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何処を見てるの?
黄金の瞳は、自分を映すのに、見ている先は、自分じゃなく、遥か遠くの『何処か』。
黄金の瞳には、ちゃんと自分の姿が在るのに。
何処を見てるの?
見ている『何処か』が解ったら、同じ道を歩めるのかな?
其の瞳が映す遥か先の『何処か』。
私に解る時が来るのかなーーーー…‥?
「予が見透す先、とな?」
「うん。叔父上の瞳には、茶々がちゃんと映っているのに、見つめているのは茶々じゃなくて、『何処』か遠くの先。だから、何を見てるのかな?って思って。」
茶々がそう語ると、信長は少し表情を驚愕の色に変えたが、直ぐに何時もの無表情に戻した。
「矢張り、聡いの、茶々は。」
信長は小さく笑う。
茶々は、信長をじ、と見つめる。
まるで、見る先を見極めようとするかの様に。
其れを見た信長は、更に小さく笑った。
「さて、何処であろうな。」
信長は視線を、蒼く澄んだ空に向けながら、そう呟く。
「…‥予が目指す『先』は、誰にも理解出来ぬよ。」
寂しそうな呟き。
「叔父上…‥」
「予が見つめる先は、市や長政ですら理解出来なかった。」
「父上と母上も?」
「…‥だからこそ、市は長政に着いたのだ。長政が目指す世は『理解し易い』からの。万人に理解出来る。予が目指す世は、誰にも理解出来ぬ上に『理解し難い』からの。例え、見据える先が『何か』を言の葉にしてもな。」
「そんな…‥っ」
「予は魔王が故に、皆には予の成す事、言う事、全て奇怪に見えておる。」
茶々の言葉を遮り、信長は肩をすぼめ、そう呟く。
「予が語るは、『人』の言に非ず。」
現在の世ならば、理解出来る信長の言。
然し、此の時代では、理解出来る者は皆無に等しく、信長の言を聞けば、誰しも『何を言っているのだ?』となる。
信長が目指す世は、『日ノ本泰平』では無く、『世界泰平』。
誰も見た事が無いものを信長は見ているのだ。
理解出来る筈も無い。
「そんな事無いよ。」
「卯ぬはそうやも知れぬが、他の者はそうでは無い。」
信長は茶々の言葉を否定する。
信長は全て解っていた。
自分が発する言葉を理解出来る者は、現在の世には存在せぬ、と。
自身が語る言葉に耳を傾けるも、皆、一様に不可解な表情を醸し出す。
妹の市ですら、そんな表情をするのだ。
だからこそ、『解り易い』長政の味方に着いたのだ。
「市は、今でも予が語る言の意味ですら、理解出来ておらぬだろうな。」
くつくつ、と信長は喉を鳴らして笑う。
「長秀殿は、理解出来ていたよ。」
「長秀は然り。が、全てを理解出来てはおらぬよ。」
「そうなの?」
茶々の問いに信長は、小さく頷く。
「『何と無く』は理解してよう。が、全てを理解してはいない。」
「………………‥」
茶々は、そう呟き、静かに目を伏せる信長を見て、茶々なりに思考を巡らせる。
信長の言う『言葉』を其のままの『意味』で理解するのは『間違い』。
では、其の『言葉』をどう理解すれば良いのか。
信長は『世界』を語る。
ならば、『世界』とは何か。
『世界』とは、地球上の人間社会のすべてであり、人間の社会全体である。
限定された社会ではなく、全ての社会の集合、全人類の社会。
地球上の全ての国を指し、万国であり、特定の一国ではなく全ての国々の意味でもあり、何らかの社会と関連のある空間を意味する。
人間など命あるものと関連づけられた、社会的、政治的、経済的ないし人文地理的概念の事でもある。
信長の考えは『世界』を意識したもの。
意識していたからこそ、宣教師の『世界』の話も理解出来た。
然し、茶々には理解は出来なかった。
『世界』とは何か、と自身なりに考えてはみたが、考えた事も無かった疑問に答え等出る筈も無かった。
「思考を止めよ、茶々。理解出来ぬ事を無理に理解しようとすらば、思考が混濁する。」
信長は、眉を寄せ、難しい表情をする茶々に優しくそう諭す。
「理解出来ぬから、皆、予に謀叛する。離反もする。理解出来ぬ思考を持つが故の『孤高』ぞ。」
「………………‥」
(叔父上の言う事は最もだ。けど…‥)
茶々は、再び思考する。
(謀叛や離反した者達は、理解しようとしたのだろうか。私の様に、思考を巡らせて、叔父上の言葉に真剣に耳を傾けたのだろうか。)
長秀は『何となく』だが理解出来ていた。
なら、長秀は信長の語る言葉を一言一句漏らす事無く聞いた、と言う事になる。
信長の口から紡ぎ出す言葉で一言でも理解出来るものがあれば、其れを拾い、自身なりに『こう言っているのだろう』と仮定していたのだろう。
でなければ、長秀が信長の意図を瞬時に理解し、信長が何も語らなくても事前行動等出来る筈が無い。
理解出来なくても、理解しようとする思考が大事なのだ。
「私も全て、とは言わないまでも、長秀殿みたいに、『何となく』でも理解したい。」
「で、あるか。」
信長は笑った。
茶々を小馬鹿にする様な笑いでは無い。
優しく、慈しむ様な笑い。
「…‥理解出来ぬと判断したらば、即刻に思考を止めよ、よいな?」
「うん、分かった。」
信長は茶々の素直な返事に、小さく満足気に頷いたーーーー…‥
赤く、紅く、真紅に染まる。
空も、景色も、全てが。
紅が染めるは、魔王が命。
今、正に紅が魔王を連れ去ろうとしていた。
「叔父上っ!!」
茶々は、燃える焔の中を無我夢中で走る。
消えようとする命を絶対に消すまい、として。
「叔父上っ!!」
返事は返って来ない。
どうして?
