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安土城の天守で二人の男性が相対している。
一人は、屈強な肉体を持つ威圧的雰囲気を醸し出している男。
もう一人は、目前に座る男とは対照的な華奢な身体付きだが、決して弱力では無く、凛とした堂々とした佇まいで、男と対等な威圧感を醸し出している。
「…‥忠勝、卯ぬはどうする?」
「……………………‥」
忠勝と呼ばれた屈強な男は、其の問いに答える事はせずに黙ったまま俯いている。
「…‥娘である稲姫を処断した今、卯ぬが徳川に帰参出来る可能性は皆無に等しくなった。今、帰参出来たとしても、稲姫の事を酷く批判されよう。『娘をむざむざ殺されるのを黙って見ておきながら、どの面下げて戻って来た』とな。」
「…………………‥」
(忠勝殿…‥)
黙ったまま言葉を発しない忠勝を見て、信之は嘗ての自分の姿を重ね見ていた。
此のやりとりに似た出来事は、未来で自身が家康に、敵対した父・昌幸と弟・幸村の助命嘆願をした時と類似していた。
あの時、周り全てが昌幸達の処断を強く願っていた中で、忠勝だけは信之の加担者になってくれた。
『我が婿殿の意義を聴けぬと申すならば、例え忠誠を誓った殿と言えども我が槍の矛先を向けさせて頂く。血筋は違えど、本多家に入ったならば、婿殿は我が息子も同然。殿が婿殿を斬り棄てるならば、我は息子を護る為、殿に槍を向けるに迷い無し。』
「………………‥」
信之は、自らの身体を盾にし、信之を護る様に背に隠し、家康に意見した忠勝を思い出した。
徳川に味方すると決め、徳川入りした信之だったが、実際は自身に向けられる視線は歓迎されたものでは無かった。
家康忠誠の武士に囲まれ、信之は肩身の狭い思いを抱きながら日々を過ごしていた。
何度、離反を考えたか。
だが、忠勝の娘を娶った以上、離反してしまえば忠勝の、本多家の名に傷が付き、家康に離反した男が本多家に存在していた、と一生まとわり付く汚名が残ってしまう。
其れだけは避けなければいけない。
信之はただ、其れだけの思いだけで、自身の孤独感と孤立感に耐え続けた。
挫けない様に、倒れない様に、心の奥底で失くしても尚、妻である稲姫よりも、強く愛して焦がれて止まなかった在りし日の信長を生きる励ましにしながら。
そんな日々を過ごして来た中での、あの忠勝の行動と言葉には、正直泣きそうになった。
忠勝が唯一の自身の味方だった事に驚き反面、まさか、家康忠心一筋の忠勝が自身の為に、尊敬する家康に楯突いた事に衝撃を受けた事を鮮明に思い出せる。
信之が顔を上げた。
「信長公っ!」
沈黙が続く天守に信之の強き声が響き渡る。
其の声に、黄金の瞳が振り向き、鋭い視線が信之を捉える。
「無礼なる発言、御許し下さい。」
信之はす、と忠勝の前に移動し、嘗て忠勝が自身を護る様に座った様に、今度は自身が忠勝を護る様に座る。
「…‥良い、許す。発言せよ。」
「はい、忠勝殿を此のまま織田家預りにする事を提案させて頂きます。」
「っ!!」
信之の発言に、忠勝が纏う空気が息を呑み驚きの空気に変化するのを背中で感じながら、信之は真っ直ぐに信長を見据える。
「……‥本気、か?」
信長は信之に問う。
声質から信之の覚悟を確認する問い掛けが感じ取れた。
信之は、そんな信長の問い掛けに迷う事無く進言を続ける。
「はい、私は本心で告げております。此のまま徳川に忠勝殿を返せば、命を取られるは必須であり、最悪、本多家取り潰しも有り得ます。ならば、此のまま織田家預りとし、客将として留まさせるべきです。」
「………………‥」
信之の言葉に信長はじ、と信之を見つめる。
そして、信之もまた信長をじ、と見つめ返す。
「…‥信之が言、あい、分かった。忠勝ほどの名将、此のまま朽ちさすは愚の骨頂。ならば、信之、卯ぬが側に任せる。」
「はい、有り難う御座います。」
信長は、信之の言音に私情を思わせる雑音を感じ取っていたが、其れと同時に発言する言の葉に決意と強き揺るぎない覚悟をも感じた為、信長は信之の意見を汲み取った。
「忠勝、聞いての通りぞ。卯ぬは徳川に帰参せずに、此のまま何時も通りに織田家に腰を据えるがよかろう。」
「が、然し…‥」
「先も申したが、此のまま帰れらば、周りは卯ぬを罵り叩くが必然。ならば、其の身、守るは此のまま留まるが必然。異議有りか?」
「………………‥」
「卯ぬが稲姫の事を痛み入っておるは承知しておる。ならば、尚の事。信之が言に従ってみるも一興ではないか。」
信長は、忠勝を説得する。
