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「稲…‥」
「……………‥」
忠勝は囚われとなった娘の名を呼ぶ。
だが稲姫はき、と忠勝を睨み付けまま、返事すらしない。
「い…‥」
「徳川を、殿を裏切った人を父に持った覚えはありません!気安く私の名を呼ばないでくださいっ!!」
「……………‥」
ぷい、と顔を背けながらの稲姫の言葉に、忠勝は黙り込む。
其れを見た長秀は、深い溜め息を吐いた。
そして、長秀だけで無く、周りの織田家臣や昌幸、信之、幸村も稲姫の頑なな態度に、溜め息を吐いた。
「御主は、何処まで阿呆なのだ?」
「なっ!?」
突然の昌幸の阿呆呼ばわりに、稲姫は一瞬で不愉快な表情をする。
「貴様の其の顔、何かを言う度、そんな不愉快そうで相手を見下す表情、もう、見飽きたわ。」
「貴方こそ、人を見下す様な言い草ではありませんか。他人を非難する前に、自身の態度を省みたらどうですか?不快です。」
あくまで、自分の傲慢さを省みようとはしない稲姫。
既に、誇りを通り越して、傲慢と化しているのに、其れすらも気付かない。
そんな稲姫に、昌幸達はあからさまに不愉快さを表情に露にした。
「忠勝殿は、何も裏切っておらぬ…‥と申しても貴殿には信じぬか。」
「当たり前です!父上をたぶらかし、織田に引き込んだ貴方方を信じるわけにはいきません。」
(たぶらかす、ねぇ…‥)
稲姫の変わらぬ態度を見て、昌幸は怒りを通り越して呆れしか感情が湧かない。
こんな態度を取る事で、忠勝の肩身が狭くなってきている事に稲姫は全く気付いていない。
忠勝は頑なな稲姫の前に何も言えずに黙っている。
「貴女は、偽りの武士の意地を貫き通して、自身は真の武士だ、と思い込み過ぎている。」
「…‥っ!!また…‥っ!?」
「其れですよ、稲殿。」
『侮辱』と続く言葉を昌幸は即座に遮る。
「貴女は、人の話を録に聞かない。聞いたとしても直ぐ『侮辱』と捉える。助言すらも侮辱と捉え、相手を見下す事しかしない。自身を高貴と思うのは一向に構わん。実際、周りの方々が貴女をどういう目で見ているか、等と興味は無いからな。」
昌幸は、ふん、と鼻を鳴らし、稲姫を見据える。
「貴方方の言い方が侮辱している様に聞こえるのです。侮辱していると思われたくなければ、其の侮辱と聞こえる様な物言いを省みたらどうです?」
稲姫は、ふい、と顔を背けながら、そう昌幸に告げる。
(あくまで、自身は悪くない、と貫くか。)
昌幸は、ひくり、と眉をひくつかせる。
そして、周りを見やる。
長秀や一益達の眉間にも、皺が寄っている。
是はもう、何時キレても可笑しくはない状態だ。
(恐らく、稲殿を『こんな風』にしたのは、周りの家臣達なのだろうな。)
逝くが美徳の徳川。
相手を平等に扱わない態度。
何時でも徳川が特別。
家康を守る為だけに、自らの命が在ると自負する家臣達。
家康の為なら、命すら捧げる愚かな集団。
謂わば、徳川軍は本願寺軍と『同じ穴の貉』なのだ。
本願寺軍の農民達もまた、顕如の為、神の為、命を捧げる愚かな集団。
違う様に見えて、実は本願寺軍の僧兵や農民と同じ考えを徳川軍の家臣達は持っている。
(まあ、其れを言ったところで、違うと否定するんだろうが。)
昌幸はそう溜め息を吐くと、どうしたものか、と頭を悩ませる。
どんなに優しい言葉を並べ立てても、彼女を悟らせる様な説法を発言したとしても、傲慢な態度が変わらない限り、其れ等が彼女の心に言霊として響く筈も無い。
「殺しなさい。」
「何だと…‥?」
突然、発せられた言葉に、昌幸は目を見開く。
「殺せ、だと?」
昌幸の声が震える。
「そうです。私は貴方方に敗北しました。生き恥を曝すのは、徳川にとって、殿にとっても屈辱しかありません。生き恥を曝すぐらいなら、死を選びます。」
