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広間内に、緊迫した空気が流れる。
下座に座る者と、上座に座る者との間に流れる空気に、誰もが息を詰めた。
「…‥徳川の者が、敵対する予に何用か?」
先に口を開いたのは、上座に座る此の屋敷の主でもある信長。
「………………‥」
が、信長の問いに、下座に座る者は答える事無く、ただ、黙って不機嫌な表情で信長を睨み付けていた。
其の様子に、昌幸や信之もまた、不機嫌そうな表情をし、眉間に皺を寄せた。
「…‥そう不機嫌そうに、信長公を睨み付けるな。私が記憶する限りでは、信長公はそなたを不機嫌にさせる事はしていないと見受けたが?」
痺れを切らせて、織田軍の総軍師を務める黒田官兵衛が横から口を開く。
「…‥こんな卑怯で冷酷な者に、頭を下げねばならないなんて…‥屈辱的です。」
ぼそり、と呟き、悔しげに唇を噛む。
「ほう、冷酷と申すか?信長公の『何を』見て、そう発言するか?」
官兵衛が更に問い掛ける。
「何故、此の者を庇いますか?」
「庇う?私は、信長公を庇ってはないが?」
官兵衛は、激情言を冷静に受け止め、更に問い掛ける。
「…‥私を侮辱しますか。」
「是はまた、心外ですな。貴女を侮辱するなどと。侮辱と言う言の葉を借りるならば、貴女の言動こそ、信長公への侮辱になりまするが?」
「此の男に、侮辱を感じる程の『人間』らしい感情を持ち合わせているのでしょうか。」
ざわ、と周りがどよめいた。
ーーーー瞬間…‥
ご、と鈍い音と共に、女が倒れ込んだ。
最初は、何が起こったのか、分からず、自らの頬を女は自らの掌で押さえた。
倒れた自らに影が差し込み、誰かが傍らに立った事を理解する。
顔を上げると、其処には、怒りを称えた形相で自らを見下ろし、仁王立ちしている信之が居た。
そんな信之の表情を見て、自分は殴られたのだ、と漸く理解出来た。
女性に男が手を上げる等許される事ではないが、此の場に居合わせた者達は今の信之の行動を叱責する者は誰も居なかった。
「稲殿。貴女は何をしに、此の屋敷を訪ねられたのか。信長公を罵る為『だけ』に訪れたのならば、私が容赦はしない。そして、其の罵りの言の葉を吐き出すのだ。相応の『覚悟』はお持ちと判断した。」
かちり、と陰陽刀の鞘に手を掛ける。
其れを見て女・稲はハッとする。
此の屋敷は、織田信長が館主。
そして、此の地は信長が統治する尾張国。
そんな信長の息が掛かる領内で、平気で暴言を吐く。
そんな事をすれば、我が身に降り掛かるものは何か。
稲は、全てを理解すると、きゅ、と唇を噛み締め、顔を俯かせる。
「信之、良い。下がれ。」
緊迫した空気が流れる空間に、落ち着き払った信長の声が響く。
「ですが…‥っ!」
「構わぬ、信之。」
抗議しようとする信之を信長は静かに首を横に振る。
そんな信長の仕草に、信之は不満気だったが、信長が再び首を横に振ったのを見ると、静かに腰を下ろした。
信之が座ったのを確認すると、信長は改めて稲姫に向き直った。
「信之の無礼、許されよ。」
信長はそう稲姫に告げた。
稲姫は、何も言わずに、座り直した。
「稲よ、改めて卯ぬに問おう。予に何用か?」
「………………‥」
信長の問いに稲姫は唇を真一文字に結んだまま、口を開かない。
「未だに、家康への忠義、武士としての士義を重んじる様では、貴女が願う思いは成し遂げられは致しませぬぞ。」
稲姫の心の内を見透かした様に昌幸がそう告げる。
びくり、と稲姫の肩が揺れる。
「卑怯、卑劣、そう信長公を罵り眼(まなこ)で見つめ続けられては、信長公自身も居心地が悪い。いい加減、気持ちを切り替えよ。」
「出来ません。出来る筈無いではありませんか。」
昌幸の言の葉に、稲姫はきっぱりと迷う事無く、言い切った。
昌幸は、苛立ちを覚えた。
(この、女…‥っ!)
