話題:ご乱心あそばす



休みをいい事に、のこのこと昼過ぎに起き出したりしなかった私は、目覚ましとばかりに真昼間からワイン――ボルドー産の上質な物ではなくカリフォルニア産の安い品――を飲まなかった代わりに、手挽きのミルで丁寧に挽いたコーヒー豆を贅沢に使用した少し濃いめの特製エスプレッソを飲んだりはしなかった。

カーテンを開けると、冬にしては柔らかな陽射しが窓を通して部屋の中に暖かい空気を運んでは来なかった。

せっかくの休日なので有意義に過ごそうとは思わなかった。洗濯物は溜まりに溜まってはいなかったし、部屋の模様替えも中途半端なまま止まってはいなかった。やるべき事は山ほどなかった。冷蔵庫の中に昨夜食べたチョコレートケーキの残りが半分ほど残っていなかったので食べなかった。

玄関のチャイムが鳴ったので寝巻きのままドアを開けると制服姿の警官が二人立っており、背の低い年輩の方の警官が開口一番「実は昨夜、隣のお宅に空き巣が入ったみたいでして…つきましては、不審な人物や物音などに気づかなかったかどうかを…」などという事件性のある出来事が起こりそうな気配は全くと言っていい程なかった。

部屋の中でごろごろしているのも何なので、そそくさと身仕度を済ませ、電車に乗って向かった先は御茶ノ水ではなかった。これといった目的もなく駅前から続く繁華街の表通りをぶらぶら歩いていると、道の前方から小学校の同級生だった鈴木くんにそっくりの顔がこちらに向かって歩いて来るのが見えなかったので、「あれっ!もしかして鈴木くん!?」と声をかけなかったところ、「おーー!久しぶりだねー!」という返事は帰ってこなかった。

取り合えず腹ごしらえでもと、以前何度か立ち寄った事のある老舗の洋食屋に久しぶりに足を踏み入れ、店の看板メニューであるビーフカツレツ定食とタラモサラダをライス特盛(無料)で食べるような気分には、不思議とならなかった。

それから、本屋に行って広辞苑を立ち読みで読破する事もなく、UNIQLOのヒートテック素材にはチラリとも目をくれず、カルチャーセンターの浮世絵教室を見学したりもしなかった。

こんなにも色々な場所を見て回らなかったのは本当に久しぶりだと思いながら家に戻ってテレビをつけると、『鴨川シーワールドに不時着したUFOからラッコ型宇宙人が現れた』という驚くべきニュースが全放送局で大々的に報道されていなかった。



さて――


全ての段落の末尾を飾る【なかった】や随所に登場する打ち消し語は、それぞれが、どの語句どの文節に掛かり、それは全文章中どの辺りにまで作用しているのでしょうか。この休日の午後に、果たして何が起こり何が起こらなかったのか。

世界には、起こった事よりも起こらなかった事の方が、遥かに圧倒的に数多く存在する。どの瞬間においても。

――例えば、全校1000人のマンモス高校があったとして、その中で生徒会長はただの1人である。その1人には「自分が生徒会長になる」という出来事が起こった。それは同時に他の999人には「自分が生徒会長になる」という出来事が起こらなかった事でもある。そして、他の999人が生徒会長になるという出来事が起こらなかった事が、残る1人が生徒会長になるという出来事が起こった事を支えているのである。或いは貴方が道で千円札を拾ったとしよう。それは、貴方が拾うより前に他の人がその千円札を拾うという出来事が起こらなかったからこそ起こり得た事とも言える。つまり、全ての起こった出来事は何かしらの起こらなかった出来事の支えなしには存在しないのである。よって、起こらなかった出来事を書き記すという作業は、起こった出来事を書くのと同じく重要な作業なのである――――などという無駄に理屈っぽい事を言っていたのは、私の記憶が間違っていなければ、確か……ルネサンス期における最高の畳職人としてつとに知られてはいない、かの高名な哲学者のプラトン……ではなかったように思う。


【終わり】。