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純粋牢

いいですよ、自分そういうの気にしないですから。で、誰っすか?

――山本耕史(三谷幸喜:談)

三谷「君のこと悪く言ってる奴がいたよ」
山本「いいですよ、自分そういうの気にしな(以下略」

※うろ覚えです

で、誰っすか?って即聞くテンポのよさが好きです。好きです。



だけの本ってあるの? と書いた私のあさはかさ。

くだんの日記

あったよ!

前野紀一・斉藤俊行『こおり』


表紙可愛いでしょ。中の絵も色づかいがすごく素敵で、きれいなんですよ。

こおりの不思議にせまる絵本。
中の白いもやもやはなに? 色のついた氷はあるの? 氷ってなに? 海はコオるの?
そんなクエスチョン形式ではないけれど、身近な疑問から壮大なスケールのことまで、「こおり」のことをていねいに教えてくれます。

金魚が吐く泡のなかに〈空気です。〉という一文が入っていたり、分子の姿を手を繋ぐ女の子で表現したりと、言葉と絵がうまくひきたてあっている。言葉もただの説明文とはちょっと違っていていいのですよ。

〈ほかのものを仲間にいれず、水だけでかたまろうとする氷のがんこな性質。〉

この一文すごく好きなんです。
インクを溶かした色水を凍らせても、インクは氷のなかに取り残されて一緒に凍ることはできないんだって。知らなかったよ。
色づけること、他のものと完全にまぜあうこと、は氷に対してはどうやってもかなわない。がんこで孤独な物質。(今日のポエム)


途中でピンク色の雨が降る場面があって、そこもお気に入りです。夢がひろがる。

〈うまくゆかなかったときは、もういちどやってみてください。水はゆっくりこおらせるとかならず透明な氷になります。長い時間と根気がいりますが、透明な氷はかならずつくることができます。〉

氷が好きな人と、夢を追いかけている人、かたくなな人にはこの本を贈るといいと思うよ。


最近読んだのだとこれもよかった。

齋藤槙『ぺんぎんたいそう』

かわいい。至極シンプルだけど楽しい。首をのばして読みたくなる。イエローがいい味だしてると思う。


そして、もう一冊。今日は福音館書店特集ですよ。

松村由利子『子育てをうたう』


タイトルは前から知っていたのだけど、普通の育児書だと思っていた。実は育児に関する短歌をあつめた本。そのことに今日気づき……買ってしまった。

〈揺れながら前へ進まず子育てはおまえがくれた木馬の時間〉(俵万智)

〈吾子と来ておにぎり食べる海の青空の青たぶん今だけの青〉(古谷円)

〈子の目から大粒のなみだを絞りだしいつまでわたしは怒鳴っているのだ〉(森尻理恵)

短歌といえばとかく相聞歌か挽歌か……という歌ばかりに目が行きがちだけど、この本をひらけばどの頁上においても、親たちの研ぎ澄まされた感性が散りばめられている。
するどく優しく、ときに不安定と、さまざまな感情に揺れてはいるけど、歌われている想いはどの歌も一貫したものがあるように感じる。

〈指さして子にものの名を言うときはそこにあるものみなうつくしき〉(早川志織)

この本にはないけど穂村弘さんの歌に
〈指さしてごらん、なんでも教えるよ、それは冷ぞう庫つめたい箱〉
という私がすごく好きな一首がある。
はじめの歌と似てはいるけど、並べてみればその視点は全く別の高さにある。こちらは恋の歌だし。
穂村さんも私も〈子〉どもであること(あるいはそう居させてくれる環境)に愛着を持っているのだと思う。いや、穂村さんは違うかもしれないけど。



〈ママも老いて死ぬよといへばつくづくと子供は泣けり銀の雨の夜〉(米川千嘉子)

この歌につけられたコラムが好きです。純粋な愛情からは一歩離れて、ほんのわずか歪んだ愛情がかいま見える。


急速に温度を下げて凍らせると、不純物が逃げ道を塞がれ氷の中に閉じ込められてしまうって絵本に書いてあった。
今日、あずかりしらぬところで何かがあったらしく、山本耕史みたいに尋ねてみても誰にも言葉を濁されるばかりで、かえってもやもやが心の中に残ってしまった。教えてくれないという反応で、本当なんだと悟ってしまったのは嫌だった。いいですけどね。

