・
信長は、眉間を指で押さえ項垂れていた。
両脇に控えている昌幸や、幸村、信之に直政達も、信長と同じ様にうんざりした表情で項垂れていた。
項垂れる原因を作ったのは、信長の目の前に座る女性。
佐助と可成が捕まえ、織田屋敷に連行してきた。
元は幸村付きの忍だったらしいーーーー…‥
ーーーーのだが…‥
此の女性もまた、忠勝の娘・稲姫に負けず劣らず、自尊心が強い。
故に、尋問を行ってはいるのだが、二言目には、幸村の『一番の忍』と言い張り、尋問どころでは無くなって来ていた。
「くの…‥」
「喋って欲しかったら、幸村様を私に返してっ!!だったら、喋ってあげる!そうじゃなきゃ、絶対喋ってやらない!」
「…………‥」
是の繰り返しである。
信長は、だんだんと苛立ちを覚え始めていた。
幸村に対して『返して』とは何と物言いか。
幸村は、『物』ではない。
列記とした生きた人間なのだ。
なのに、女性・くのいちは幸村を『物』として扱う言動が多い。
そして、昌幸、信之もまた、信長と同じ様に、苛立ちを覚えていた。
幸村本人を目の前にして、物扱いをする様な言動。
(幸村の感情、思考を全く考えていない一方的な物言い。実に不愉快ぞ。)
「幸村は卯ぬの『物』では無い。其の物言い、慎めよ。」
「誰がアンタの言う事なんか、聞くもんかっ!!序でに言うなら、幸村様はアンタのもんでもないわよっ!!」
「…………………‥」
会話が噛み合わない。
くのいちは、信長の真に言いたい事を理解していない。
其の事に、昌幸がキレた。
一瞬だった。
皆、何が起きたか分からなかった。
昌幸が突如として立ち上がったのは理解出来た。
だが、其の後の動きが素早過ぎて、皆の思考が止まってしまっていた。
気付いた時には、くのいちが昌幸に拘束され、頭を畳に押さえ付けられていた。
「実に不愉快よ。我が息子を『物』扱いした上に、私物扱いか。殺意すら覚えるわ。……‥胸糞、悪い。」
低く、地を這う様な声音。
頭を押さえ込む手に力が籠る。
くのいちに恐怖を植え込むには、十分過ぎる言の葉。
心底から怒りに震えているのが否応なしに理解出来た。
「此処は、織田屋敷。御主は、自身が吐き出す言の葉次第で、其の命、一瞬で消えるものと覚悟致せ。」
「……………‥」
信長は、昌幸を止める事はしなかった。
信長だけではない。
信之も、可成も、直政も、そして、幸村ですらも、昌幸を止める事はしなかった。
「虚嘘(きょう)の言の葉を広め、片倉を騙し誘い、全てを錯乱させた罪、其の身全体で受けるがよい。」
信長の冷めた言の葉。
もう、救いようのない罪条。
誰も、くのいちに味方する者はいなかった。
同情すら沸き上がらないくのいちの行い。
くのいちの処遇は、何も言わなくても、何かは理解出来ていた。
「卯ぬを生かしておくのは得策ではない。死んでもらうぞ。」
昌幸が信長の代わりにそう告げる。
「再三に渡る説得にも応じず、幸村を物扱いにする事も止めず、挙げ句の風評拡大行為。是だけの罪状があるのだ。処断の理由には十分過ぎるであろう?」
くつり、と昌幸は笑う。
頭を押さえ付けていない方の手で御旗槍を取り、矛先をくのいちの首筋に宛がう。
くのいちは、声を上げる事はしなかった。
否、押さえ付けられているが為に、上げたくても上げる事が出来なかった。
くのいちの命が消えようとしていた。
だが、くのいちを助命しようとする者は誰一人としていなかった。
そしてーーーー…‥
皆が見守る中、無情にも昌幸が手にした御旗槍の矛先が、くのいちの首に吸い込まれていったーーーー…‥
「……‥是で、良かったのか?」
くのいちの処断が終わり、静けさが戻った広間で信長の問いが響いた。
幸村は、其の問いにゆっくりと頷いた。
「はい、後悔は御座いません。」
「後悔している、していない、の話ではない。」
信長は幸村の答えに否を唱えた。
「……‥?」
幸村は信長の言いたい事が分からず首を傾げた。
