話題:SS

ガラクタ置場の片隅に、子グマのぬいぐるみが棄てられていました。

それは八月の暑い日で、誰もが幸せになれそうな午後でした。

薄汚れてボロボロになった茶色い子グマは、四角いゴミ置場の無表情なコンクリブロックに背をもたれた格好で、降りそそぐ夏の陽射しに照らされながら黙って空を見上げていました。

藍よりも深い夏の青空を幾つもの入道雲が流れて行きました。

青葉が風に揺れています。

子グマは空を見上げながら、過ごしてきた幸せな日々を思い出していました。

製造工場から街の大きな百貨店へやってきた日の事。ぬいぐるみ売り場の一番華やかな棚に列べられた時の事。そして、母親に連れられた一人の小さな女の子と目が合った瞬間の事。そして、その女の子に抱きかかえられて百貨店を後にした日の事。

あれからもうどれくらいの月日が経ったのでしょう…。

しかし、時計もカレンダーも持たない子グマのぬいぐるみが幾ら考えてみたところで答えがでるはずもありません。

女の子と子グマはいつも一緒でした。微かな寝息をたてながら眠る女の子のあどけない横顔。温かな幸福に満ち足りた毎日。

しかし、女の子は日に日に大きくなり子グマと一緒にいる時間は少しずつ少なくなっていきました。学校に行けば友だちと遊ぶ事が多くなり、塾へ通えば一人で机に向かう時間が増えました。

歳をとらない子グマのぬいぐるみは、いつしか部屋の片隅の棚の上に置かれるようになっていました。この頃にはもう女の子が昔のように抱いてくれる事は殆ど無くなっていました。

それでも子グマのぬいぐるみは、成長した女の子の姿を眺めるのが大好きでした。棚の上から押し入れの中に居場所を移されても、耳を澄ませて女の子の声を聴いていました。

やがて、いつしか女の子は大人の女性になり…八月の午後が訪れました。

ガラクタ置場で晴れわたる夏空を見上げながら子グマのぬいぐるみは思いました。

僕は幸福だった、と。

子グマの瞳のすぐ下に、ひとつぶの水滴が流れ落ちました。

夏の通り雨でした。

きっと…子グマのぬいぐるみは思いました…涙を流す事のできない自分の代わりに夏が、空が、泣いてくれたのだな。

そして、こうも思いました。

今日が、晴れやかな日で本当に良かったと。


遠くからゴミ収集車のメロディが流れてきました。

幸福な八月の午後。緩やかに流れて行く入道雲の間の青空に軽飛行機が一本の白線をひいて姿を消し、それが、幸福な子グマのぬいぐるみが眺めた最後の景色となりました。


それは誰もが幸せになれそうないつかの八月、輝くような午後でした…。


《おしまい》。