まだ肌寒い3月が終わりかけたある日だった。僕は同期の友人達と花見に来ていた、はずだった。昼間から、大学近くの城跡公園の桜を見ながら騒いで、適当に騒いで帰って惰眠を貪るつもりだったのだ。そんな予定が狂った原因は、僕がトイレに行っている間にリンさんが現れたことだった。僕を待つ友人達と親しげに喋っていた彼は、この後予定ないならあいつ借りていい?と切り出し、用を足している間に僕は見事に予定外の二次会に参加し損ねる羽目になった。
そこですぐに友人達を追いかければカラオケには行けたし、そのまま帰れば家でベッドに飛びこめたのだが、何せこの人と居るとカラオケや睡眠よりも有意義に時間を使えることが多い。学生として有意義かと問われればカラオケと大差ないだろうが、人生は何事も経験が大事だとは言うし、若気の至りのあんな事やこんな事も今しかできないものだ。
後輩の同級生を見送ったその人は、彼らが見えなくなったその方向をずっと見つめて何か言いたそうな顔をしていた。無言は想像を広げる。心拍数が上がるのを感じながらリンさんの横顔を見ていると、不意に口角がにぃっと上がった。また、何か企んでいる。僕の視線に気付いている彼は、そのままで一言だけ口にした。
甘い物が食べたい。
期待していたような類の言葉ではなく、思わず脱力した。何か付いてたとか、何かがいたとか、その手の話を楽しみにしていたのに。
「ファミレスでパフェでも食べます?」
「いや、いいとこ知ってるから行こう」
行く?と聞く気はないらしい。彼の足は既に自転車置き場に向かっている。振り返りもしないのは、一人でも行くつもりなのか、僕がついて行くのを当然と思っているのか、或いはその両方なのか。どちらにせよ、わざわざ晩飯に引っかかる時間帯におやつを提案して僕を引きとめたのであれば、何かあるに違いない。鞄の外ポケットを探りながら、彼の後ろ姿を追いかけた。
「無いかなぁ」
車も人もあまり通らない寂れた道をだらだら並進しながら暫く走った後、神社の脇でリンさんが自転車を止めた。石畳の両側には桜の木が並んでいてアーチ状になっている。素直に、綺麗な場所だと思った。さっさと行ってしまう彼はやっぱり振り返らない。何がないんですか、と問いかけるが、よくわからない呻き声のような返事をして、入口の苔が生えた石階段を上ってすぐの所にある茶屋の前を素通りしていく。薄い色の染井吉野が満開で、風が吹く度にちらちらと散っていく。見上げたついでに目に入った、枝の向こうで曇り始めた空は雨が降ってきそうな重たい灰色をしていた。降ったら今年の桜ももう終わりだな。古びて傾き隙間の開いた石畳に躓かないようにぐらぐらしながら歩いた。
「そういえばなんで僕があの公園に居るってわかったんですか?」
「だってお前、こないだ花見行きたいって言ってただろ。出くわしたらいいなーと思って、公園ぶらぶらしてた」
結構な面積の城跡公園は、適当に歩き回るだけでそれなりの運動量にはなるため運動不足解消にはちょうどいいかもしれないが、無駄に動く事を嫌うこの人が目的もなくそんなことをするはずがない。しつこく聞くが、本当に散歩がてら歩いていたとしか言わない。そのうちまたニヤニヤし始めたので、聞くのを止めた。
神社の中をぐるりと歩き回って、先程素通りした茶屋の前まで戻る。やっぱりここが目的だったらしい。ここですか。うん、そう。ちょっと高いけど、美味いよ。そう言って引き戸をガラガラ言わせて店に入る。古いせいか、思ったよりも大きな音がした。外観通りの狭い空間に足を踏み入れ、戸を閉めた。店の人であろう老夫婦が、すり鉢よりも丸いラインの鉄板を挟んで向かい合わせに座っていた。店の奥から、いらっしゃい、と若くない女性の声がする。鉄板の下のガスの火の音だけがして誰もにこりともしない中、リンさんだけが、壁の貼紙を指差して「焼き餅二皿ね」と笑った。餅?餅にしては随分高い。それに数え方が一皿というのはどんなもんだろう。一つしかない座敷にさっさと座ってしまったリンさんに続いて、腰を下ろす。老夫婦がボウルに入った水やら何やら準備し始めている。どうやら客の目の前で作るらしい。
