・
寄せられた数多の報告や陳情を吟味していたら少々疲れた。
今にも崩れそうな紙の山を横目で見遣り、政宗は溜め息を吐いた。
「止めだ、止め!」
言い放って立ち上がる。
いつもならそんな政宗を引き留める小煩い監視役が今は居ない。
従って政宗は何の障害もなく屋敷の離れへ向かう。
足取り軽く。
出入り口の馬廻りに手を上げ、部屋の中へ踏み込むと焚きしめた香が漂った。
政宗自身が纏う香と同じ匂いだ。
だが、そこに要るはずの部屋の主が居ない。
さては庭か、と目を向けた先の後ろ姿。
何のことはない、庭に咲いた花へ水を遣っている。
しかし政宗は浮き足立っていた思考が冷えて行くのを感じた。
「おい、何やってる」
低い声が出た。
部屋の主が政宗に気付き振り返る。
群青の着流しに身を包む、探し当てたのは政宗が燃え落ちる寺から苦労して奪った戦利品、織田信長だった。
信長は政宗の不機嫌を感じ取ったのか、一瞬だけ訝しむ表情を見せた。
政宗はそれが気に入らない。
持っていた杓を水の張った桶へ戻し静かに手を離すのも気に入らない。
「今日は随分早いのだな」
と、掛けられた声さえも。
「俺が来ちゃあ都合が悪かったか、信長。見られてまずいことでもしてたか」
「そのようなこと、ありはせぬ。ただ花に水を───」
「As if you didn't know!」
苛立ちそのままに政宗は庭へ駆け下りる。
視線は突然の激昂に身を竦ませた信長の背後へ。
そこに在るは、五芒を象る青紫。
膝丈ほどのそれは瑞々しく濡れた花弁を揺らす。
政宗は溢れんばかりの憎悪を抱き、まだ咲いて間々ないそれらを、信長が水を遣ったばかりのそれらを、乱暴に踏み潰した。
「あっ」
「ここは俺の土地だ。勝手は許さない。こんなもの育てやがって!」
「何を言うか、この花は」
「他に目を向けるのは許さねぇ。俺だけ見てろ。てめぇは───」
怒りに任せて信長の顎を取り口接け、短く宣告する。
「俺のもんだ」
無理矢理の接吻にも信長は抵抗しなかった。
ただ政宗のぎらりとした目に激昂の理由を探っていた。
見えるは嫉妬の嵐。
一つ、信長は瞑目すると、腰に回され身体を這う政宗の腕を掴む。
「……言われずともそんな事は承知している。だが続きは部屋の中だ。行け、足を拭いてやる」
視線を下ろせば土に汚れた政宗の足。
政宗はそれにようやく気付くのだ。
心地良い充足感の中で目を覚ました。
見慣れた離れの天井が視界に映り、昨夜を思い出して政宗は隣にあるはずの温もりを意識する。
だがいくら手を伸ばせども、届かない。
「信長?」
空を掴む不安に跳ね起きる。
「信長!」
まだ温かい。
どこだ。
一つ、思い至った場所は政宗の不安をより増大させ、充足感の失せた心は乱れる。
地に落とした五芒。
汚した紫。
信長を奪おうとした男を象徴する憎々しい花。
信長がその側に居たというだけで、政宗は逆上を抑えられなかったのだ。
吐き気さえ催すその忌々しい場所を、しかし、否定出来ずに唇を噛み締めた。
夜着を投げるように退け、ふらつきながらも立ち上がる。
数歩進めば中庭への襖。
伸ばした指先に触れるや否や勢い良く開け放った。
既に日は明けきり、光は政宗の隻眼へ眩しく飛び込んで来る。
果たして。
信長は、そこに立っていた。
危惧した通り桔梗の側に。
踏み荒らしたはずのそれが綺麗に整えられていたのを見てしまえば、あとは激情に任せて怒鳴るだけだった。
「何で……どうしてだよ!」
そんなにそいつが良いのか。
あんたは俺のもので、あんたも頷いたじゃないか。
何故俺を見ない。
俺だけを見ない。
「俺は、俺はっ……」
政宗は目の前の光景を凪払おうと腕を振るが、力を失いよろめいて膝を付いた。
信長が慌てたように駆け寄り、それを支える。
見上げた先の信長の顔が滲み、政宗は顔を歪め俯いた。
「……俺にはあんたしかいない」
ぼそりと零れた言葉は幼い子供の様で。
信長の指に頬を拭われ、政宗は伝い落ちる涙を知る。
何と女々しいことだろう。
これでは信長も鬱陶しく思うに違いない。
蔑むだろうか。
嫌うだろうか。
「悋気だけは一人前、か。奥州の竜の名が聞いて呆れる。貴様は何も分かっておらぬ」
だが、信長はそう言いながら政宗の背中へ腕を回した。
「過去は既にない。業火に消え失せたのだ。ないものについて考えることは出来ぬ、そうであろう?」
「じゃあ何であの花を大事に育ててんだよ」
政宗は嘘を許さない目で信長を見る。
信長はさらりと笑みを浮かべた。
「花はどうでも良い。大事なのは根だ。あれは薬になる」
言われて政宗は思い出す。
確かに桔梗根は喉に効くと書物で読んだ。
しかし本当にそれだけだろうか。
他意はないのだろうか。
「喉が痛いのか」
「……そうだ」
探る眼差しを向けると信長の視線はそっと逸らされ、何を考えているのか読めない。
それでも、信長は言った。
「他に何もない。貴様だけだ、政宗」
何時になく愛し気に名を呼ばれた政宗は、だから丸呑みする。
透明な涙を一筋、零しながら。
――end