話題:連載創作小説
いざピアノを弾き始めようとして、彼女はふと今の今まで横にいたはずのマスターの姿が消えている事に気づいた。……どうしたのだろう?そう思っていると、それまで店内に流れていたラフマニノフの曲がピタリと止んだ。なるほど、そういう事か。演奏の邪魔にならないよう、マスターはレコードの針を戻しに一旦この場を離れたに違いない。飄々としている割りに細やかなところに気のまわる人だ。
マスターが戻ってくると彼女はその配慮に対し短く感謝の言葉を述べた。この、ちょっとした間(ま)のお陰で、それまで張りつめていた場の空気が少し緩み、彼女の緊張も幾分和らいでいた。
彼女は自分の体に体温が戻ってくるのを感じながら、鍵盤の上の虚空に空気を柔らかく包み込むように手のひらを置いた。そして静かにゆっくり呼吸を整え始める。それは彼女がピアノを弾き始める時に必ず行う、云うなれば儀式のようなものだった。
思えばピアノにはもう七年もの間まったく触れていない。物心のついた時分から毎日何時間も弾き続けてきたピアノとは云え、七年というブランクはそう簡単には埋まらない。
彼女は少し迷った末、曲をエリック・サティの《ジュ・テ・ヴ》に決めた。軽やかな優美さを持つこの曲は、その華やかさの割に難易度はかなり低い。流石に長期のブランク明けで、リストの《超絶技巧曲集》を選ぶ自信は彼女にはなかった。
マスターと常連客たちの見守るなか、彼女はゆっくりと1837年製プレイエルの鍵盤の一つに指を下ろした。
鍵盤に触れた指先に象牙のひんやりとした感触が伝わる。その瞬間。伸びやかな歌声のような美しい音が、蜜を吸った蝶が花弁から舞い上がるように店内に響き渡った。それは、シンギングトーンと呼ばれる最高級のプレイエルに特有の音色であった。
正直、実際にこうして鍵盤に触れる迄、彼女は自分がちゃんとピアノを弾けるかどうか、全く自信がなかった。しかし、彼女の指先は彼女の心はピアノの弾き方を忘れてはいなかった。彼女の白い指先が、まるでそれ自体が意思を持つ生き物であるかのように鍵盤の上を軽やかに舞い、踊った。
そして、気づいた時には彼女は一つの音符をも違える事なく《ジュ・テ・ヴ》を完奏していたのだった。
周囲で小さな拍手が起こる。マスターも常連客たちも、初めて耳にするプレイエルの音色と彼女の見事な演奏に感嘆のため息を漏らしていた。
「いや…素晴らしかったです」
芯から感心したようなマスターの言葉に他の常連客も頷く。
彼女は少し顔を赤らめながら椅子から立ち上がると、軽く頭を下げた。その様子は如何にも、曲を無事に弾き終え、安堵している演奏者のそれであったが、彼女の内心はそれとはまた少し違う事を思っていた。
《続きは追記からどうぞ♪》
鍵盤一つ一つの横幅の狭さと叩いた時の沈みの浅さ。タッチのごくごく微妙な強弱の差でがらりと変わる音色。また、高音部に行くに従って自然とクレッシェンドしてゆく恐らくは古いプレイエル特有の張弦スタイル。それらがもたらす独特の感覚は、彼女がこれ迄に経験した事のないものだった。
彼女は確かにミスをせずに曲を弾き終えた。けれども、それは単に楽譜上に配列された音符と記号の話に過ぎない。この曲と古いプレイエルのピアノが持つ魅力を十分に表現出来たかと問われれば、その答えは間違いなく「NO」であった。但し、それは必ずしも彼女の技術的未熟さのせいばかりではない。
このピアノを弾きこなすには、それ相応の時間と練習が必要となるに違いない。技術的な意味で。そして技術的な課題をクリアしたのち、1837年製のプレイエルが内に宿している独自の世界を感覚としてしっかりと掴む事。それらを経て初めて“このピアノを本当に弾けた”事になるのではないか…彼女はそう思い始めていた。
もしも、このプレイエルを完璧に弾きこなす事が出来たなら、どんなにか素晴らしい事だろう。果たしてそこには、どのような世界が広がっているのだろうか?
