・
――――私の世界に、色は無い。
見渡す限り、黒一色だった。
そんな世界に、私は興味を示す事は、皆無に等しかった…‥
「兄上。」
「ん?何だ?幸村か?」
不意に信之が顔を上げ、幸村が居るであろう場所に顔を向ける。
「…‥今日も異常はありませんでした。」
「そうか、御苦労だったな。」
「では、私は是で失礼致します。」
「ああ、ゆっくり休め。」
幸村はそう言いながら、頭を下げ、信之の部屋を後にしようと襖に手を掛けた。
――――そして、ちらりと信之を振り向く。
信之は、そのまま襖に背中を向けて、座っていた。
身動きすらしない。
そんな信之を見て、幸村は溜め息を吐き、部屋を後にした――――
何時もと変わらぬ務めの後の報告。
そして、同じく何時もと変わらぬ信之の対応。
幸村は、歩いていた足を止める。
――――そして、ゆっくりと目を閉じ、物思いに耽る。
何時から、ああなってしまったのか。
考えてみると、其れは信之の瞳が完全に何も映さなくなった頃からだったと幸村は記憶する。
目にまだ『光』があった頃は、信之の表情や感情は豊かなものだった。
――――だが、永久に『光』を失ってから、信之は変わった。
信之は『光』を失ってから、部屋に隠りっぱなしになった。
最近では、部屋の襖が開かれるのを見た事がない。
そして、感情を示さなくなった。
笑う事は偶にあったが、其れは上辺だけの笑みで、心からの笑みではなかった。
――――幸村は、ゆっくりと閉じていた瞳を開く。
幸村は、部屋に隠りっぱなしになってしまった信之に、成る可く一人にならない様に、接する事にした。
そうする事で、信之が昔の様に、瞳に『光』を宿らせていた頃の様に、感情を取り戻してくれると信じていた。
――――だが、信之に感情は戻る事は無く、未だに務めが終われば、報告するだけの会話しかする事は無かった。
(…‥私は、無力だ。)
幸村は、何も出来ない自分に腹を立て、唇を噛み締めた。
だが、悲観する事は何時でも出来る。
(私は、まだ、諦めてはいない。何時か、きっと…‥)
――――信之は必ず『光』を取り戻す。
幸村は強くそう信じて、ゆっくりと止めていた足を進め、自らの部屋へと戻っていった――――
――――此処は、尾張にある小さな薬師所。
「信長、ちょっと来なさい。」
「何用か、父上。」
信長と呼ばれた青年は、自分を呼んだ人物を振り返る。
「沼田城を知っているか?」
「ああ、東信濃にある…‥」
「ああ、知っているなら、話は早い。是をその沼田城まで持って行って欲しい。」
その人は、小さな風呂敷を信長に渡すと、そう告げた。
「是は、薬か?」
信長は其れを受け取りながら、目の前の人に問い質す。
「ああ、あの沼田城に真田信之と言う人物が居る。その人のものだ。」
「何処か、加減が悪いのか?」
「ん?まぁ…な。兎に角、持って行ってくれ。」
「ああ、分かった。」
信長は、曖昧な言葉で話す彼に首を傾げたが、直ぐにそのまま沼田城へと向かうべく師所を出た――――
「ちっ…‥付いてない…っ」
信之はそう舌打ちした。
信之は暫く部屋の中で大人しくしていたが、偶には外の空気でも吸ってくるかと軽い気持ちで部屋を出た。
――――が…‥
矢張り、盲目なせいか、直ぐに自分が何処を歩いているか分からず、不覚にも迷ってしまった。
「こんな事なら、部屋で大人しくしておけば良かった。」
信之はそう溜め息混じりで呟いた。
そして、信之は人の通りの邪魔にならない場所に移動し、壁に凭れ掛かり、その場に座り込む。
再び溜め息を吐き、今度は空を見上げる。
見上げると言っても、自分は盲目なのだから、空の色を映す訳でも無い。
――――全てが闇だった…‥
