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「上手くいったか?」
男は、目の前に跪く男にそう問い掛ける。
「はい…‥全ては、『義昭』様の思う通りに…‥」
其の男・義昭の言の葉に、跪く男がそう答える。
「くくく…‥そうか、そうか。でかしたぞ、『光秀』!」
「はっ!」
義昭へと頭を下げた光秀は、義昭に気付かれない様に、男・光秀は口元に笑みを浮かべた。
本能寺へと辿り着いた義昭達は、表門の前に終結していた。
光秀は、何気に視線を自分の後ろに控えていた部下に向けた。
部下は、其の視線に気付き、黙ったまま、こくり、と頷き、其のまま、義昭に気付かれない様に、そ、と其の場を離れた。
其れを確認すると、光秀は本能寺の本殿を真っ直ぐに見据えた。
「此れで全て、私達の『思惑通り』…‥くくく、さて、義昭、お手並み拝見と参りましょうか。」
光秀はそう呟くと、既に本殿にて集結しているであろう『皆』を思い、目を細める。
「全軍、突入っ!」
義昭の合図に、全軍が中へと雪崩れ込む。
其の中で明智軍は、遅れて進む。
そして、義昭に気付かれぬ様に、一度入った門から外へと出た。
「此れは、将軍自らわざわざ何用ですかな?」
其れを合図にするかの様に、本殿から信長がほくそ笑みながら、目の前の義昭を見据えた。
「ふん、偉そうにするでないわっ!其の減らず口利けるのも今日限りよっ!」
「ほう…‥」
義昭の勝ち誇った物言いに、信長は全く動じずに、更に意味ありげな深い笑みを口元に称えた。
「御主を殺し、我が威光を再び取り戻すっ!」
義昭はそう叫び、全軍に攻撃命令を下した。
瞬間、信長の口元が三日月形を描いた。
義昭は、まだ知らない。
自らが、信長が張り巡らした罠に完全に填まっている事にーーーー…‥
信長が渾身の力を込めて、兵士に斬り掛かった。
小さく翻った切っ先は、兵士の腕を強かに打ち据える。
その直後、兵士が攻撃に転じるが、腕の損害が大きい為、信長が受けた損害は少ないもので済んだ。
――――信長は、『あの時』と同じ様に一人、足利軍を相手にしていた。
ただ、『あの時』と違うのは、現在、相対しているのは、明智軍でなく、足利軍であるという事。
此の時点で、信長は光秀の未来をも変わった事を確信した。
一人で無謀だと思ってはいたが、この狭い本殿では思う様に刀を振り回す事が出来ない上に、大勢で信長を囲む事も出来ない。
黄金の瞳を煌めかせ、信長は他の兵士に向かう。
力強い踏み込みで、捻り込む様に麁正を打ち込む。
腰から肩、腕、と伝わった螺旋の衝撃が、兵士の胴を貫いた。
胴に深々と突き刺さった麁正を引き抜くと、新たな兵士へ鋭い視線を向けた。
――――言葉は要らなかった。
睨むだけで、信長の心境は手に取る様に理解出来た。
――――予は、死なぬ。
その思いが、信長の心を完全に支配していた。
(後、少し…‥後、少し堪え抜けば、信之が、氏郷を連れ、頃合いを見て、本能寺を囲み、足利軍の退路を完全に塞ぐ。)
信長は、信之から、
『氏郷様を味方に付けました。信長公の策通りに、蒲生軍と父上率いる真田軍で本能寺を包囲致します。其れまで信長公は堪えて下さい。』
と聞いていた。
そして、武田軍も今川軍も本能寺へ向かっている、とも聞いた。
(此処が踏ん張り所と言う訳だな。)
信長は、フッと笑みを浮かべた。
その瞬間に、兵士の一人が信長に斬り掛かってくる。
信長も其れに気付き、麁正を振り翳したが、僅かに反応が遅れてしまった。
(斬られる…‥っ)
そう覚悟した瞬間、信長の横を疾風の様に、影が駆け抜ける。
その影の振り翳した槍は、狙い違わず、信長を斬ろうとした兵士の首筋に食い込んだ。
血飛沫が舞い、兵士はそのまま絶命する。
勢い良く倒れ込んだ兵士の首から槍を引き抜き、影は信長を振り向く。
「昌…幸?!何故、此処にっ?!」
信長はその影の正体が昌幸だと気付くと、驚きの表情で昌幸を見た。
信長が驚くのは無理も無かった。
昌幸は、光秀の説得しに行き、説得が成功していれば、其のまま真田軍を率いてまだ、此方に向かっている最中の筈だ。
なのに、何故か昌幸が此処に居る。
真田軍を率いた後に此処に来たとしても、西国に向かう分かれ道から、この本能寺まで、時間的に間に合う筈も無い。
――――なら、何故?
