話題:連載創作小説


名曲喫茶というのは、どこか“店そのものが客を選ぶ”といったようなところがあり、馴染みのない者にとっては少し入りづらい雰囲気を持っている。それは彼女とて例外ではなかった。

しかし、さほど日を置かずして二度店を訪れ、そういった“敷居の高さ”が心の中から取り払われたせいか、その日を境に彼女は、足しげくと迄はいかないものの、時おり名曲喫茶【平均律】の扉をくぐるようになっていた。

勿論それは、もう一度あの青年に逢いたい、という想いから生まれた行動であるが、それが全てかと云うと必ずしもそうではない。

何より彼女は、名曲喫茶【平均律】の落ち着いた雰囲気がすっかり気に入っていた。ゆったりとして進む時間も、彼女の心に深い安らぎを与えてくれた。他ではまず聴く事の出来ない極めて希少価値の高いクラシックの名盤や珍盤がたまに掛かるのも彼女には大きな魅力であった。

そういった幾つかの理由が彼女の足を、この古い名曲喫茶へと運ばせていた。

マスターや常連客の何人かとは、ささやかながらも言葉を交わす程度の間柄になっている。いつしか彼女は店に溶け込み始めていた。

店で過ごす時間は、自分がどれほど音楽を愛しているのか、そんな事を改めて彼女に思い出させていた。

思えばこの七年、彼女は仕事以外の場所では意識的に音楽を遠ざけてきたようなところがある。クラシック音楽はとくに。

初めの頃はピアノを辞めた彼女のもとにも音楽学校時代の友人や同門の仲間から演奏会の招待状が届いていたが、何かと理由をつけ断り続けているうちに、いつしかそれも途絶えていた。それでいい、彼女はそう思った。

そうして彼女は、それまでにいた世界から完全に切り離された別の世界の住人となったのだった。

しかし、【平均律】で過ごす時間は彼女の心のわだかまりを、ゆっくりと溶かし始めていた。穏やかな春の陽射しが冬の冷たい根雪を少しずつ溶かしてゆくように。

この場所は、かつて彼女がいた世界とも、現在彼女がいる世界とも違う、第三の世界であるように彼女は感じていた。そこでは音楽が目標でも仕事でもなく、親しい古い友人のような存在として、人と親密な関係を結んでいる。それは新鮮であると同時に不思議と彼女の心を和ませた。

人には“しっくりくる場所”というものが存在する。或る人間にとってそれは田園風景であり、また別の人間にとっては超高層ビルの建ち並ぶ大都会の空間がそうだったりする。彼女にとって、時代遅れの名曲喫茶【平均律】はまさにそういう“しっくりくる場所”であった。


《続きは追記からどうぞ♪》