話題:突発的文章・物語・詩


リヒゼルシュバウトの冬はとても寒く、あらゆるものが段階的に凍りつく。

まずは草が凍り、花がそれに続く。やがて水辺から徐々に大地が凍り始めると、小さな動物たちは一様にその覚悟を決める。やがて大きな動物が凍り、風が凍り、雨が凍る。吐息と言葉が凍り始めれば、人が凍るのも時間の問題。人間は何処から凍り始めるのか。意外な事にそれは歯である。次に髪と爪。そして全身が凍るのと同時に、リヒゼルシュバウトに散在するすべての音が凍りつく。この先は、もはや時間の問題ですらない。最後に凍るのは、そう、時間だ。

この頃になると、もう何人(なんぴと)もリヒゼルシュバウトの町に立ち入る事は叶わなくなる。町の門が閉ざされている訳ではない。凍りつき、静止した時間の中では踏み入れた足の時間もひたと止まり、それ以上はもう進めない。人は動いている時間の中でしか歩みを進める事の出来ない、そういう存在なのだ。

運悪く真冬にリヒゼルシュバウトを訪れた旅人は、すっかり凍り果てた町の外側でひたすら途方に暮れるより他はない。投げかけた視線すら凍るので、町の風景が瞳に届く事すらないのだ。そういう意味で、リヒゼルシュバウトの真実の冬の姿を見た者は誰一人として存在しないのである。

リヒゼルシュバウトの町が完全に凍りつく期間は昔から二ヶ月と決まっている。故に、リヒゼルシュバウトで暮らす人々の一年は十月と短い。そのせいなのか、この町の人間の寿命は平均よりも少し長めだという。

やがて、時間さえもが凍りついた真冬の二ヶ月が終わりを告げると、始まりとは逆しまの順番であらゆるものがこれまた段階的に解け始め、リヒゼルシュバウトの町は再び動き出す。すなわち、春の訪れである。

だが、ここに一つの謎がある。

時間の凍りついたリヒゼルシュバウトの町になぜ新しい季節が訪れるのか、という問題だ。時が歩みを止めているのならば、季節は永遠に冬のままでなくてはならない。それに対する最も有力な解答の一つに――『凍てついたリヒゼルシュバウトの時間を熔解せしめる動力とは心であり、その中に種火として存在する“愛”の熱なのだ』と――そのような仮説がある。

しかし、心や愛と云ったもの自体がそもそも正体の得がたい謎にみちた存在であるからして、よしんば、この仮説が正しいとしても、リヒゼルシュバウトの冬は、そのすべてが謎である事にやはり変わりはないのである。


【終わり】