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仄暗い世界。
浮遊する身体。
朦朧とする意識。
誰もいない。
いるのは自分だけ。
酷く寂しく、不安で。
ともすれば、己すら曖昧になる。
必死に手を伸ばすが、暗いそこでは何も見えない、掴めない。
諦めて、ただ漂う。
暗闇に淘汰されそうな感覚。
不安で胸が押し潰されそうになる。
それでも漂う。
何も出来ないのだから。
諦めて、寂寞と恐怖と共に、漂う。
「…─吉、吉」
暗闇から名を呼ばれた。
誰かなんて、考えずとも分かる。
己を『吉』と呼ぶのは、一人だけ。
「吉、苦しいのか?」
普段剛毅な声音は、いやに弱い。
「吉、」
段々遠ざかる声。
待って。
行かないで。
独りにしないで。
手を伸ばせ、声を上げろ、目を醒ませ。
言う事を聞かない身体を叱咤する。
早く早く早く──…。
「…ちちう、え?」
急に浮上した意識。
開いた瞼の中に飛び込んでくる明かり。
そして、
「おお、吉。大事ないか?」
父、信秀がいた。
強面をくしゃりと、喜びに歪ませている。
「おちち、」
手を伸ばし、信秀に向ける。
信秀は、心得ていると言わんばかりに吉法師を抱き上げた。
太く逞しい腕。
軽々と幼子を収めた。
「政秀から急使が来たから驚いたぞ」
美濃の油売りや今川の白塗り殿が攻めてきたのかと思ったぞと、笑う。
からかう口調だったが、額には汗の粒が浮かんでいた。
相当慌てて来たのだと知れる。
「またお前が熱を出すとはな…」
感慨深げな声。
だいたい男の童子は、女の童子より病を貰いやすい。
吉法師もそうだった。
もっと幼い頃は、よく熱を出していた。
だがそれも、ひとつふたつと年を重ねる度に少なくなった。
これなら城主として一人立ちさせても大丈夫だと思っていたのだ。
一城の主となった吉法師は、どんどん逞しくなり、家臣達の手がつけれないほど腕白になった。
昔の弱々しかった面影はない。
そんな吉法師が、熱を出し寝込んでいると。
信秀は肝が冷える思いがした。
供さえ振り払う勢いで名護屋城に来てみれば、吉法師はうんうん唸り、涙を溢していたのである。
触れた頬は熱く、汗と涙で湿っていた。
声を掛けるが反応はない。
医師を呼べと怒鳴れば、家老の平手政秀が既に呼びに向かったと、他の家臣が答えた。
名を呼び、汗を拭ってやる。
すると、瞼がぴくぴくと動き、開いた。
ぼんやりとした眼だったが僅かに安堵したのだ。
「お父…」
「ん」
あやすように、背中を軽く叩く。
ぽんぽんと。
「白湯でも飲むか?」
あれだけ汗をかいていたのだ。
喉が渇いているだろう。
だが吉法師は首を横に振るう。
「喉、乾いておらぬのか?」
再び聞けば、吉法師はまた首を横に振るった。
「…どっちだ」
信秀は困った。
まだ朦朧としているのか、それとも甘えているのか。
「吉や」
試しに、口元に湯飲みをあてた。
中身は常温の水だ。
口唇に水があたるぐらいに傾ける。
こくり、と吉法師の喉が動いた。
こくん、こくん。
まだ喉仏の無い喉が、立て続けに嚥下した。
どうやら喉は渇いてたらしい。
暫くした後、僅かに口を背けた。
「もういらぬのか?」
湯飲みをどかし、濡れた口唇を親指の腹で拭う。
腕の中の吉法師は、くたりとしたまま動かない。
されるがままだ。
「お前が赤子の頃のようだなぁ」
大の父好きなこの子供は、幼い頃は信秀と、乳母の養徳院以外にはなつかなかった。
たとえ病気になっても、世界にはこの二人だけがいればいいとばかりに、他の者が近付くだけで泣き喚いたものである。
尾張の虎と謂われる信秀を生涯でもっとも手こずらしたのは、吉法師に他ならないだろう。
「もうすぐしたら医師がくるからな。すぐに具合もよくなろう」
「………」
朦朧としているくせに、途端に眉を潜めた。
だいぶマシになったとはいえ、まだまだ近寄る人間を選ぶ。
「困った奴よな」
信秀の片頬が上がる。
身体を緩く叩き、あやす。
「頬が林檎のように紅いぞ。はよう医師に診てもらわねば、大人になってもそのままかもしれぬぞ」
からかえば、吉法師が口唇を尖らせた。
「………りんごは、好かぬ」
吉法師の返答に、堪えきれず笑いが落ちる。
「そうか、そうか。ならばちゃんと医師に診て貰わぬとな」
「…ん」
甘えるように、信秀の羽織を握る。
静かな空間に荒い呼吸が目立つ。
小さな身体で耐える姿がなんとも可哀想であった。
「……吉や、早う大きゅうなれよ」
揺り籠のように腕を揺する。
眠気を誘われたようで、吉法師は小さく欠伸をした。
大きくなれ。
大きくなれ。
父をとんと越えるがよい。
いずれこの腕に抱えきれなくなるだろう。
その日が待ち遠しいような、寂しいような。
信秀は遠い未来(さき)の事に思いを馳せる。
吉法師はと言えば、この腕の中は安心だとばかりに、目を閉じていた。
終.