今年は泳ぎたいという思いがほのかにわきあがっている。水に潜りたい。









紫陽花のむれからはずれて生きている

おしまいの夏

という題を付けたら、とても私らしいと言われたことがありました。私は瀬尾まいこかな……。




仕事の終わりにふらふらしていたら職場の人に遭遇して、一緒にコーヒー屋さんに向かうことになった。しかし……我々はたどり着けなかった。コーヒー屋さんが消えていたのだ。
そういえばこの前来たとき、カレンダーにでかでかと「Summer vacation!」と書かれていた日付に今日があった気がする。こんなにアイスコーヒーが美味しい時期にSummer vacationをとるなんて!
改装工事のため一時閉店らしい。
私たちもそこで解散した。

家の近くに寄合所のようなところがある。
私の住んでいるところは実は地元ではそこそこ歴史が浅い集落なのだけど、一応私が生まれる前からその建物は存在していたから四半世紀ものではあるはず。昨日その建物が忽然と姿を消していることに気がついて、
「こっ、これがミステリでよく見る(見ない)動く館……!!」
とひとりであんぐりしていた。三日前はあったのに、今はあとかたもなくなっている。
子ども会で使った畳の部屋も、雨宿りをした狭い軒先も、寒さをしのぐために隠れた電話ボックスも、全てが私の記憶のなかにしかもうない。二階建てなのに一度も二階にあがったことがなかった。

紫陽花の歌(和歌)にまつわる何かに携わった記憶がうっすらあって、でも何をどう学んでどう話したのか思い出せない。当時のゼミの先生にメールを送って聞いてみたいほど気になっている。それはなにか、私にとっては魅力的な内容であったような気がする。忘れてしまったけど。


おしまいの夏と名づけるくらい、消えていくものに心を寄せる私もいるけど、消えることは憂鬱だし怖いことだと嫌がる私もいる。


京都にあじさい専門店があるというようなことはずっと覚えていられるのにな。


今はもう手元にない本で、どうして手放してしまったのだろうと少し後悔している。記憶がなくなっていく話だった(と思う)。








記憶A


私……私。
A……私の幼なじみ。
B……その友人。

とある広場。声をかけられて私が顔をあげると、手を振るA。その横で微笑むB。私は数秒おいて、Aに話しかける。


私「久しぶり」
A「やほー」
私「びっくりしたー」

私、Bの方を見て、

私「あ……」
B「あっ…………」

A、私に声をかける。手をあげて、

A「もう行くね、じゃ」
私「うん、またね」

歩き出すA。Bもその場を立ち去ろうとするが、

私「あ……」
B「あ……」
私「……またね」
B「うん」

手を振りあう私とB。
しかし、Aが立ち止まって、

A「え?知ってたっけ?」
(Bと私の二人を交互に指差しながら)

私「……知っ……」
B「………知っ……」
私「えっと」

私「誰?」

A、笑う。Bも苦笑する。

(自信がなさそうに)
B「でも、おんなじ高校だよね……?」
私「……名前おしえて」
B「B」
私「……でも、おんなじ高校だよね……」
(微笑みあう)
A「一年のとき何組だった?」
私「クラスは一緒じゃなかった」
B「うん。でも顔は覚えてるから……」
私「ごめんね」
B「ううん」
私「もう覚えた」
B「うん」
A「よかった」

あらためて別れのあいさつを交わす三人。


閉幕

私がクソということしか伝わらないとおもうのですが私にとってはよい出来事でした。素直に誰?って聞けてよかった。

一年のとき何組だった? と尋ねられて(あっ、Aって同じ高校だったんだ)と思い出した。
この感覚、伝えにくくて書こうかどうしようか迷ったけど(書くけど)Aのことが嫌いだとか仲が良くなかったとか印象薄かったとかいうことはけっしてなくて、むしろAは今までもこれからもずっと覚えている人のなかに入るような存在のはずなのに、高校が同じということに関しては不思議と記憶に信頼がおけなかった。高校の校舎で話した記憶はあるのに、同じ高校だったということにどうしても確証が持てない子だった。
近い昔に一度、Aのことを思い出したときがあって、そのときはじめてその記憶の曖昧さに気がついた。
小学校が同じ、中学も同じ。でも高校だけ記憶が弱い。
同じ高校だったように思うけど、近くの別の高校の制服を着ていたような気もする。

