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広間に広がる緊張感。
中央に座するは、北条氏康が嫡女・早川殿。
上座に座するは、織田が当主・織田信長。
其れを囲む様に幸村、信之、昌幸、勝頼、義元等が座する。
八王子城を堕とした後、小田原城を攻めた信長。
城を囲み、何時でも攻める事が出来ると皆が決意した後直ぐに、北条からの使者が信長の下を訪れ、北条は織田に降る、と報せて来た。
そう告げたと同時にざわめきが起こり、今更、何を、と呟く者、やっと、降参したか、と呟く者、と様々なざわめきが生まれた。
其の中で、信長は、静かに空を仰ぐと、
「…‥氏康、卯ぬとのもう一つの約定、果たせる時が来た様だ。」
そう小さくぼそり、と呟き、
「早川殿に承諾した、と伝えよ。そして、早川殿一人だけで、安土を訪れよ、とも伝えよ。もし、是が破られるならば、其れ相応の断罪を与える故に確と心得よ。」
と使者に言及した。
使者は、信長の此の言葉に、恐縮しながら、深く頭を下げると、其のまま踵を返し、小田原城へと帰って行った。
そして、其の言い付け通りに、早川殿は一人で安土を訪れた。
「早川殿、漸く、降伏を受け入れてくれた様だな。」
「…‥はい、今更な降伏受け入れですが…‥」
「構わぬ。」
「……………‥」
「……………‥」
短めに会話をした後、沈黙が支配する。
早川殿は俯いたまま、顔を上げようとはせず、唇を噛み締めたまま、口を開こうとはしない。
「…‥予が憎いか?」
信長の思い掛けない問い掛けに、早川殿がは、として顔を上げる。
「弟である景虎を此の手で殺した予が許せぬか?」
「そっ、其れは…‥っ、私達が抵抗止めないから、殺されるのは…‥っ!」
「『仕方が無い』。此の短い一言で済ませられる程、卯ぬ等の家族の絆とやらは、薄っぺらいものか?」
「……‥っ!!」
早川殿が息を呑む。
「景虎の命は、卯ぬ等にとって、其の命を奪った者に憎しみを抱く事が出来ぬ程、簡単に軽んじられるものか?」
「そんな訳ないじゃないっ!!憎いわよっ!!三郎の命を奪った信長公がすっごく憎いっ!!でも、どうしようもないじゃないっ!憎いからって、信長公の命を奪ったって、三郎が生き返る訳じゃないんだからっ!!」
早川殿はそう信長に叫ぶと、肩で息をした。
其の叫びを聞き、信長は薄く唇に笑みを乗せると、す、と立ち上がり、早川殿の近くに寄った。
一瞬、早川殿の身体が強張る。
「…‥着いて参れ。」
信長はそう一言告げると、早川殿の返事を待たずに、部屋を後にした。
其れを見た早川殿は、状況を呑み込めずに、唖然としていた。
「行かられよ、早川殿。」
反応が遅れた早川殿に、昌幸が優しく声を掛ける。
「あ、はい…‥」
昌幸の言葉に、早川殿は漸く我に返り、そう返事を返すと、慌てた様子で立ち上がり、信長が歩いて行った方向へと走って行った。
「…‥本に信長公は御人が悪い。」
早川殿が信長を追い掛けて行った事を確認した昌幸が苦笑いと共にそう呟いた。
そんな昌幸の言葉に、信之も、幸村も、皆が皆、肩をすぼめて苦笑いを浮かべた。
信長が歩く後を追い掛けながら、早川殿は何処に向かってるのか、と考えていた。
幾つかの部屋を通り過ぎて行き、次第に日の光が届かぬ場所へと辿り着く。
が、信長の歩む足が止まる事は無く、更に先へと進んでいく。
そして、廊下の行き止まりに辿り着くと、信長は軽く、拳でこん、と壁を叩いた。
すると、がこん、と言う音と共に、壁が横に擦れ、其の先に穴が開ける。
信長は、迷う事無く、穴の中へと歩みを進めた。
早川殿も慌てて後を追う。
薄暗い闇を進んで行くと、やがて、視界が開けた。
開けた場所を見ると、所々鉄格子が見える。
どうやら、辿り着いた場所は、地下牢の様だ。
こんな所に、何が、と思いながら、早川殿は未だに足を止めない信長に着いて行く。