何で、叔父上が死ななければいけない?
死んで欲しい人達は死なずに、のうのうと今の世の中を腹立だしいぐらいにしぶとく生きているのに。
死んで欲しくない人ばかりを『天』は連れ去っていく。
最初は、茶々の父親・長政。
次に、生きてはいるが、生きながらに『死んで』いる母親・市。
そして、また、『天』は今、茶々から大事なものを奪おうとしていた。
奪ってくれるな。
やっと、やっと、叔父上が見据えていた『先』が『何』なのかが解ったのに。
奪われてしまったら、全てが皆無になる。
(漸く、一緒に其の先へと歩む事が出来るのに。)
茶々は、必死に駆ける。
そして、目の前に見慣れた漆黒が現れた。
「叔父上!」
茶々は、力の限りに叫んだ。
信長は、茶々の呼び声にゆっくりと振り返った。
近くに駆け寄り、信長の手を握る。
「叔父上、逃げましょう。」
「……‥否、予は此処までの様だ。」
「何を、言っているのですっ!漸く、漸く叔父上が見据える先が『何』なのかが解ったのに…‥っ!」
茶々の叫びに信長は、小さく『そうか』とだけ呟いた。
「理解したのならばーーーー…‥往け。」
信長は、とん、と茶々の肩を押す。
「え?」
茶々は一瞬、信長の行動が理解出来ずに、唖然とする。
「共に歩むは、予に非ず。故に、往け。」
「…‥っ!?茶々は、叔父上と…‥っ!」
「ならぬ。」
信長は、茶々の言葉を途中で遮る。
「予が目指す世を叶えるは、予に非ず。予の目指す世を叶えるは、卯ぬであり、未来(さき)を生きる者達ぞ。」
茶々は唇を噛む。
理解出来ぬ者は、信長の語る言の意味は不可解なものだろう。
だが、信長が目指す世が『何』なのかを理解した茶々には、信長の言う意味が理解出来ていた。
「でも、茶々は叔父上と一緒がいい。」
「茶々、予の存在を未来に求めてはならぬ。未来の世では、予の存在は異端故にな。」
此の意味も、茶々は理解出来た。
世界を、日ノ本を、変える為には、『絶対悪』が必要だ。
一悪を倒し、万人を救う。
聞こえはいいが、裏を返せば、自身を正当化するには、都合が良い言葉と言える。
だが、此の言葉もまた、信長が目指す世を叶える為には、必要なもの。
日ノ本が変わる時、応仁の乱では朝廷が、源平合戦では平氏が、丁寧寺の変では大内氏が『絶対悪』として滅びた。
先の世では、日本が世界戦争を引き起こした『絶対悪』として戦争責任を現在でも世界中から突き付けられている。
そして、今、『絶対悪』として、信長が消えようとしていた。
「往け。此の先に、茶々と共に歩んでくれる者が在る。」
信長は、す、と指先を伸ばし、見えぬ先を示す。
「叔父上…‥っ!」
茶々は、行くのを躊躇う。
「…‥未来(さき)で待っておる。」
行くのを躊躇う茶々を安心させる為に、信長はそう茶々に告げる。
其の言葉を聞き、茶々は此の場に留まりたい気持ちを抑え、踵を返し走り出した。
「其れで良い…‥往け、自身が信じる道を心のままに往け。」
信長は、目を細め、小さくなる茶々の背中にそう語り掛けると、自身は茶々が走って行った先とは逆の方向、焔の先へとゆっくり歩みを進めて行ったーーーー…‥
ーーnext