重ねていうが私はAのことが今でもけっこう好き。
でも十代後半のことはよくわからなくて、それがなぜなのかもわからない。魂が少しずつあのころから遠ざかっている。ポエジー。

Bとはまた会いたいと思う。Aはおそらく何もせずともまた会える。

Aのことは中学のときのほうがよく覚えていて、好きなものやことが私と似ているのに私よりずっと器用な子だった。生きるのがうまくて、その点で私とは大きく違っていた。


「いきなり、すぐ、殺さないでね」

辻村深月『オーダーメイド殺人クラブ』


辻村深月は読める周期と読めない周期があって、この本もずーーーーーっと、一年くらいためこんでいて、ようやく読むことができた。
辻村深月が読みづらいのは、読んでいる過程で受ける苦しさが心の呼吸をつまらせるからなのだけど、この人の話はつらくてもただつらいだけのつらいじゃないんだよな。って今回この本を読みながらだんだんと思い出していった。そうそうこの感じ。かさぶたがはがれる喜びまできちんと書きつらぬく、一筋縄ではいかない胸の痛み。
最後にすべて救われるとしても、それがそれでまたつらくてやっぱり辻村深月は読みづらい。希望はないとあきらめたほうが楽なときもあるじゃん。

あの……褒めています。


あらすじ

学校では明るい女子のグループに属しながら、心の奥底では暗く残忍なものに惹かれ、猟奇的な事件に対してひそやかに憧れを抱く少女・小林アン。ある日アンは、冴えないクラスメート・徳川が血の付いた袋を蹴り飛ばす場面を目撃する。袋の中には生物の死体らしきものが入れられており、アンはその出来事に激しく心を揺り動かされる。徳川の持つ本性を知ったアンは、秘めていた願いを彼に依頼する。
「私を、殺してくれない?」
そして二人は前例のない、唯一無二の殺人計画を企てはじめる……。



イカネタバレ!くコ:彡(←イカ)


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くれない

朝起きると昼だった(イリュージョン!)ので朝しようと思っていたことはすべて捨ててしまった。私の毎日はメリハリの滅りで構成されている。メリメリ。
昼から高校へ出かけて部活をみる。慣れてしまってよく考えていないけどこうして文にするとあらたまったことのように感じる。でもこれだっていつもメリメリの内容で、私はとくに何もせず活動に参加しているだけというほうが正しい。私が楽しいからいい。
途中でかわいい高校生が泣き始めてあららとなる。泣かせたわけではなくて色々たまっていたものがあるみたいだ。高校生も生きるのは大変だろうなと思う。夏になるまでが特にしんどいよね。

部活のあとUターンしておもちゃ屋さんへ向かう。トイ○らスなんてもう十数年近く行ってない。職場の人と待ち合わせて仕事で使うためのものを購入。おもちゃ屋さんにはおもちゃ以外のものもたくさん売っていることを学んだ。
買い物が早く済んだので店内をぶらぶらして、近くの休憩所でお茶をのむ。今年はじめてのかき氷を食べながらあーでもないこーでもないとわーわー話す。時間が来たので(私から)ハイタッチして明るく別れる。いろいろ話してしまってけっこうすっとした。

またUターンして習い事の練習に向かう。夜は夜で別のところでやっているので行く約束をしていた。眠たくて運転しかねる。着く前にスーパーに寄って、出店の大判焼を買った。甘いあんこで眠気をとばして英気を養うのだ。

先延ばしにしていた返事をやっとする。するというか
「出る?」
「…………はい(蚊のなくように)」
こんな感じだった。

某講演会が今日あって、毎年この時期にあるのだけどそういえば一度もそのあとの打ち上げに参加したことがないなあと車のなかで思った。何でだろうと考えていたら、講演会を途中で抜けて習い事の夜練に行っていたからだということを思い出した。今もたいして状況が変わってないな。



ごめんねと思うことが多くて、そういうメリメリはなくしたい。ごめんね。




くぼたさんかっこいいです

谷川史子の特集が組まれており、「星の隠れ家」が先生の思い出深い一作という記述を見つけて嬉しくなった。私もあれ好き。


今はこれに入っているけど


私が読んだのはこっち


いちばん好きなのはこれに入っている「春がきて恋をする」。はじめて読んだ谷川作品もそれ。

お風呂上がりに『オーダーメイド殺人クラブ』を、
「私を、殺してくれない?」のところまで読む。

ミステリ・ノート

古本の匂いが苦手で、古本屋に入れない友人がいた。入り口にその人を置き去りにして私はひたすら本を選んでいた。京都にいた頃の話だ。今になって友人の言っていたことが少しはわかるようになってきた。
そういえば、頁から煙草の香りがして、本をめくるたび物語よりも元の持ち主のほうに意識がいってしまうこともあった。香りは心を惑わせる。

