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ミステリ・ノート

古本の匂いが苦手で、古本屋に入れない友人がいた。入り口にその人を置き去りにして私はひたすら本を選んでいた。京都にいた頃の話だ。今になって友人の言っていたことが少しはわかるようになってきた。
そういえば、頁から煙草の香りがして、本をめくるたび物語よりも元の持ち主のほうに意識がいってしまうこともあった。香りは心を惑わせる。

同じ香りがして、ある人のことを思い出すという経験をしたことがある。その人がまとっていた香りがそれだったということを、身体がはっきり記憶していたのがすごいと思った。今でも感心しているし、おそらくいまだに覚えている。
なぜ香りばかり話題にあげているかというと、中村祥二『調合師の手帖(ノオト) 香りの世界をさぐる』を読んだためだ。



表紙がいいなと思って手に取ったもの。資生堂のパフューマー(調合師および香りの研究者、開発者)である筆者が、「香り」に関する諸事を解説・紹介し、一冊の本にまとめている。読み物としても素敵だし、知識の源としてもおいしくありがたくいただける一冊。あるけれどない、ないけれどある、かたちあるものよりもう一段階深いところの美しさを追い求めるスタイルとしては『陰翳礼讃』と同じ「香り」がする。

〈……パフューマーは仕事を離れたときは、鼻の感度を落とす方法も身に付けているのだ……〉

訓練されたパフューマーたちは、群衆のなかにいても、香りの源を追ってたった一人のひとに辿り着けるほどの嗅覚を持っているそう。かっこいい。

〈香料では、香調を意味する「ノート」という言葉を頻繁に使う。〉

例えば柑橘系の香りならシトラス・ノートと呼ぶそうだ。ノートとはもともと音楽用語で、香りを音の言葉で表現することが面白い。

文学としての「香り」というなら私が好きなものでいうと梶井の『檸檬』や高村光太郎の『レモン哀歌』のようなきりりとしつつもあやうい、誘発剤としての柑橘の香り。小川未明『野ばら』の、ばらの花をかぐ場面。そして何より天性の香気をまとった『源氏物語』の三人の主人公(光源氏・薫・匂宮)が思い浮かぶ。読書範囲がせまいのはわかっている。
野ばらに関しては『調合師の手帖』の中にもおっと思う(私の推測として)記述があって楽しかった。

香りミステリといえばひきこもり探偵かなぁ
「でも、不謹慎だけどさ、いい匂いだったなぁ。女の人の汗って、男のとは違って妙にセクシーだよね」
(「夏の終わりの三重奏」より)




と思って本棚を見ていたら『双頭の悪魔』が隣に並んでいた。

〈夜、謎が香りをまとって忍び入った。〉



懐かしくなって数頁めくってみたけど、たった数頁読み返しただけでもう最高だってびりびりくる。


思い出せない本のあらすじがいくつもある。
記憶の中で蓋をかぶっている物語たちは香りの記憶に似ていて、忘れていても身体のどこかで覚えている。我々がひとつの香りによって誰かのもとへいざなわれるように、霞んでいた記憶もある瞬間おどろくほどあざやかによみがえるはずだ。今日でいう『双頭の悪魔』のように。


これもある意味香りミステリかなと思って……

日記を書くのを我慢して『調合師の手帖』を読み終えた。でも結局日記も書いてしまって、今から仮眠をとる。明日(すでに今日)はお休みだけど忙しくなる予定。慌ただしい日々が続くなかで同時に待ってもいる。けど待つってなんなのかよくわからなくなってきた。
待つって誰が待つことを認めたら「待つ」になるのだろう。

〈多くの人が知覚できないものがコミュニケーション物質だというのはおかしくはないか、という意見もある。〉

(『調合師の手帖』より)

フェロモンのようなタイプの香りは、その香りがわかる人とわかりづらい人とに大別されるらしい。わからないのにコミュニケーション物質だと定義できるのか、という問題提起の例をここでは挙げている。でもそれはしょうがないよ。あるものはあるのだから。うまくいかなくてもある。うまくいかないね。



そういえば今日の夢は自転車で坂道を上がり続けて、季節外れの桜の下を通り抜けたさきに「おそ松くん駅」があったというものだった。桜は綺麗だった。(おそ松さんは観たことないよ)



香りがついた箱に入っていて、歌詞カードをめくるとアダルトな香りがふわりと舞って当時どきどきした。今でも香るだろうか。

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