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茶々が信長と初めて会ったのは、小谷城が堕ちた時だった。
黒い大きな馬に跨がって、まだ幼かった茶々を見下ろしていた。
綺麗な黒曜色の髪。
紅曜色の外套と髪の色と同じ黒曜石の鎧甲冑。
黄金の瞳で、真っ直ぐに見つめていた。
目が放せなかった。
綺麗と思ったと同時に、身体中に伝わって来る威圧感と圧迫感。
其の威圧感と圧迫感に刃を交えてもいないのに、殺されそうと嫌でも思い込んでしまう。
息を呑んで見つめていると、不意に空気が軽くなった。
「っ!」
一瞬、そう、一瞬だった。
茶々を見つめる目が柔らかくなった。
だが、茶々が瞬きをした隙に、其の表情は元の冷たいものに戻っていた。
茶々は、此の時、全てを感じとった。
信長は、本意に父・長政と母・お市を裏切ったのではない、と。
燃え堕ちる小谷城を見つめる目は、切なさと寂しさが織り混ざった複雑な表情をしていた。
茶々は、其の表情を見て、自分は信長の近くに居たい、と強く願ったーーーー…‥
薄暗い部屋の片隅で、一人の少女が膝を抱えて埋くまっていた。
そして、其の目の前には一人の少年が、埋まる少女を心配そうな表情で見つめる。
「茶々様…‥」
少年が小さく声を掛けるが、少女・茶々は少年の声にも反応せずに顔を膝に埋めている。
そんな茶々の姿に、少年は少し顔を俯かせ、泣き出しそうな表情をする。
「幸村。」
「佐助…‥」
す、と音も無く、少年・幸村の側に降り立った忍・佐助は、幸村に声を掛ける。
「はぁ…‥相変わらず、か。」
「うん…‥」
「そんな顔すんじゃねぇよ。信長を良く観る奴なんざ、此の日ノ本には、何処探しても居ねぇよ。」
佐助は、溜め息混じりでそう告げると、俯いている茶々を見た。
「でも、どうして、皆、信長公を悪く観るんだろう。信長公だって、優しいところはあるのに…‥」
幸村の素朴な疑問に、佐助は再び溜め息を吐いて幸村を見た。
「皆、欲しいんだよ。」
「欲しい?欲しいって何を?」
佐助の言葉に首を傾げながら、幸村は問い質す。
「自分を『正義』に見せる為の『悪党』が。」
「っ!?」
佐助の言葉に、幸村は息を呑む。
「茶々に、徳川に降るのが一番の幸せだって、豪語していた高虎もそうだ。信長に降ってしまえば、誰もが信長を悪く観て、自分を『正義』と見てもらえねぇだろ?だから、徳川に降って、信長を完全『悪』にして、自分の事を正当化したんだ。自分を『正義』にするには『悪党』が絶対不可欠だからな。信長の苛烈な戦は、自身を正当化するには、皆にとって『好都合』な存在なのさ。」
「酷い…‥」
幸村は、佐助の言葉に唇を噛む。
「だけどな、幸村。真の『正義』、真の『義心』を翳す輩は、『悪党』の存在なんて必要ねぇんだ。真に貫く思いを胸に秘めた輩は、悪党が居なくても、自身で其れ等を主張出来る力を持ってる。」
佐助は、そう告げると、茶々の目の前に跪く。
「茶々、だから、高虎の言った言葉なんざ気にすんな。」
ぽん、と茶々の頭に手を置き、優しい言葉を掛ける。
すると、茶々が顔を上げた。
「高虎の言葉は、全て綺麗事だ。自身の手で人を殺した事がないから、そんな戯言を平気でほざくんだ。」
佐助は、茶々を目の前にして茶々に言った言葉を思い出しながら、憎々しげに吐き出した。
『茶々様、俺と一緒に徳川へ行きましょう。信長に天下は治まらない。アイツが生み出すのは、破壊と殺戮のみ。信長が天下を統べれば、日ノ本は滅びます。其れに、信長の下に居れば、何れ、お市様の様に、政略に利用され、殺され兼ねません。今なら間に合います。茶々様、俺と一緒に徳川へ参りましょう。』
「大嫌い…高虎も…吉継も…皆…‥っ」
茶々は、高虎の言葉を思い出しながら、そう、辛そうな表情で呟いた。
「茶々様…‥」
茶々の呟きに、幸村も唇をへの字にして、自分も泣きそうな表情になる。
「…‥アイツ等は、茶々を見てねぇ。アイツ等が茶々を通して見ているのは、長政とお市の面影だけだ。誰も茶々自身を見ている訳じゃない。」
「…………‥」