同じ香りがして、ある人のことを思い出すという経験をしたことがある。その人がまとっていた香りがそれだったということを、身体がはっきり記憶していたのがすごいと思った。今でも感心しているし、おそらくいまだに覚えている。
なぜ香りばかり話題にあげているかというと、中村祥二『調合師の手帖(ノオト) 香りの世界をさぐる』を読んだためだ。



表紙がいいなと思って手に取ったもの。資生堂のパフューマー(調合師および香りの研究者、開発者)である筆者が、「香り」に関する諸事を解説・紹介し、一冊の本にまとめている。読み物としても素敵だし、知識の源としてもおいしくありがたくいただける一冊。あるけれどない、ないけれどある、かたちあるものよりもう一段階深いところの美しさを追い求めるスタイルとしては『陰翳礼讃』と同じ「香り」がする。

〈……パフューマーは仕事を離れたときは、鼻の感度を落とす方法も身に付けているのだ……〉

訓練されたパフューマーたちは、群衆のなかにいても、香りの源を追ってたった一人のひとに辿り着けるほどの嗅覚を持っているそう。かっこいい。

〈香料では、香調を意味する「ノート」という言葉を頻繁に使う。〉

例えば柑橘系の香りならシトラス・ノートと呼ぶそうだ。ノートとはもともと音楽用語で、香りを音の言葉で表現することが面白い。

文学としての「香り」というなら私が好きなものでいうと梶井の『檸檬』や高村光太郎の『レモン哀歌』のようなきりりとしつつもあやうい、誘発剤としての柑橘の香り。小川未明『野ばら』の、ばらの花をかぐ場面。そして何より天性の香気をまとった『源氏物語』の三人の主人公(光源氏・薫・匂宮)が思い浮かぶ。読書範囲がせまいのはわかっている。
野ばらに関しては『調合師の手帖』の中にもおっと思う(私の推測として)記述があって楽しかった。

香りミステリといえばひきこもり探偵かなぁ
「でも、不謹慎だけどさ、いい匂いだったなぁ。女の人の汗って、男のとは違って妙にセクシーだよね」
(「夏の終わりの三重奏」より)




と思って本棚を見ていたら『双頭の悪魔』が隣に並んでいた。

〈夜、謎が香りをまとって忍び入った。〉



懐かしくなって数頁めくってみたけど、たった数頁読み返しただけでもう最高だってびりびりくる。


思い出せない本のあらすじがいくつもある。
記憶の中で蓋をかぶっている物語たちは香りの記憶に似ていて、忘れていても身体のどこかで覚えている。我々がひとつの香りによって誰かのもとへいざなわれるように、霞んでいた記憶もある瞬間おどろくほどあざやかによみがえるはずだ。今日でいう『双頭の悪魔』のように。


これもある意味香りミステリかなと思って……

日記を書くのを我慢して『調合師の手帖』を読み終えた。でも結局日記も書いてしまって、今から仮眠をとる。明日(すでに今日)はお休みだけど忙しくなる予定。慌ただしい日々が続くなかで同時に待ってもいる。けど待つってなんなのかよくわからなくなってきた。
待つって誰が待つことを認めたら「待つ」になるのだろう。

〈多くの人が知覚できないものがコミュニケーション物質だというのはおかしくはないか、という意見もある。〉

(『調合師の手帖』より)

フェロモンのようなタイプの香りは、その香りがわかる人とわかりづらい人とに大別されるらしい。わからないのにコミュニケーション物質だと定義できるのか、という問題提起の例をここでは挙げている。でもそれはしょうがないよ。あるものはあるのだから。うまくいかなくてもある。うまくいかないね。



そういえば今日の夢は自転車で坂道を上がり続けて、季節外れの桜の下を通り抜けたさきに「おそ松くん駅」があったというものだった。桜は綺麗だった。(おそ松さんは観たことないよ)



香りがついた箱に入っていて、歌詞カードをめくるとアダルトな香りがふわりと舞って当時どきどきした。今でも香るだろうか。