「…‥皆に気付かれぬ様、山道を通って来た。」
疑問に思った事が表情に出ていたのだろう。
昌幸が信長を見ながら、そう説明をした。
「…‥っ」
「説明は後でしてやる。今は此奴等をどうにかしないとな。」
昌幸が視線を信長から離し、視線を鋭いものに変化させ、目の前の兵士達を見据える。
信長は、まだ納得していなかったが、残っている兵士を片付けた後でも良い、と考えを改め、自分も麁正を構え直し、兵士を見据えた。
――――御旗槍を構えた昌幸が、目で信長に合図を送る。
其れに気付いた信長が黙って頷く。
信長が兵士に斬り掛かる。
素早く銀色の閃光が浮き上がったかと思うと、忽ち、鋭く兵士の肩を引き裂いた。
そんな信長の攻撃によろめいた兵士の隣から踊り出た新たな兵士へ、今度は素早く走り抜けた昌幸が、そのまま御旗槍を打ち振るう。
すると、その動きに伴って切っ先より生み出された断裂が左右から相手を切り刻んだ。
次の兵士が攻撃して来ると、隼の様に素早く翻った信長の麁正が弾き飛ばした。
眼前の敵にどんな攻撃が効果的か、其れを瞬時に判断して攻撃に転じ、直ぐに跳ね戻って、背中合わせになる。
信長の背中を昌幸が。
昌幸の背中を信長が。
この狭い本殿で、互いが互いを守り、二人は兵士達を確実に倒していった――――…‥
最後の兵士を倒し、兵士が絶命したのを確認すると、昌幸が御旗槍を背に戻した。
そして、信長も其れに習い、麁正を鞘に納めると、鋭い視線を昌幸に向けた。
そんな信長の視線を受け、昌幸は寂し気な笑みを浮かべた。
そんな昌幸の表情を見て、信長は一瞬、困惑する。
「御主は、儂の事が嫌いか?」
何かを言おうと、信長が口を開いたと同時に、昌幸の寂し気な言葉が、静かな本殿に響き渡った。
「急に、何を言っておる?」
信長は、一瞬、焦りを覚えた。
いきなり、こんな事を昌幸が言ってくる筈は無いと思っていたからだ。
信長は、時代を遡る時、過去に生きる者達には絶対に関わらない、昌幸や信之達に自分に対して、絶対に好意を持たせない、という強い決意を持っていた。
だからこそ、今まで昌幸には冷たく当たっていたし、周りから信頼される様な事は、一切してこなかった。
その為、何時も信長に付いて回った異名は『魔王』とあの時と同じ不名誉なものであった。
――――だが、其れでも、敢えて全てを受け止めた。
真田家を、昌幸を、幸村を、散らなくていいのに惜しくも散っていった者達の命を救えるのなら、違う未来を与えられるのなら、喜んで自分は『悪』にでもなろう、と固く自ら誓った。
だから、昌幸が自分を嫌ってはいても、自ら自分に好意を持つ事は絶対に有り得無かった。
――――だが…‥
今、目の前に居る昌幸は何処か寂し気で、何処か傷付いた様な表情をしていた。
其れを見る限りでは、昌幸は自分の事を――――…‥
(そんな事、絶対に有り得ぬ…‥)
信長は辿り着いた一つの可能性を打ち消した。
「急にではない。ずっと、考えておった。御主は幸村や信之と話す時は普通に話すに、儂と話す時は、突き放す様な話し方だ。」
『其れは卯ぬを死なせぬが為』と出掛かった言葉を信長は何とか飲み込む。
信長が黙り込んでいると、昌幸が信長に近付いてくる。
「信長公…御主、何を隠しておる…‥?」
昌幸はそう信長に問い質す。
その言葉に信長の身体が一瞬、震える。
「…‥別に何も隠してはおらぬ。」
信長は再び『能面』を被る。
成る可く感情を表に出ない様に、冷静さを演じる。
「白を切るでない。儂が何も気付いておらぬとでも思うておるのか?」
そんな信長を睨み付け、昌幸はそう強めの声音で信長を咎める。
「…‥何時まで、そうやって、自分ではない自分を演じるつもりだ?」
「…‥っ!」
昌幸の思い掛けない言葉に信長は息を呑む。
(気付かれていた…‥?)