見てみたい……その世界を。
それは、彼女がたったいま弾き終えたばかりの曲《ジュ・テ・ヴ》(あなたが欲しい)にも似た焦がれる気持ちであった。
けれども、この、名曲喫茶【平均律】の片隅に置かれているプレイエルは残念ながら彼女のピアノではない。店にはだいぶ慣れ親しんできているとは云え、「時々このピアノを弾かせて欲しい」と頼むのは流石に気が退ける。彼女は完全に自分の心をもて余していた。
ところが、そんな彼女の姿を見るに見かねてか、何処からか一人の天使が名曲喫茶の店内に舞い降りた。そして、天使はひとりの常連の口を借り、こんな提案をしてみせたのだった。
「何だかいま急に思ったのですけど……どうでしょう、こんなふうに時々、彼女に此処でピアノを弾いて貰うと云うのは?」
すると、マスターも「レコード、時々、生演奏か…うん、それはなかなか素敵なアイデアかも知れない」と、天気予報のような台詞で常連の言葉を後押しした。
残すところは彼女の気持ちだけだが、それはとっくに決まっていた。こうして彼女は、名曲喫茶【平均律】で不定期ながらピアノのリサイタルを開催する事となったのだった。開催日や時間は、彼女の都合に合わせて都度都度決めてゆく事にした。
思えば、不思議な運命の運びである。二ヶ月前迄の彼女は、まさか自分が名曲喫茶【平均律】でピアノリサイタルを開くようになろうとは夢にも思っていなかった。
しかし運命の歯車は、回転式オルゴールのように、ゆっくりとではあるが着実に彼女の人生を回し、小さなメロディを奏で始めていた。
ピアノを離れる際、彼女はポンと一つ鍵盤を叩いた。伸びやかな歌声のような音色が立ち昇る。シンギングトーン。彼女は目を閉じ、静かに減衰してゆくその天使のような歌声に耳を澄ませた。
その刹那。
彼女の中で、再び、時計の長針と短針とがピタリと重なった。雨のテラス席に座る孤独な美しい青年と彼女の心の中にある何か。それは、この前よりもはっきりと強く重なり合っていた。
しかし……
音が完全に消えてしまうのと同時に、もう少しで掴めそうだった“何か”もするりと彼女の手から逃げてしまった。
いったい……あの青年はいったい何処に消えてしまったのだろう。
まさか数日後に“思わぬ形”であの青年と再会する事になろうとは、この時の彼女は想像すらしてはいなかった…。
〜9へ続く〜。
おっ!非常に良い事を言った!\(◎o◎)/
「音の色を見る」「音の匂いを嗅ぐ」
これは、この話の本質に限りなく迫った言葉だ♪( ☆∀☆)
そこから、関係を紐解いて行けば美青年の正体に迫れるかも知れない……いや、やっぱ、まだ無理かな(笑)ヾ(*T▽T*)
まあ、その辺は徐々に…という事で♪f(^_^;
彼女がプレイエルを弾く場面はちょっと気を使ったので、そう言って貰えるのは嬉しいな♪但し、ここはまだ途中の段階なので、描き過ぎないように、やや抑えてはいるんだけど(/▽\)♪
【見えていない客】も勿論いるよ〜♪(笑)
基本的に私は【見える世界】と【見えざる世界】が重なり合う場所(場面)を書くタイプだから……って、それ、どういうタイプだ?(笑)(*≧∀≦*)
因みに、
マスターは、具志堅さんでOK!♪ヽ(´▽`)/
もしくは、藤村俊二さんが少し若くなった感じかな♪
彼女がプレイエル弾く場面、綺麗だった!!
蝶が翔んだ軌跡にダイヤモンドダストがキラキラ舞って・・天上の音楽会みたいで☆宮沢賢治も絶対聞きにきてたはず♪共感覚がある人が羨ましい!実際に音の色が見えたり、音のにおいを知る事が出来るそうだから☆エンジェル様どうか私めに共感覚を授けてください(笑)
あ、共感覚は無いけど彼女の十枚の爪が桜貝みたいに可憐だったのは見えました(笑)
《見えていないお客様》ってホントにいたんだ(☆o☆)ミケランジェロが描くようなほっぺ薔薇色、目がクリクリ、おしりプリプリの愛らしい赤ちゃん天使だったんだろうな〜(*^_^*)
彼女の手からするりと逃げていった「なにか」・・金魚すくいを思い出すなあ*すいすい遠くまで泳いで行ってしまう・・
天気予報のような台詞
ここでマスターのイメージが、藤田嗣治から具志堅サンに変わったんですけど!!(笑)
なんか身のこなしも瓢々してるしsaO(>▽<)O
プレイエルが内に宿している独自の世界
これは流石に、美青年と話をしないと掴めないんじゃないのかなあ・・ハード面はクリアできても、ソフト麺いやソフト面つまりプレイエルの内側に広がる世界に、たった一人で辿り着くのは非常に困難だ。案内人がいないと。ということは叔父さんは美青年と話したことがあるんだろうな、多分・・
美青年は異性欲、金欲、名誉欲に捕り憑かれている人ではなく、純粋に音楽の道を探求している人の前だけに姿を現すんだろうなあ・・
あ〜!!プロフェッショナル仕事の流儀早く見たいッス!!O(>▽<)O