「…‥其れが、徳川にとって、最善だと?」
直政もまた声を震わせて稲姫に問い掛ける。
「そうです。負けを認め、潔く逝く。其れが…‥」
「三河武士としての生き様、とでも言うつもりか?」
再び稲姫の言葉を遮り、今度は信之が言を発した。
「聞くまでもありません。」
キッパリと稲姫は言い切った。
「…‥もう、うんざりだ。」
「信之…‥?」
ぼそり、と呟いた信之の言葉に、皆が信之を振り返える。
「もう、沢山だ!何が、武士としての生き様だ!何が潔い死、だ!!ふざけるなっ!!死んで何が残る!!死んで何が守れる!!自身は、武士としての生き様を示せるのだから、満足だろう!だがっ、残される者の意志はどうなる!死した者達の遺志まで全てを背負わされ、生きていかなければならない者達の思いはどうなる!!」
「………………‥」
信之の叫びに、昌幸は黙って目を伏せる。
そして、幸村も信之の叫びに黙り込む。
未来にて、昌幸の遺志、幸村の遺志を背負い、たった独りで乱世を生きて来た信之。
孤独で永い生を全うする苦痛を信之はよく知っている。
だからこそ、信之の叫びは、ずっと胸に秘めていた心の慟哭なのだ。
そして、また、其の孤独の生を信之に押し付けてしまった未来の自分達を昌幸は、幸村は、呪った。
(同じ糧は踏まない。もう、孤独な生を信之には押し付けない。)
『家を守るだけなら、誰でも出来る。敵味方に別れ、どちらが生き残っても真田は守られる。其れも確か。だがな、孤独になってまで家を守って何の価値がある?家を守る、と言う事は、幸村が、昌幸が、真田家に通ずる者が皆生きてこそ意味があるのだ。信之だけ残ったとて、意味はないのだ。』
昌幸は、幸村は、嘗て信長が自らに語った言葉を思い出していた。
確かにそうだ、と昌幸は、信之の心からの慟哭を聞いて、改めて、強くそう感じた。
家康の為に、命を賭して戦う事を悪いとは思わない。
自分や長秀、一益達とて、信長の天下を成す為なら、此の命、惜しむ事は無い。
信長を守れるならば、戦場で散るも本望。
手足となる将ならば、何人死んだとて、代わりは沢山居る。
だから、命を落とし死したとしても、自分の代わりに誰かが信長を守ってくれる。
故に、死に恐怖を感じない。
だが、其の考えを、死への正当を信長は否定する。
皆が生きて、皆の力で、天下を成さなければ、天下を取ったとは言わない。
共に泰平の世を生きて欲しいと思う人が居ない天下等、何の意味が在るのか。
だからこそ、織田軍は、自身は、信之は乱世を必死に、がむしゃらに生きているのだ。
信長と共に天下への一統を見る為に。
「家康の真の思いは、『こんな事』なのか!こんな思い、ただ、自身に苦重の荷物が増えていくだけではないか!」
「其れを無駄にしない為に、殿は耐えて進んでいるのです!死んでいった者の為、皆の死を無駄にしない為、殿は奮闘しているのです!」
「な…‥っ!!」
「では、全て家康一人に背負わせ、自身達は自己満足な死を全うし、聖人君子として後の世の者共に讃えてもらおうという腹積もりか?」
信之が何かを叫ぼうとした時、上座から低く地獄の地を這う様な声が小さく響いた。
「なっ…‥!」
稲姫が怒りを露にして、立ち上がろうとした瞬間、ひゅ、と空気が小さく鳴いたと同時に、稲姫の首に、ひやり、とした冷たい何かがあてがわられた。
「……‥っ!」
あてがわられたものが何なのか分かったと同時に、稲姫は息を詰めた。
「答えよ、稲。自身の心で、自身の声で。卯ぬは、何を望む?」
「私は一重に殿の…‥」
「其れは卯ぬ自身が『家康』に望む願望であろう?予が聞いておるは、卯ぬが自身の望みぞ。」
「だから…‥」
「…………………‥」
稲姫は、苛つく。
此の人は、何を言っているのか。
自身が語る望みは家康への望みだと言う。
(だから、其れが私の望みなのに、此の人は何を聞いているの?)