そして、地下牢の行き止まりへと着いたと同時に、信長は懐から一束の鍵を取り出す。
かち、と牢を開け、信長は早川殿に入れ、と顎をしゃくる。
早川殿は、信長は自分を捕虜として扱うものだ、と思い、少し顔を俯かせる。
「…‥入ってみらば、理解する。」
其の意図を読んだのか、信長は多くを語らず、短めにそう告げると、牢から僅かに離れる。
早川殿は、信長の意図が読めずに、首を傾げ、入るのを躊躇っていたが、信長はただ黙ったまま、早川殿を見据えているだけで、何も語らなかった。
早川殿は、暫くは迷って立ち止まってはいたが、何時までも信長を待たせてもいけない、と思い、中へと入る。
入って直ぐ薄暗く湿った空気が早川殿の肌にまとわりつく。
不意に、視線を前に向けると、薄暗い闇の中に誰かが居る事に気付く。
誰かを知る為に歩みを更に進めていくと、ぼんやりとだが、其の誰かがしっかりとした輪郭となる。
其の輪郭が誰かなのか理解した瞬間、早川殿の表情が驚愕に変わる。
「さ、三郎っ!!」
「姉上っ!!」
「ど、どうして此処にっ?!と言うより、殺されたんじゃ…‥っ!」
早川殿は、錯乱していた。
景虎は信長に殺された筈。
小田原城で確かに景虎の死体を此の目で見た。
だが、今目の前に居る人物も見間違う事の無い景虎本人。
では、小田原城で見た景虎は一体誰だったのか。
「卯ぬ等は小田原城内で死体を見たのだ。天守近くで外を見らば、顔が分からずとも、背格好、着物が景虎と同じならば、景虎と思い込ませる事は造作も無い事。」
「其れじゃあ、私達は、まんまと…‥」
「予の策略に引っ掛かった、と言う事ぞ。」
「でも、どうして…‥?」
「綾御前よ。」
降り下ろされる麁正ーーーー…‥
景虎は、殺される、と思い、きつく目を閉じる。
だが、何時まで経っても、斬られた時の熱さと、意識が徐々に奪われていく様な痺れは訪れなかった。
景虎は恐る恐る目を開けると、其処には景虎を庇い、信長の麁正の衝撃を其のほっそりとした白い肩で受け止めていた。
「はっ、義母上っ!!」
肩口に食い込む麁正。
綾御前が斬られたのだ、と理解するのに、景虎は時間を要した。
全てを理解し、義理の母を呼ぶと、綾御前は苦痛に顔を歪めながら、景虎を振り返る。
「心配いりませんよ、景虎。信長公は最初から、此の私が景虎を庇う事は承知済みだった様ですから…‥」
綾御前がそう言いながら、うっすらと笑みを浮かべる。
景虎が再び綾御前の肩口に視線を向ける。
そして、気付く。
斬られた割には血が流れていない事に。
再び気付く。
麁正の刃は天へと向けられている事に。
つまり、綾御前は『斬られた』のでは無く、麁正の背で『殴打』されたのだ。
然し、斬られてはいないとは言え、信長は容赦無く力強く麁正を降り下ろしている。
其の衝撃は計り知れない程の痛みを綾御前に与えた筈だ。
痣となり、一生残る事は、誰が見ても明らかだった。
然し…‥
「私はこんな痣等、どうと言う事はありません。私が苦痛と思う事は、景虎が此の世から消え、景虎の居ない日ノ本で、一人寂しく生きる事の方が苦痛で耐え難い事です。」
女性が一生涯痕が消えない程の傷を抱えて生きていく事は、死ぬよりも苦痛であり、屈辱的な事である。
だが、綾御前は消えない痣よりも、景虎が消える事の方が苦痛だと言う。
(景虎よ、綾御前は卯ぬに二度の命を懸けた覚悟を見せた。さて、其の覚悟にどう応える?応えぬのならば…‥)
信長は、二人に気付かれない様に、くつり、と笑う。
麁正が綾御前の肩口から離れる。
そして、今度は肩口ではなく、綾御前の心の臓に向かって、切っ先を突き出される。
「っ!!?義母上っ!!!」
景虎は、咄嗟に綾御前を抱き締める。
綾御前を庇う様に。
二人で此のまま斬られる、と景虎は考える。
(俺は、どうなってもいい!せめて、義母上だけでも…‥っ!)
