を見た時、何故か嘘を感じたのと同時に、教典の一節が浮かんだ。一つは、私はライオン達の口の中にいた。私について彼らが自分達の迷いと愚かさが消滅するのを防ぐために企んだ計略に対して、私は彼らの計略どおり争はなかった。私はまったく苦しめられることはなかった。あの者達は私を罰したが私は現実に死んだのではなく、見かけにおいて死んだのである。私は彼らによって恥辱を被されることはなかった。私は恥辱を自分から切り離した(以下略)何故なら彼らの思いは私を見なかったからである。彼らは耳が聞こえず、目が見えなかったのである。しかし彼らは、これらの行うことによって、自分達の上に裁きを下している。『大いなるセツの第二の教え』より。それと、彼(活けるイエス)がこのように言ったとき、私には彼が彼らによって捕らえられたように見えた。そこで私は言った、「私は何を見ているのでしょうか。主よ。捕まえられているのはあなた自信なのですか。十字架の傍らで喜んで笑っているのは誰ですか。彼らが両足、両手を釘で打っているのは別の誰かなのですか」。(以下略)救い主は私に言った。「あなたが見ている十字架の傍らで笑っているのは活けるイエスである。しかし、両手と両足を釘で打たれているのは彼の肉体的部分。すなわち“代価”である。活けるイエスの模倣物として成りたったものを彼らは辱しめているのである。あたはその模倣物と私を区別なさい」。『ペテロの黙示録』不思議と最終話の一護を見た時この2節が浮かんだわ。そして苺花ちゃんの登場をみたとき、マンダ教の葬送儀礼の詩編の一つが浮かんだ。これは長いので省くけど、実はこれが私の中の【BLEACH】のイメージだったりする。強ち間違ってないかも。だってこの10年後って、本当は檜佐木を使った“詐欺End”つまり【BLEACH】は続くって意味のつもりだったんでしょ?で、失敗。久保もビックリだよね。まさか読者によって連載を打ち切られるなんて…。