稲姫の眉間に皺が寄る。
(…‥理解、しておらぬ様だな。)
(そうですね。)
昌幸がそんな稲姫を見て、信之に耳打ちする。
信之も其の言葉に小さくこくり、と頷く。
信長が言っている事は、稲姫が一重に望んで口にする言葉は、自身から家康への『願望』であり、自身の『望み』ではない。
信長は、願望を聞いているのではない。
稲姫自身の『望み』を聞いているのだ。
其れを稲姫は理解出来ていない。
「話になりませんね。貴方に私自身の望みを言っているのに。どうやら、貴方は『人』の言葉を理解出来ない『妖(もののけ)』の類な様ですね。」
(…‥矢張り、自身に落ち度がある、とは思わぬ様だな。)
(言葉を理解出来ぬのは、自身の落ち度故。が…‥)
「…‥自身が『悪い』とは考えぬのか?」
昌幸と信之の考えを読み取ったかの様に、信長もまた、そう稲姫に直接、問い質した。
「何故、そう思わねばならぬのです?私に罪を擦り付けるのはお止め下さい。不愉快です!」
「…………………‥」
「ーーーーっ!!!」
ひゅ、っと再び空気が鳴いた。
刹那、紅が舞った。
そして、稲姫の口から、音にならない悲鳴が上がった。
「…………………‥」
忠勝は、其の様子を唯黙って目を反らさす、真っ直ぐに見据えている。
ぽたり、ぽたり、と紅が畳を染めていく。
「あ、…‥いっ…‥」
稲姫の目は見開かれていた。
何故、斬られたのか。
何故、斬られなければいけないのか。
確かに『殺せ』とは言ったが、突然、前触れも無く斬られる理由が稲姫には分からなかった。
「卯ぬには分からぬよ。今、斬られた理由も、予が卯ぬを斬った理由もな。」
くつり、と信長は喉を鳴らし笑いながら、稲姫を見下す様に見つめる。
稲姫は、そんな信長の表情に恐怖を覚える。
(…‥っ!気推されては駄目…‥っ!)
だが、恐怖を確かに感じたが、稲姫は哀れな程に強勢を張る。
「愚かよのぉ、故に、憐れよのぉ、稲よ。其の強勢が卯ぬ自身の首を絞めておる事に気付かぬのだから、滑稽よのぉ。」
にやり、と口元を歪め、魔王の異名に相応しい冷酷な表情で稲姫を更に見下す。
ぐい、と稲姫の髪を引っ張り、無理矢理、顔を上に向かせる。
「其の強勢が何時まで保てるか、此処で卯ぬを犯してみるか?命乞いをしても、哀願しても、聞く耳持たずして、卯ぬが精神が完全に崩れ去るまでな。幸い、此処には其れが出来るだけの男性は事足りておる。…‥試してみるか?」
「…‥っ」
稲姫の喉が小さく鳴いた。
信長は、此の鳴き音は、稲姫が自身に恐怖したが為に鳴ったものと瞬時に理解した。
「予が怖いか?稲よ。」
信長は、稲姫を煽る。
だが、稲姫は何も応えずに、身体を震わす。
「どうした?勇ましく逆らって見せよ。卯ぬは誇り高き『武士』であろう?」
「…‥っ、…‥ぁ…‥っ」
信長の罵りに稲姫は口を開くが、音に鳴らずに、音を無くした言葉は、虚しくも小さく口から零れ落ちていく。
悔しさはある。
だが、信長に逆らう程の勇ましさは、今の稲姫には無かった。
惨めだった。
傲慢になり過ぎた故に、素直に助けを乞う事すら出来ない。
出来ない故に、何も言えない。
惨め過ぎた。
信長は、稲姫の髪は掴んだままに、右手に握り締めていた愛刀を、流れる要な動作で稲姫の鳩尾に滑り込ませた。
其の光景を見届けた後、忠勝は静かに目を哀しげにゆっくりと閉じたーーーー…‥
ーーnext