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金曜日に消える人

床に寝転ぶのが気持ちよい季節になってきた。でも身体は痛くて冷える。


一.

箱庭という言葉は知っていても実際目にしたことがある人はどのくらい居るのだろうか。私はあります。
河合隼雄『カウンセリングと人間性』
ちまちまと読んでいる。こういう分野も専攻してみたかった。心は一度壊れてしまったところは二度と元通りにはならないというのが個人的な考えではあります。カウンセリングも修復というよりは補強に近いのではと。ううん上手く言えないけど。
もう一冊去年から積んでいる本があってそれはまた読んだら紹介します。


二.

乱暴な言い方をすると、女性らしい文章、というものがあまり得意ではない。
女性が書いた文ということではなくて、だったら女性らしいという比喩を使う必要もないかもしれないけど他にいい表しかたがぱっと見つけられないのであえて使うが──なんというのか、言葉で例を示すとしたら「ゆるやかに」とか「わたし」とか。甘くてのどかで、ひらかれた文体。やわらかさを感じさせるような表現。
嫌いではない。駄目とも思わない。
私だって恐ろしいほどそんな表現を使っている。だからこそ読み難いのかもしれない。
柔らかいからこそ表現者の意図が露骨に見えてしまうように思う。文章の中に表現者の何かそのもののようなものをあらわすような何かを感じてしまうと怖くなる。わかりますか。わかりませんでしょ。

さらさらと水のように入り込んでくる無機質な文章のほうがずっと楽に読み進められる。いやしつこく言うけど嫌いということではない。

坂崎千春『片想いさん』

〈どうしてわたしはこんなにもひとりなんだろうと思った。そして、いつまでひとりでいればいいのだろう。〉

(「静かな生活 Quiet Life」より)


ずっと読んでいると苦しくなってくるのでかじりかじり読んでいる。
誰とも両想いになれない、そんな日常にある気持ちとそこに添う本と、ご飯と。エッセイです。
美しい本だけどその整った表現が読む私を苦しめる。逆恨みのようなものだけど。
何故だろうと今少し考えてみたけれどたぶんどのエピソードの最後も希望を含んだ終わり方をするからなのかもしれない。前を向くその可愛げ、のような部分が実感を薄めてしまう。
もっと心に抱えきれない戸惑いや歪みがあるのなら、どこかで納得したりしないで暗いものをぶん投げて終わったって構わないのに。それとも本当にそんなものないのかな。

かといって私のしていることはこの本にあることの劣化の劣化版のようなものだ

でも苦しくなるのはそれだけなのかな。
どれだけ前向きな終わり方をしていても、その底には救いようのない哀しみが潜んでいるからではないのかな。


三.

新しいパジャマを着て、夜の道をぐるりと一周してみる。家の中だけで着るのは勿体ないように思ってしまったのだ。
池が見える。当然だけど暗くて怖い。草の向こうは助かりっこない闇が広がっている。深夜徘徊なんて都会だからこそ悠々とできる遊びだと思う。
誰ともすれ違わない田舎の夜では、いないはずの人間と遭遇することがすでに異常事態なのだから。
金曜の夜なのに今日は驚くほど人がいない。どこなんだろう。


四.

今日は絶対早く寝ようと思ったのに
な。


五.

家からおおよそ八時間ほど歩けば海にたどり着くだろうと計算してみる。
夜中ずっとしみじみ歩いて、夜明けに海辺に到着する。そんな夜の過ごし方に憧れながら部屋でぬくぬくと寝る。今日から五月だ。










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