どくり、と心臓が跳ねた。
こう見えても信長は、真の自身を隠すのが得意だ。
『魔王』の能面を被り続け、其の裏で感情も、表情も、全て隠し続けて来た。
現に、今まで誰一人として気付かれずに此処まで来れた。
だから、昌幸も騙せたと思っていた。
「儂が何も知らぬとでも、思うていたのか?」
「………‥」
信長は黙り込む。
そして、静かに目を伏せる。
「…‥卯ぬは、騙されぬか…‥」
「信長公?」
信長の呟きに、昌幸が首を傾げる。
「矢張り、卯ぬには接触すべきでは無かったな。」
「接触すべきでないとは…、信長公…っ」
昌幸の呟きに、信長がハッと我に返る。
そして、信長は昌幸の問いに答えず、そのまま踵を返し、本殿の中へと去って行った。
「信長公っ!」
昌幸は、信長を追い掛けようと、彼が入って行った本殿方へと駆け出そうとした。
だが、その駆け出そうとした昌幸の前に、誰かが立ち塞がる。
「…‥!?おっ、御主…‥っ!?」
「是以上、追い掛ける事は止めて下さい、父上。」
その誰かは、昌幸にそう告げると、真っ直ぐに昌幸を見据える。
「…‥っ、信之?御主、何を知っておる?」
昌幸も信之を睨む様に見据え、そう問い質す。
「…‥私は何も知りませぬ。唯、信長公は私がしている事に協力しているだけに過ぎません。」
信之は、静かにそう語る。
――――本当は、何もかもを知っている。
違えてしまった昌幸と幸村の未来を変えたい、という信之の強い願いを受け止め、自身をこの過去に送ったのは、他ならぬ信長なのだから、知らない筈は無かった。
が、今、自身がしようとしている事は、昌幸に悟られてはいけない。
悟られ、全てを知ってしまえば、自身がしようとしている事は全て無駄になってしまう。
――――其れだけは、絶対に避けなければいけない。
「何をしておるのだ?信長公は。」
「其れは、申し訳ありませんが話す事は出来ません。ですが、真田を陥れようとする行動では無い、と言う事だけ、申しておきます。」
信之は其処まで言うと、静かに昌幸を見据えた。
昌幸も、信之を見つめる。
「納得がいかないとは思いますが、そのまま引き下がってくれませぬか?」
信之が肩を窄めながら、昌幸にそう告げる。
「そう思うなら、少しは教えてくれても良いではないか?何も知らぬのは、正直、辛過ぎる。」
昌幸はそう言って、表情を苦しいものに変える。
「父上…‥っ」
信之はそう呟き、目を驚きで見開く。
だが、直ぐに目を細め、俯いている昌幸をじっと見つめた。
(…‥矢張り、『あの時』と同じ様に惹かれてしまわれるのですね。)
信之はそう考えを巡らすと、静かに目を閉じた。
――――そして…‥
「分かりました、全て、とまではいきませぬが、許す限りの範囲で語りましょう。」
信之がそう言うと、昌幸は弾かれた様に顔を上げた。
「信之…‥」
「…‥後は、信長公と父上の問題です。納得のいく限り、話し合って下さい。」
「ああ、分かった。」
信之の言葉に、昌幸は強く頷き、そして、信之はゆっくりと昌幸に真実を語り始めた――――
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