「本来ならば、くのは卯ぬに仕える忍。故に、処断もまた、卯ぬが手で成せねばならなかった事。だが、昌幸が卯ぬが触媒となり、処断を下した。卯ぬが背負わねばならぬ業を昌幸が背負った。…‥『是で、良かったのか』?」
「ーーーーっ!?」
幸村は、信長の真に言いたい事が理解し、目を見開いた。
確かに、幼い間とは言えど、くのいちは一時期自らに仕えていた忍。
家臣とまでは言わないが、常に自身の身を守ってくれていたのは事実。
其の自らに仕える忍が、大罪を犯したのだ。
其の責を、処罰を、主である自身が下さねばならない。
其れを幸村は怠り、昌幸が代わりに処罰を下した。
自覚は無かったとはいえ、是は紛れも無く、責任転嫁である。
「私は…‥っ」
幸村は唇を噛み締めた。
「良い。」
信長の言の葉に、幸村が顔を上げる。
「卯ぬは純粋が故に、此の様な事で汚れて良い御身(おんみ)ではない。『穢れ』は穢れ慣れておる予や、昌幸が背負うが実情。卯ぬは卯ぬがまま、強き武士であれ。」
信長はそう告げると、ぽん、と幸村の頭を撫でた。
そして、昌幸もまた、信長の言の葉に、黙ったまま笑み頷いた。
「いいえ、私だけ兄上や父上や信長公の傘に隠れて、守られる訳には参りません。」
幸村は、そう告げながら、頭を振った。
「信長公、私にも相応の処罰を。」
「幸村…‥御主…‥」
幸村の言の葉に、昌幸が口を開いたが、信長の掌を上げ、制止の仕草を見て、口を閉じた。
「…‥良いのか?」
「はい。自覚無しとは言え、父上に罪を擦り付けてしまいました。其の処罰は、くのいちの主であった私が受けねばなりません。」
「うむ、分かった。其れ相応の処罰を与えよう。」
「はい、有難う御座います。」
処罰を受けるのに、有難うもないだろう、と思うが、其れが幸村らしい。
昌幸も、信之も、信長がどんな処罰を与えるのか分かっているのか、静かに信長の答えを見守った。
「予が卯ぬに与える罰は、ただ一つ『生きよ』。」
「え…‥?其れは、どういう…‥」
「どんな事があろうと、死ぬ事は許さぬ。其れが生き残るが困難な死地であったとしても、だ。昌幸や信之が知らぬ処で死ぬ事も許さぬ。…‥其れが予が卯ぬに与える罰、ぞ。」
予想通りの言の葉に、昌幸達は穏やかに小さく笑った。
「其れが…‥罰、ですか?」
幸村は、少し拍子抜けた様な表情で首を傾げた。
「幸村、死ぬ事より、生きる事の方がかなりの難儀ぞ。」
「そうだ、予は、卯ぬに武士として華々しく散る事を許さず、武士として屈辱である惨めさを曝してまでも生き続けよ、と言っているのだ。是程、苦痛で耐え難い罰はなかろう?」
「あ…‥」
幸村は、全てに合点がいくと、小さく声を上げ、信長が自身に与えた罰が死を宣告されるよりも、重きものだと気付いた。
「武士である卯ぬに『生きろ』と言う命令程、重いものはなかろう?他の者の考えは分からぬが、生きてこそその誇り、生きてこそその志は、更に輝き、後世に息付き、語り継がれていく。…‥予はそう考えておる。」
信長は、そう告げながら、自身の愛刀の柄を軽く叩いた。
「ふっ、幸村。是はかなりの大罰だ。御主に、償えるか?」
「償ってみせます。例え、其の償いが一生懸けても償えないとしても。」
「良い決意ぞ。」
幸村の答えに、信長は満足気に頷いた。
命に価値観等、存在しない。
命に価値を見出だす者は、命とは何たるか、を真に理解していない。
命は唯一無二の存在。
命を何だと思っているのか、と嘗て孫市が信長に問いていたが、そんな言葉が出る事自体、孫市は命に価値観があると考えている者の一人。
其れこそ、命は何だと思っているのか。
命は誰かが、価値を付けていい訳ではない。
命は、一つしかないのだから、価値を求める事自体間違いなのだ。
命は唯一。
そう、日ノ本中の人々が理解出来るのは、何時になるのか。
もしかしたら、一生、分からないかも知れない。
だが、信長は其れでも良いと考えている。
己が己らしく、人が人らしく生きる事を忘れなければ。
死こそ、誉れと思わなければ。
其の時が来るまでは、日ノ本に降り懸かる穢れは、日ノ本中の民に代わり、自身が被り続けてやろう、と信長は、そう思いを馳せた。
ーーnext