見渡す限り、闇だけが広がっている。
何も見えない事に、恐怖を覚えている訳ではない。
だからと言って、見えない事で日常生活に支障を来している訳でもない。
――――唯、孤独感が自分を支配する事が時折ある。
この世界で、唯一人取り残された感覚を何時も覚える。
多分、周りの人から見れば、今の自分は情けない表情をしているかも知れない。
――――そう感じた信之は、趣に顔を俯かせ、長い髪で態と顔を隠す。
虚無感、悲壮感、孤独感、様々な思いが信之の心の中を支配する。
其れに居たたまれなくなり、急いでこの場所を離れようとして立ち上がろうとした。
――――すると…‥
「…大丈夫か?」
不意に掛けられる声。
信之は顔を上げ、声が聞こえた方向に視線を向けた。
――――見上げた所で、支配する闇は変わりないのだが…‥
「何処か、身体の具合でも悪いのか?」
耳障りの良い柔らかな声。
声色や声音で、自分を心底心配しているのだと言う事が理解出来る。
然し、信之は困惑していた。
道端に座り込み、然も何処の誰とも分からない人物に声を掛けてくる人は初めてだった。
(知らん顔して、物珍しさで、話の種にしている人は沢山居たが…‥)
こうして話掛けてくる人は、初めてだった。
「おい…‥」
「あ、ああ、済まない。何でもないから気にしないでくれ。」
信之がそう言って、声を掛けて来た人にそう答える。
「そうか、ならば、良い。――――立てるか?」
「え?」
是もまた信之は、不意打ちを食らってしまった。
まさか、更に気遣われるとは思っていなかったので、信之は直ぐに返事が出来なかった。
――――すると、不意に膝の上に置かれた腕に掛かる温かさ。
ふわりとその手を包み込む様に両手で腕を掴まれる。
「家は何処(いずこ)か?送る。」
信之は握られた腕にも驚いたが、その後に続いた言葉にも驚いていた。
その驚きで、暫く返事を返せずに居ると、声を掛けて来た青年(声音で男と判断した)が動く気配がした。
このまま、自分を置いて行くのだろうと思っていたが、青年は立ち去ろうとはせず、その場に立ち尽くしている。
そして、何かブツブツと呟きが聞こえて来た為、信之が聴覚に全ての神経を研ぎ澄ましてみると、
「歩いておる時に、足を怪我して、立てぬのか……‥?だとしたら、一人では無理故、誰かに…‥」
と、まだ立とうとしない信之の心配をしていた。
――――信之は、何度目か分からない驚きに支配された。
まさか、心配されるとは思っていなかったので、正直唖然とした。
だが、このままでは誰かを呼びに行き兼ねないと判断した信之は壁に手を置き、其れを支えに立ち上がった。
「心配させてしまって、済まない。唯、歩き疲れたから、座り込んで休んでいただけだ。だから、大丈夫だ。」
信之はそう言うと、城があるであろう方向を向き、そのまま歩き出そうとした。
すると、再び手に感じる温もり。
「手を貸す。」
青年はそう言って、優しく信之の手を握った。
「差し出がましいかも知れぬが、此処で会ったのも何かの縁(えにし)。送る。」
青年はそう言うと、驚きで硬直している信之の腕を引き、優しくゆっくりと歩き出した――――
誰かと一緒に歩く事は、信之にとって今日が初めてだった。
自分が盲目になってから、誰かが隣に立つのを信之は拒絶した。
拒絶した理由は至極簡単だった。
自分は盲目の為、相手との距離感が掴めない。
掴めないから、隣に居る者とぶつかったりするかも知れない。
もしかしたら、怪我をさせてしまうかも知れない。
そう考えると、信之は自然と人との接触を極力避けた。
沼田城に居る家臣達とも、話は疎か、顔を見合わせる事も殆ど無くなった。
・