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わたしの死因

17歳よりも、20歳よりも、そして30歳よりも、わたしにとって24歳はとても大事な年だった。

 ―――川上未映子「遠くなる、大事なできごと」
(Hanako No.1103掲載のエッセイ『りぼんにお願い』No.141)より



本を読んでいると、好きになる予定のなかったところがかけがえのない一文になって届く瞬間がある。自分でも知らない感情をそこに置かれた言葉から見つける偶然。それを偶然と思いたくなくて、言葉を書き留めておきたくなる。

二十四歳だ。
私はただの二十四歳なのに、二十四歳はただの二十四歳ではいてくれないことを一年かけてひしひしと感じた。
年齢を聞かれたときに二十歳ちょっと、ともう答えられない、周りの人がもっと焦るべきだと私をはやし立てる。
焦りはまだ無いけれど好きだった歌手が好きだった歌を作ったときの年齢を追い越してしまったことが悲しい。同い年の作家は今度何冊めかの本を出す。何故かさみしい。

季節が変わったらもう二十五歳になる。
でも今はまだ二十四歳で、今が二十四歳なのだ。そんなことを思いました。

スイーツ特集でチョコレートの頁があって、
男の子ふたりでチョコレート屋さんに行くという企画がなかなかにあざとい。男の子たちもわかってあざとい顔をつくっているのが毒気があって良かった。


「首をしめてください」

ふみふみこ『めめんと森』

絵柄で敬遠していて、そして何故か百合ものだというあらぬ勘違いまでしていました。まったく違った。
葬儀屋さんの話だということをしって興味がわいたのでよむ。
主人公の子は、感情がほぼ死んでいるのに人のお葬式でわんわん泣くのはいったいなんなのだろうと不思議だったのですが、最後に意外な結論が出されていて驚きました。ふに落ちるかと言われると落ちるような落ちないような、いくぶん「お兄ちゃん」の存在が作品のなかでもふわっとしていたからというのもある。
物語の時々で挿しこまれる「お兄ちゃん」という存在はひたすら異物感が強いのだけど裏を返せばそれが最も大きなテーマ、物語の根幹になる存在で、どうして葬儀屋なのか、第三者の立場でありながら葬儀のときに感情が抑えられないのか、お兄ちゃんがそのホワイを解く鍵になってくる。むしろ森魚さんのエピソードがなくてもよかったのか。いやいるよ。
恋の話だけど恋だけの物語ではないと思う。
恋から始まるんじゃなくて恋で終わる話。
失った立場から、いつか失う立場へ切り替わる物語。

好きな人に殺されてもいいっていうのは案外普通から遠い感情ではないと思うんですよね。思うだけなら。
でもそれは結局行き止まりの感情だから、正常でも正解でもなくて、思うだけならねってなる。




曲も素敵なんだけどブックレットとジャケットがとても可愛くて、こういう丁寧なつくりをみるとやっぱりデジタルよりアナログが好きだなあと実感する。


何でもいいから言葉を書かないと死んでしまいそうな日があって、そのどうでもいいエゴをないがしろにしたとき私は死んでしまうんじゃないかと思う。


このごろ日記の題が病んでいませんか。ひそかにハラハラしています。元気ですよ。



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