※信秀パパの願い通り、吉法師たんはすくすく育ちました。約二メートル…。
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「織田、信長…」
その男の名をいつ知ったかは忘れた。
それでも、どうしようもなく腹が立った事は鮮明に覚えている。
肌がちりちりとわななき。
胃の中を引っ掻き回され。
臓物が煮えくり立った。
心の蔵のその奥で、たぎるどうにもならない苛立ち。
織田信長。
その名前と共に知った奴の生い立ち戦歴が、儂を苛立たせる理由に外ならぬ。
奴は儂と同じように、母親に疎まれていたそうじゃ。
そしてその母に担がれて、当主を奪おうとした弟を死に追いやった。
初めてその事を聞いた時、まるで自分の事を聞いている様で。
鏡に写した己自身を見ているような、顔すら見た事無いというに妙な親近感を確かに抱いておった。
いや。
親近感というよりは憧憬に近いものだったかもしれぬ。
二万近い今川軍を半分にも満たない兵で撃ち破った。
賛嘆以外の何を思う。
だがそれは僅かな間。
歳を重ね、彼奴の戦歴を深く知り理解してからは、憧憬は焦燥に尊敬は嫉妬にへとたやすく変貌した。
何故、彼奴なんじゃ?
よく似た境遇で育った、彼奴と儂を別けたものはなんじゃ。
同じように母に嫌われ、血を分ける者を殺した。
なのに、天下に、龍神に選ばれたは彼奴。
天下を手中にすべく邁進し、多くの諸将を跪ずかせる、天下人にもっとも近い男。
そのくせ己を正義だと公言せぬ不器用者。
絶対的な王として。
超越的な神として。
不可侵的な魔王として。
百年近く続いた戦乱の代を終決すべく、善も悪も、全てをその身に抱えてただひたすら走り続ける。
誰もが夢を見て諦めた、天下統一という、もはや童子でさえ見ぬ夢物語を。
ある意味一途。
また純粋。
それが儂の見地の織田信長という人間像。
嗚呼、何故じゃ。
何故、天は儂ではなく、彼奴を選んだのじゃ?
儂の何が彼奴に劣ったと言うんじゃ?!
言葉に出来ない怒りが、腹の中で轟々と燃え盛る。
焦燥
嫉妬
憤怒
そのどれとも似て非なる感情が身体を苛む。
これは何じゃ。
儂は一体どうした?
「政宗様が後十年早くお生まれになっておられば…」
回りの者達がこぞってそう放つ。
馬鹿な事を言う。
じゃが、
己でも思わなかった事は無い。
もしも、儂が十年早く生まれていれば。
もしも彼奴が十年遅く生まれていたら…。
もしも、
もしも、
もしも、
その言葉を抱く度に空しくなるのはどうしてか。
終.
※※前書き※※
皆さん、1ヶ月振りです!
生きてますよー!私、図太いですからねー(笑)
さて、今回の御相手はこじゅです。
世にも珍しいこじゅです。
これからも、亀更新ですが、長くお付き合いして頂くと嬉しいです!
では、本編へゴー!!!