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夜走る

そろしいほど子どもだからだ

―――高屋奈月『星は歌う』



仕事中に台詞だけがぽんと舞い降りてきて、何の作品だったかが思い出せない。
帰宅してようやく判った。

恋人がいる男の人に気持ちを伝えて断られて、その理由を女の子が尋ねる場面。
どうしてだめなのか。
立場上いけないのか、恋人がいるからなのか。
相手はその両方だと答えてから、上の台詞を付け加えた。

こんなことを言われては誰であろうと、とても立つ瀬がない。威力のある台詞だ。
自分もおそろしいほど子どもだったときがあるし、今もあるんだろうなと考えると身体のどこかに穴が開きそうな気分になる。




風邪が治ってから色々なものを食べた。
お寿司も食べた。今日ようやくグミを食べた。

でもまだファミチキを食べていない
ファミマに寄って、ファミチキを買わなかった。とりわけファミチキが好きということはないし、いつも買うというものでもない。
ただ今日は品定めをしたかもしれない。あまりに身体に悪そうなものに思えて、少し敬遠した。

ふらりと寄ったコンビニで、ふらりとファミチキを食べていたころの自分は何も考えていなかったように思う。食べたいから食べる、ただ欲求のままに空腹を満たしていた。
しかし体調を崩してから、その行為は体力はもちろんのこと、自分のどこかに無頓着さがあったからこその行動だったのだろうなと考えるようになった。
自覚しているつもりで実際はエゴだけに沿っていた。
本当に何も考えずにただファミチキを食べていた私。

それなのに少し疲れが出たら、ファミチキを恐れる自分がいる。身体はもう受け付けられるはずなのにまだ遠ざけている。
ファミチキを食べるという行為を違う側面から見て、ファミチキとの関わり方を省みている。

こういうことは食事に限らず、これからどんどん増えていくのだろうか。
日常の中の脂っこい出来事も甘い出来事も、好きなだけ好きなようには、うまく消化できなくなっていくような変化。
スイパラ行けなくなる現象というものがこの世にはある。スイパラにはかろうじてまだ行けるような気はする。



先日、廻る寿司を食べに出かけた。
流れゆく寿司を眺めながら「他人に感情を向けることが気持ち悪い」とぼやくと笑われもせず普通に引かれた。
今日になってそのときの空気を思い出してじわじわきた。個人的にはその凍りついた空気がけっこう面白かった。
弁解すると私も百パーセントの気持ちで発言したわけではなく、そう思ってる自分もいるような気がしたところに言葉が口からこぼれた。
美味しいから美味しいとは思えないこともこれから先、もはや今から始まっているのでは。





背後から抱きつかれた。
本当に誰かわからず振り返ると、中学生の子だった。
すごく簡単に「好きです!」と言われ笑う。
その軽い「好き」だって「おそろしいほど子ども」と呼ばれる部分のはずなのに、人(私)を憂鬱にさせない。
「おそろしいほど子ども」はどこからがおろかなのだろう。
こうした文章を人に見せていることもおそろしいほど子どもの部分がなせるわざなのだろうか。


夜、車を走らせていると、何とはなしに色々なことを考える時間になる。
でも気が抜けるとびっくりするくらい一日のことを忘れてしまう。あれもこれもあって、あれもこれも考えて思っていたはずなのに。


この文章いっかい口語で書いてから軽いなぁと思ってちょっと堅く直したしたんですけど結果なんか暗いうえに恥ずかしいことになったこれはいかんぞ
と思ったけどファミチキ連呼してるしそれはそれでいかんぞ

前の記事で書いた『ふくふくハイツ』の中の「予感」って、小川未明の「野ばら」のような雰囲気があるなと思った。

自分の誕生花の花言葉を調べたら「愚者」だった。ねぇねぇ。愚者のエンドロール?




「夜を駆ける」がすごく好きです。歌詞も。青い糸!
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