ある何でもない日のことだったと記憶している。偶然立ち寄った西岸区画の広い運動公園にて、リードをつけて飼い主に寄り添う犬がいた。公園のベンチに腰掛け、鳩に餌を与える飼い主の一挙一動を見つめながら、たまに甘えるようにしてマズルを脚に擦り付ける。鳩を見ても吠えやしない姿はよく調教された証拠だった。あまりに長閑な光景だ。ありきたりと言えば言葉の通りだが、何も無い穏やかな日常が最も平和に近しいものと認識されるのだろう。
『クラブ1、応答しろ』
言葉に表したが、平和とはそもそも一体全体何を指すのだろうか。平和な状態を作り出す国家、国民、思想、行動、はたまた平和を享受している一国民の感情、平和の為に立ち上がるクーデタ軍、平和を信仰によって布教する宗教団体。平和を求める声は多い。それだけ需要が高まっているにも関わらず相変わらず人も、ディンゴもよく死んでいるこの国は、果たして平和であると断言出来るのだろうか。
『クラブ1、応答しろ!聞こえてんのかこの駄犬野郎!』
ひとつだけ確かなことがある。平和はあらゆる犠牲の上に成立するものだ。その犠牲が、人の欲望、利益や金銭、尊い(もしくは尊くもない)生命だったとしても、地盤が揺るがない限り平和は存在し得る。何かを代替として成り立つのならば平和は安いものだ。汗水を垂らし、血反吐を吐き、人やディンゴの営みを守る者達の生命の重さは、そうやって価値をつけられるのならば。
『何か言えよキェル!』
ばつん、ざざ、と無線の音量が耳に痛い中、聞き慣れた声にキェルは顔を上げた。無線の音量をのそのそと下げる。小煩い監視役はクラブ2だ。周囲の警戒と共に状況把握を担当している同僚に、キェルは今聞こえた、と真実には程遠い言葉を吐いた。
「無線の調子が悪かった」
『にしては無言が長ェよ!チームで動いてんだ、しっかりしろ!』
クラブ2が言うことも尤もだが、思考を深くまで巡らすと周囲の話が聞こえにくくなるのは当たり前のことだった。言い訳をしたところで、クラブ2の忙しない罵倒(文句)は止まることはないのだろうが。
キェルは悪かった悪かった、と適当にクラブ2をあしらうと、動きにくい防爆スーツの狭い視野を見回し、今自分自身が置かれている状況を確認した。
昼間の東岸区画・ヴェリテ区は、夜の雰囲気とはうってかわり、歓楽街らしさはどことなく控えめだった。現在非常線を半径500メートル範囲で敷いているというのもあるが、夜の光景とまるで違う様子は、どこか腑抜けている感じに見えた。
キェルは風景を見ていたが、そのまま静かに視線を下ろした。今回のギミックはこいつだ、と眉根を寄せた。
眼前に置かれたトランクバッグは黒色で、数日の旅行に用いるならば便利そうなありきたりなものだ。男女兼用で使えるだろうが、女性が好んで使う装飾もないシンプルなトランクバッグだった。南京錠は勿論、ダイヤルキーもついていない旧式のタイプだ。開けっ放しのキャッチロックは開けてみろと言いたげだ。
キェルはトランクバッグを動かさないようにそっと固定しながら、外見を探る。バッグの外側にコードの類は見られない。タイマー式によくある動作音もない。が、平たい地面に置かれている分、液体感知型の爆弾の可能性が一番高い。
もし自分が犯人であれば、持ち運びの際に間違いなく一度は斜めになるトランクバッグを使って、液体感知型の爆弾を作る。簡単に誰かの手によって運ばれるトランクバッグは、歩く爆弾と言うに等しく、最も効率が良いからだ。どこに置かれたのかを分からなくして、どこで爆発させるかの判断を"見知らぬ運び手"に任せる、言わば無差別爆弾だ。
キェルは息をついた。無線をオープンにする。
「作業に入る」
キャッチロックを静かに外し、トランクバッグの隙間に人差し指を差し入れる。もしも開けた瞬間、トランクバッグの蝶番部分に信管へと繋がるパーツがあったのならば、その瞬間キェルは肉片となる。外から見た分では問題ない、精巧に造られた外側からはそれらしきコードはなかった。
いつもこの瞬間が好みだった。生死の境目を綱渡りしながら飽きもせずガラクタの解体をする、この瞬間が。
「開けるぞ」
興奮を覚えながら無線にそう言うと、クラブ2は鼻で笑ったようだった。
『何か言い残したいことはあるか?』
「まるで俺が死ぬような言い方だ」
『天にまします我らの神よ、みたいなさ、よくあるじゃねェか。祈って生還祈願ってところだ』
「神に祈ったところで爆弾は止まらない」
くだらない云々やら軽口やらを言い始めたクラブ2を嗤い、キェルは今度こそ静かにトランクバッグを開けた。
開けた先に期待を込めて、微かな笑みを浮かべながら。
「で、中身はただの旅行者の持ち物だった訳か」
陽の当たるあたたかいテラス席で、ナヴィドはコーヒーを口にし、何でもなさそうな表情を浮かべた。落胆や退屈は慣れてる、想定内の顔で迎えてくれたナヴィドに笑いかけ、キェルは肩を竦めた。
「よくある話だ。通報してもらうのは有難いが、意外と本物は少なかったりする」
「気持ちは分かるぞ、俺もよく当てにならないものを掴まされる」
爆弾処理班と科学捜査班、畑は違えど苦労することは変わらないようだ。爆弾処理は10を0に戻す仕事、科学捜査は0から10を見つける仕事だ。ベクトルが違っても楽しみはある。
キェルはぬるくなってきたコーヒーを飲み干す。
「今度は"大当たり"の話を期待してくれ」
「お前が生きてるならどんでん返しと大団円は確実だな。いい事だ。楽しみにしてる」
実に楽しそうに微笑んだナヴィドは、そう言葉を残した。
午後の陽射しが緩やかな日常を作り出す。平穏な時間がゆっくりと過ぎていく中、キェルは手先の感触を静かに思い出していた。
大当たりは、きっと近い。