「ならば、去ね。」
信長の声が冷酷に、冷たい響きを持って、部屋中へと響き渡る。
広間内の空気が一気に凍え冷える。
「頭を下げるも屈辱、気持ちを割り切るのも皆無、ならば、去ね。今ならば、卯ぬに危害が加えぬ故、去ぬるならば今ぞ。」
信長は、そう稲に一時の猶予を与える。
実直で誠実。
良い意味で言うならば、そうなのであろう。
だが、悪く言えば、頑固で愚直で、融通が訊かない厄介者。
自分が酔高する家康が敵対する信長を前にして、自身の首を締め、身動きすら出来なくなる様な言動をするなど、愚の骨頂。
(本に何しに来たのだ、此の愚女(くじょ)は。)
昌幸は、信長の言の葉に屈する姿勢を見せずに、自分等が忠告したにも関わらず未だ挑発的な視線を向ける稲姫を見て、呆れと憤りを覚えていた。
だが、そんな昌幸の苛立ちを他所に、稲姫は信長の忠告を無視する。
「殺すのですか?」
「何故、思考がそちらに向かう?殺すも何も、卯ぬは予に刃を向けてはおらぬだろう?」
「ふん、分かるものですか。貴方は、冷酷にて無慈悲な御方故。」
稲姫は、ふい、と顔を背け、つっけんどんに言い放つ。
信長は眉間に指を当てる。
話にならない。
皆、そう感じていた。
本当に何しに来たのだ。
そんな思いが広間中に拡がっている。
苛立ちを通り越して、憤りを感じる。
信長は、稲姫との会話に疲れを感じていた。
問い掛けてみても、其の問いの答えが返って来ない。
柔軟性を持った言の葉を投げ掛けても、信長に対する固定概念が強過ぎて、会話にすらならない。
(さて、どうしたものか。)
信長は頭を抱えた。
(ん?否、待てよ…‥)
信長はとある事に気付く。
(以前に、稲姫は何とぼやいておった?確か『頭を下げねばならないなんて』とぼやいておらなんだか?)
『家康に』では無く、『信長に』頭を下げなければならない事態。
一体、何か。
信長は、稲姫や皆に分からぬ様に、こん、と指先を叩いた。
其の音に唯一気付いた佐助が、黙って、其の場から姿を消す。
其れを見た信長は、改めて稲姫に向き直る。
「あい、分かった。言いたくなくば其れで良い。卯ぬが其の態度を崩さぬならば、此方としても考えがある。我が間者を使い、調べさせてもらう。否めは訊かぬぞ?そうせざるを得ぬ状況を造りしは卯ぬぞ?」
稲姫が何かを言おうと口を開いた瞬間、信長は先手を打ち、有無を言わせぬ様に楔を打つ。
そんな信長に、稲姫は再び唇を悔しげに噛み締める。
暫くの沈黙。
何を語るでも無い。
皆が皆、唯、黙って待ち続けた。
そして、空気が動いた。
「佐助か。」
「信長さん、この女が此処に居る理由が分かったよ。」
「そうか。」
稲姫は、佐助の失礼な物言いに何か言おうと口を開いたが、昌幸が其れを一睨みで押さえ付けた。
「負傷した忠勝さんが、此処からそんなに離れていない山の中にある小屋に居た。」
「っ!?」
佐助の言の葉に、皆が驚く。
途端、信長ががたり、と勢い良く立ち上がり、険しい表情で稲姫に近付き、乱暴に胸倉を掴み、そのまま稲姫を引き上げた。
「下らぬ自尊心等、捨てよっ!!」
信長の怒りが含まれた激言(げっごん)。
「卯ぬは、父の命より、自尊心が大事かっ!!そうでなければ、素直に助けを求めぬかっ!!!この、大うつけがっ!!!」
信長の滅多に無い激昂。
信之も昌幸も皆、其の激昂に黙り込む。
「長秀っ、一益っ、早急に山小屋へ駆けよっ!!」
「はっ!」
「承知致しました。」
「大事が遭った後では遅いっ!!迅速に行けっ!」
信長の命を受け、長秀と一益が素早く立ち上がり、広間を出て行く。
「…‥卯ぬは、命を救うのに、恥も外聞も捨て切れぬのか?大切と思うておるなら、死なせたくはない、と感じておるなら、自尊心等、簡単に捨てられる筈ぞ。其れが出来ぬと言う事は、卯ぬにとって、忠勝は命を救うに値せぬ小さき存在と言う事になる。」
「…‥っ!?そんな訳ありませんっ!!父は私にとって、偉大な…‥っ」
「ならばっ、自尊心を先に起たせるでないわっ!!!」
「…‥っ!?」
信長の再びの激昂。
其の激昂に稲姫は萎縮し、きゅ、と唇を噛み締める。
「命は尊い、と叫ぶならば、自らを尊させるでないわっ!!」
信長の言の葉に、昌幸は哀しげに目を閉じる。
「父上…‥」
「ああ、信長公は傷付いた忠勝と佐和山城で命を堕とした森可成殿を重ねておられる。」
「可成殿の件(くだん)は信長公の責任では…‥」
「そうだ。信長公が責を感じる必要は何処にもない。だが、理解していても考えてしまうのだ、『もし』『〜していれば』とな。」
「……………‥」
「信長公はそんな事を感じていても、表情に感情に表す事は無い。だが、独りにならば、嫌でも考えてしまう。」
昌幸は、そう告げると、哀しげな表情で信長を見た。
ーーnext