普通、こういう店はじいちゃんばあちゃんと他愛のない話で盛り上がる場所ではないのか。会話のなさに気まずくなって、店内を見回す。お品書きには、焼き餅としか書かれていない。持ち帰り用の個数と値段の表も随分古びている。奥にまだ新しい座敷があるようだが、案内される気配はない。別の用途か、もしかするとこの店の人達の家族の家なのかもしれない。どうぞ、と湯気の立つ湯呑みを置かれたので、少し口を付けて、老夫婦の作業に目を向けた。
焼き餅とやらは、スーパーボール大の量の白い生地にこし餡を包んで鉄板の上で伸ばし、判子のようなもので大輪の花模様を付けて焼いていた。あれ餅なんですかとリンさんにこっそり聞くと、もち米の粉だからじゃないのかとそこそこいい加減な返答しかなかった。香ばしい匂いが漂ってきて、僕の腹が鳴った。リンさんはにやにやしていた。
「いやー十何年ぶりに此処で食べたわ。小学生以来、婆ちゃんが買ってきてくれる分だけだったから」
一人一皿平らげて、リンさんは妙に上機嫌だった。感想を簡潔に言うと、美味しかった。量に対して少なくとも学生の身分からすればどう見ても割高だったが、菓子というものは大抵そうだし、そう思えば許せなくはない。お代を置いて、ご馳走様と言って店を出る時にすら、老夫婦がにこりともしなかったのは多少気になったが、気にしているのは僕だけらしい。愛想悪いのは昔っからだとリンさんが勝手にフォローする。ひとまず、量の少なさのおかげでお腹いっぱいになる事もなく、まともに夕飯を食べられそうだ。帰ろうと自転車を停めた所へ行こうとしたが、リンさんは立ち止まったまま、境内で一番大きな桜を見上げていた。
「この向こうにもあったんだ」
脈絡のない言葉の続きを黙って待つ。今の店じゃない、もう一件、この桜の向こう側にも。それで、と促す僕の役目は、もうお決まりのものになっている。
祖母が墓参りへ行くと聞いて、小遣い目当てでついて行った。寺が密集してる場所に公園や遊び場がある訳でもなく退屈し、近くの神社の前で、散り始めの桜の花を集めたり、石段を昇って飛び降りたり、賽銭箱の隙間に指を突っ込んだりして時間を潰していた。
ふと横の生け垣を見ると、桜の根本の辺りに子供が通れそうなくらいの穴が空いている。やんちゃ盛りの子供がその手の冒険心と好奇心をくすぐる物に惹かれない訳はない。穴をくぐって抜けると古ぼけた焼き餅屋の看板が出ている建物の陰に出た。これは新発見だと思って店の正面に回ると、店先には愛想のいい、腰が曲がった老婆がいた。
坊や、一人かい。ううん、おばあちゃんときたよ。そうかいそうかい、焼き餅食べるかい?…今100円しかないの。そうかいそうかい、じゃあおばあちゃんには内緒にしておいてね。
老婆は幼児の侘しい財布状況を察してか、タダで腹一杯の焼き餅を食わせてくれた。腹は減ってたし、幼児特有の支離滅裂な話に優しく付き合ってくれる老婆のおかげで、その店は居心地がよかった。
「で、そこからもとの神社に戻るまでの記憶がさっぱり無いんだな」
「その店を探しに来たんですか?」
「また行きたいなぁとは思ってるよ。あのばあちゃん、相当歳だったろうし、潰れてるかもしれないけど」
「リンさん探しましょうよ、全然来てなくて、見てないんでしょ?そこの向こうですよね」
桜の木の傍のブロック塀を指差す。昔は生け垣だった、リンさんの記憶の向こうの世界だ。近付こうとしないリンさんを置いて、僕が踏み込む。此処へ来る時に呟いた「無いかなぁ」の言葉の意味を知った。
助走で勢いを付けて、2mに満たない塀の一番上に手を伸ばす。運動は苦手だが、このくらいはできる。ブロックの角に引っ掛けた手に粗いコンクリが食い込んで痛んだが、せめて、店の外観だけでも残っていればと思いながら、顎を引いて、腕に力を込めて体を引き上げる。
顔を上げて、塀の向こうを見て、寒気が背を這い上がった。
「そっちは墓なんだよ。俺が生まれるずうっと前から」
僕を見上げるリンさんがにやにやしながら言う。塀にかけた手を何かに掴まれるような気がして、思わず手を離す。上手く着地出来ず不様に転んだ僕に漸く歩み寄り、顔の高さを合わせるようにしゃがんだ。
「なぁ、俺あの時に、何食べたんだと思う?」
僕の頬を撫でた手は春の黄昏に負けたのか酷く冷たかった。
(100918)
(171120加筆修正)