そう景虎が考えた瞬間、別の者の断末魔が響いてくる。
景虎が何事か、と思い、顔を上げると、自分と背格好が似た男の人が直ぐ側で倒れていた。
「…‥利用させて貰うぞ。景虎、卯ぬは此のまま地下牢に幽閉する。全てが公表されては厄介だからな。」
信長はにやり、と笑いながらそう告げると、景虎の影武者となり死んでしまった男の遺体を軽々と持ち上げると、綾御前と景虎を残して小田原城へと向かって行ったーーーー…‥
「そんな事…‥」
話を一通り聞いた早川殿が驚きを隠せずに、ぽつり、と呟く。
「予の真の目的は、小田原の連中の戦意を削ぎ、降伏させる事。抵抗が止むまで誰かを根絶やしにする事が目的ではない。」
早川殿の呟きに、信長がそう答えた。
「小田原を攻める事も目的では無い。氏康と交わした約定は、氏康亡き後もまだ『生きて』おるからの。」
「え?」
信長の言葉に早川殿は驚く。
其の驚きに、信長は黙ったまま懐から氏康と交わした約定書を取り出し、其れを早川殿に差し出す。
早川殿は、其れを受け取り、約定書に目を通した。
内容を読んでいく内に、早川殿の目から一粒、また一粒と涙の雫が流れ出す。
「そんな‥…っ、御父様‥…っ」
早川殿は泣き崩れた。
其の姿に、信長は静かに瞳を閉じる。
『おい、信長。図々しい序でに、テメェに頼みてぇ事がある。』
『何ぞ。』
『俺が死んじまったら、娘達を頼む。アイツ等は頑なで、曲がった事が大嫌ぇだから、テメェの事は嫌いの部類に入っている。だから、テメェの遣り方に、全力で抵抗してくるかも知れねぇ。だがな、俺にとっては、命よりも懸け代えのねぇ大切な家族だ。こんな事を言うのは、理不尽かも知れねぇ。テメェにとっては迷惑な事かも知れねぇ。けどな、頼む。俺が死んだ後も、アイツ等を護ってやってくれ。』
『…‥彼奴(あやつ)等が全力の抵抗をする事で、卯ぬが言う大切な家族の消えなくてもよい命が沢山消えるやも知れぬぞ。』
『そんな事ぁ、分かってる。分かってて言ってんだ。覚悟は当に出来てる。だから、此の約定の証は俺の命だ。』
『良い。其処までの覚悟ならば、予に断る理由は無い。氏康、其の約定承認しよう。』
『ありがとよ、信長。』
「…‥そうですか、御父様とそんな約定を交わしていたのね。」
早川殿は、信長の口から聞かされた真実に再び涙を溢した。
景虎も、初めて聞かされる内容に、黙って顔を俯かせていた。
「信長公、散々、抵抗し続けて、私達の処遇は断罪かも知れません。ですが、自身に利も無いそんな約定を交わした貴方です。だから、厚かましい事は重々承知しています。ですが…‥」
「良い。北条との約定、此処に新たに交わそうぞ。」
「…‥っ、有り難う御座います。信長公。」
早川殿は、自分が言いたい事を瞬時に理解し、瞬時に迷い無き決断を下した信長に、敬意を称し、深々と頭を下げたーーーー…‥
後に北条は、徳川との同盟を破棄し、徳川と完全に敵対した。
ーーnext