佐助の言葉に幸村は黙り込む。
「自分を見てくれない事程、辛い事は無い。死人に捕らわれる事と死人を偲ぶ事は違う。高虎と吉継は其の事に気付いていない。」
佐助はそう吐き捨てると、茶々の前に跪付いた。
「茶々、そして、幸村、一つ聞いていいか?」
佐助の言葉に、茶々は俯いたまま頷き、幸村も黙って頷く。
「お前の叔父である信長の周りは、敵だらけだ。毛利、長曽我部、本願寺、そして、徳川。確かに、高虎の言う通り、信長が往く道は破壊と殺戮しかないのかも知れない。信長に着けば、自身に待っているのは、死だけかも知れねぇ。…‥其れでも、茶々は、幸村は信長に着いて往くか?」
まだ幼い幸村と茶々に聞くのは、残酷かも知れない内容。
だが、信長に着くと言う事は、『そういう事』なのだ。
幸村の父・昌幸も其れを理解した上で、織田に降った。
勝頼も、義元も、昌幸と同じで全てを理解し、覚悟を持って、織田と同盟を組んだ。
大人である昌幸達が覚悟を示した。
ならば、幼いとは言え、幸村達にも覚悟を示さなければ、此の先、生きて生き抜くなんて出来はしない。
「…‥兄上は、織田に降る前から覚悟を持って、父上に着いて戦っていました。目を背けたくなる様な血生臭い戦場でも、泣き叫ぶ事もせず、逃げもせず、顔を背く事もせず、父上と共に戦って来ました。其の姿を見て、私も『こうありたい』と常に強く思っていました。…‥ですから、もう、私の覚悟は決まっています。」
幸村は力強くそう答え、真っ直ぐに佐助を見据えた。
「私も、小谷城が堕ちて、織田に保護されて、叔父上と一緒に過ごす事で叔父上の本当の姿を知って、叔父上の側に居たい、叔父上の力になりたいって、ずっと思ってた。だから、聞かなくても、私の覚悟は決まってる。」
茶々もまた幸村と同じ様に、力強く、真っ直ぐに佐助を見た。
其れを見た佐助もまた、二人を見据えて力強く頷き返した。
「幸村達の覚悟は分かった。なら、今から、二人は信長の下へ行け。」
「え?どうしてですか?」
「信長に降る、其れが意味するのは、他の勢力から命を狙われるって事だ。そうなったら、一番に狙われるのは、幼いお前達だ。」
佐助の言葉に、二人は息を呑む。
「だからこそ、二人は信長の側に居るべきなんだ。其れに、俺は信長付きの忍だ。信長の側に居れば、二人も守る事も出来る。」
佐助は、そう言いながら、二人の肩をぽん、と軽く叩いた。
「そうですね、覚悟を決めたとしても、私達はまだ自身を守る術を持っていません。勝手な振る舞いをして、敵の手に堕ちたとなっては、信長公の足を引っ張り兼ねません。茶々様、佐助の言う通り、信長公のお側に参りましょう。」
幸村がそう茶々に告げると、茶々もまた小さく、こくり、と頷いた。
「力が欲しい…‥」
同時に茶々が呟く。
「力を欲するのは、まだ、早い。今は、護身の為に、力有る者を頼れ。力有る者に頼り、力を蓄えろ。時が来れば、其の力は自身の強みになる。」
佐助は茶々の言葉に、そう助言する。
其の言葉に、二人は力強く頷いた。
「茶々と幸村が決断したよ。」
「そうか。」
佐助の報告に、信長は小さく笑み、もう既に、二人の答えは分かっていたかの様に、目を伏せながら頷いた。
「…‥卯ぬは…‥」
「俺も、もう決断した。」
信長が何かを聞く前に佐助は言葉を発した。
「俺を拾って育ててくれた師匠…‥半蔵には恩がある。そして、俺を仕えさせてくれた家康にも。けど、其れは、織田に降る前までの話だ。信長付きの忍になった今では、そんなもの関係ない。俺は、俺自身の意思で半蔵と家康と敵対する。」
「…………‥」
佐助はそう言い切って、真っ直ぐに信長を見据えた。
信長は黙ったまま、佐助を見つめた。
「其れに、俺が着いていないと、アンタ、また、至らない業を背負いそうだもんな。其の至らない業を背負わせない為にも、俺が着いていなきゃあな。」
佐助は、そうおどけて笑って告げる。
そんな言葉に、信長もふ、と笑い、
「…‥で、あるか。」
と小さく呟いた。
様々な決意を胸に、信長の下へ終結する武士達。
全ての志は、信長へと流れていくーーーー…‥
ーーnext