家康は、自らに味方する者には惜しみ無い慈悲を与えるが、一度でも自らに敵対心を垣間見せようならば、どんな汚い事でも行い、相手をとことんまでに陥れる。
となれば、忠勝の此の後の先は、誰が想像しても絶望しか無かった。
「…‥信之殿、そなたの寛大な御心、然と受け入れた。」
忠勝は、信之を振り向き、少し微笑しながら軽く頭を垂れた。
「…‥っ、はい。」
忠勝の言葉に、信之は感極まって泣きそうになるのを必死に堪えながら、真っ直ぐに忠勝を見据え、力強く返事を返したーーーー…‥
「信長公、私情が混ざった進言、申し訳御座いません。」
忠勝が退席した広間に信之の声が響く。
「いや、構わぬ。…‥だが、卯ぬは本に変わったの。」
信長は恐縮する信之を見つめ、改めて沁々と頷いた。
「そう…‥でしょうか。私自身、よくは分かっては降りませぬが…‥」
「うむ、確かに変わった。」
信長の言葉に昌幸も確信した様に肯定した。
「儂が知る限りでの信之は、過度な発言はせず、周りが不愉快になる様な行為や行動はしなかった。自身から『こうしたい』『ああしたい』と主張もしなかった。何時も、自身を強く表に出さず、何処か一歩下がった様な中立的な発言や行動が多かった。」
昌幸の言葉に、幸村も肯定的に頷いた。
「はい、何時も兄上は、私を優先した発言が多かった。何を言っても『大丈夫だ』と自身の真の気持ちを押し殺して、自身の全てを犠牲にして生きておりました。其れは、最後の戦まで変わる事はありませんでした。」
幸村は、そう告げると昔を懐かしむ様に目を細めた。
「ですが、今は気持ちを押し殺すでもない、ましてや、全てを犠牲にしている訳でもない、全てに正直に純粋に自己を周りを気に掛けずに主張している。正直、実は兄上はこんなにも情熱家だった事に私自身驚いております。」
幸村はそう言って、初めて見る信之の姿に素直に好感を示した。
「…‥私は昔、堪える事が『家を守る為』だと考えておりました。父上が二分する事が家を守る為だ、と考えていた事にもただ、単純に『正しい事』だと認識しておりました。ですが、父上を失い、幸村ですら失い、全てを失い、私一人が残り、其れでも、家を守り生きていく事に何の意味があるのか、と葛藤する日々を生きてきました。」
信之はそう昔を振り返りながら、自身が抱えていた思いを赤裸々に語った。
「全ては家の存続の為、そう自身に言い聞かせて辛く苦しい生を日々全うしておりました。ですが、私の目の前に信長公が現れた時、過去をやり直せる事を知った時、私は決意しました。『こんな思いをするぐらいなら、過去を変え、未来すらも変えよう』と。過去が変われば、未来も変わる。幸村も父上も、そして、自身が大切だと思う者を失って虚無感を抱いて生きる未来は壊してしまおう、そう考えて過去へと飛びました。」
そこまで語ると、清々しい表情で信之は顔を上げた。
「其の時に私は思ったのです。過去を変える為には、先ず、自身が変わらなければ、と。家を守る為と言い聞かせて、全てを諦めていた自身も変わらなければ過去はまた『同じ』過去を繰り返してしまう。なら、全てを守る為に『耐える自分』を捨ててしまおう、と。」
「そうか…‥」
信之の告白に、昌幸は少し肩をすぼめて小さく笑った。
「…‥にしても変わり過ぎではないか?」
信長が少し呆れた様に告げる。
「一つの咎(とが)が外れたら、もう、開き直ってしまいました。」
信長の言葉に、信之も申し訳無さそうに笑って答えた。
「ですが、変わった事を後悔してはおりません。何故なら、こうして失くしてはいけない者達を救う事が出来て、そして、其の者達が生きて『現在(ここ)』に居るのですから。」
信之はそう笑って告げた。
過去を変え、未来が変わった。
居ない筈の今川義元、明智光秀、織田信忠、武田勝頼が生き延び、そして、過去が変わった事で、昌幸、幸村を失う未来が無くなった今日ノ本は、信之が『知っている未来』にでは無く、『知らない未来』へと進む道が変わった。
予想も付かない未来へと進み出した日ノ本。
だが、昌幸も、幸村も居る。
光秀も、義元も居る。
どんなに未来が変わろうと、皆と力を合わせれば、どんな苦難も乗り越えられる。
信之はそう感じていた。
穏やかな空気が流れる中、信長は日ノ本は『知らない未来』に進んでいると感じながらも、戦国の世を終わらせた『大坂』での大戦は、過去が変わった今でも、必ず起こると心の奥底で確信していたーーーー…‥
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