床がひんやりしていて気持ちいい。重力に逆らわずに、車に轢かれて道端で死んでいる野生動物よろしく倒れたままいると、おい大丈夫かよ、とさっき殴ってきた手がゆさゆさと揺すってくる。冗談でも、脳震盪を起こしていたらどうするんだよ、だとか、揺すったらさっき飲んだウイスキーが夕飯と混ざって出てくる、だとかそんな言葉が浮かんだけれど、目の前がちかちかして上手く言葉にならないまま、口は笑った形を作っていた。
ベフの強烈なパンチは、見込んだ通りだった。彼に初めて殴ってもらった日から随分経った、それでも相手を沈めて黙らせる威力はずっとそのままだった。仕事柄どうしてもそういう力を使わざるを得ないときがある、というのを聞いたことがあった。彼の仕事ならば仕方がない。治安を守るのは正義ではなくて力だ、とは東岸のメディアで騒がれていることらしい。最も人間に対して制圧的に接せられるのは間違いなく武力だ。それが備わっていて、尚且つ行使出来るのはその力を磨いている人にしか出来ないことだ。
ベフにはそれが出来た。一朝一夕で強くなれて、あれだけ重たい一撃を食らわすことが出来るのならば、誰だって鍛えようとする筈だ。でもそれが可能なのは限られた人々だけなのだと良く理解していた。だからこそ、俺は彼が好きだった。簡単には身につかない力を持っていて、それを躊躇うこともなく振るえる腕が、正に愛された腕だと知っていた。
床から頬を離す。ぐらぐらして視界が安定しない。瞬きを何度繰り返してもピントが合いにくい。すげえパンチ、と言葉にしたが自分の声がプールの中の反響音のように聞こえた。耳いったかな。まあいいや。口の奥がじんわりと熱く、喉の奥に鉄っぽい苦い味が広がっている。間違いなく切れた。それを意識した瞬間、胸の辺りがどきどきと脈打った気がした。
うう、と上体を起こして胡座をかく。うんこ座りをしたままこっちを眺めているベフへと視線を移した。大丈夫か、と今度はしっかり聞こえた。呆れたかどうかは分からないけど、眉根を寄せたベフの顔は訝しんでいるようにも見えた。そんな顔から彼の腕へと目をやる。仕事上がりのくたくたのワイシャツを捲って、毛深くも鍛えた腕の筋や筋肉が見える。
意識し始めるとダメだった。もっと殴って欲しい、遠慮を知らないあの腕で、思い切り暴力を奮って欲しい。自分が弱いから痛め付けられたいのではなく、純粋に痛みを与えてもらうことに快楽を見出すのだと知っていた。証拠に、股間はしっかりと勃起していた。まだ一発二発しか殴られていないのに、発情期前だろうか。分からない。とにかく今は気持ち良くなりたい。
スウェットをずり下ろして下着からペニスを取り出した。先端から漏れ出そうな欲の欠片を見て、ベフは噴き出した。
「いくら何でも早えだろ」
「早起きはサンモンの…何とかと同じだろ?」
「早漏かよバーカ」
あと使い方も違えって、とごつごつした拳にどつかれた。ああ最高だ。そのまま思い切りぶん殴ってくれよ。言葉に出ていたらしく、俺はもう一度冷たい床とキスをした。