにずっと走り続けているイメージがあって、止まらずにバタバタしてるんだけど、そこにもさまざまな思惑や生き方があって、私たちが普段流れ作業的に処理してしまう感情を丁寧に綴ってくれている。
ふりかえる契機をくれる漫画だと思う。

新二とうまくいってほしかったけどな〜でもヒロちゃんと離れたあとの新二のほうがいいと思ってしまうんだよな〜けれどヒロちゃんは新二といるのがいいように感じるの〜
だいたい爽やかに終わるんだけどそれでも仕事で潰れてしまったりうまくいかないケースもあって胸がいたくなりますね
ぼくはガンバレ田中!の回が一番すきです
あとへんしゅーちょーすき
働きマンって七巻くらいまであるのかと思ったらもしかして四巻までなのか



〈また四月が来たよ/同じ日のことを思い出して〉
お店で流れてたの聴いて春の歌ということに気がついた

のどが絞まっていく音が聴こえるか

僕の鞄の中にはサイダーとレターセットが入っている。


……のは、昨日友人と高校時代の先生に手紙を書いたからです。(サイダーはいただきもの)


本当はこのあとにたくさん綴っていたのだけれど、その書いていた日記が何故かすべて消えてしまってかなしい……かなしいね。ゴミのように撒き散らした言葉でも、死んでしまうとこんな気持ちになるのね……


三月は焦れったい季節ですね。
春がくればいろんな人がやってくるでしょ。またたくさんの人と出逢わなくてはいけないし、その関係の中で自分のバランスを保たなくてはいけない。つまらないでしょ。

よくも悪くも一人っ子で、その悪い面がこういう季節には如実に表れてくる。
みんなが新しいものを見つけていくのが私には面白くない。

マスコットとして生きるのはたいへん気楽よ。ヒモみたいに。学生みたいに、生き方に名前をつけてしまうとそこに甘んじられるもんね。
でも人間としてはどんどん退化していく。

でも人間って気持ち悪いしな。
人間が気持ち悪いという自分が気持ち悪いという自分がカッコよくなくて憂鬱が加速しますね。

けど人間って気持ち悪いよ。
赤に青が混ざって紫になるみたいな、人間の思考が混ざって変わっていくのとか流されていくのとか自分も例外ではなくのまれていくの、とても気持ち悪いよ。
ときどき見ているだけでも耐えられない。

手紙とか、日記とか、一方通行のコミュニケーションなら好きなだけしたいのに。

そばにいるだけで息が詰まっていく人がいて、というか勝手に息を止めている自分がいて、でもどうしても息が出来ない。

首を絞めている手は自分の手なのに。


〈封を閉じれないラブレターの様/言えないまま溢れていく言葉は闇に埋もれ〉
(「風招き」より)

なんでこんなアルバムができたんだ?だってくらいこの一枚は突出していいのだ。



メランコリックマガジン

〈完全にだめだと思う生きている夜の海には朱肉の匂い〉

 (穂村弘『回転ドアは、順番に』より)

そんな気分だった朝は、前にバイトしてたとこの店長が夢に出てきて、だいぶ逃避したいんだなと思った。
人の力を借りまくり無事終わってよかったよ。


本屋にて雑誌を拾う。今日はすべて雑誌。

『ギンザ』
ギンザはじめて買った
オリーブ特集ほんとによかった。私も古本屋めぐって探したいよオリーブ
写真に添えられた言葉(というよりめちゃくちゃ長文のときもある)が写真とまったく関係ないようであるようで、ところによれば掌編小説のようでもあり。高度な文学雑誌のようにも思える。
「ママに勝つ!」や「男の子になりたい!」など、純粋な願いによる企画とかも他にないストレートさがあって他にあるあざとさがなくて好き。
ブルー(ズ)、青の特集、痺れました。

『Pen』
こちらは伊藤若冲特集ですね。うちの母がファンなので買いました。若冲は小鳥の絵が可愛い。


『ツモリチサトムック』
これもうちの母のために。はからずもPenと表紙が似ているね?

学生時代オリーブにふれることなく生きてきたけどオリーブみたいな存在があったとしたら雑誌の『CUTiE』だと思う。今はだいぶリニューアルされてしまってまるで違う雑誌のようだけど、古着サイコー!みたいなころのキューティーが好きだった。
この頃ですね
そしてこの表紙はUKIちゃんですね
この号いまも家にあるよぉ〜っ

Zipperもきれいなジッパーになる前のジッパーが好きだった。言い方に語弊があるか。


オリーブってPerfumeの『Spending all my time』のPVみたいなイメージ。
無機質なメランコリック。


このごろ眼鏡をかけてるだけがものすごくしんどい。
そして腰をもっと鍛えたい。そろそろぎっくりいきそう!





前の記事へ 次の記事へ