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東暦〇〇年、初秋/剣崎崇仁+高宮恭司郎

仮にこの戦争が終わったらと、現実的ではないものを夢想したことがある。経済戦争、見世物小屋での殺し合い、消耗品のぶつかり合い、言い表し方は様々だ、別に好きに呼べばいいことなのだが、先が見えない戦いが終わることでの利益や損失は、恐らく両極端に起こるのだろうと思う。
利益として考えられるのは、内地に戻った若人たちが経済をより円滑に回し、且つ出生率の上昇だ。老人ばかりの内地の生産性は完全に横ばいとなっている、打破する案があっても出来る者がいないのでは話にならない。
逆に損失として、軍事産業の戦争特需は終焉を迎え、関係労働者の失業、スト、治安の悪化が考えられる。長い年月を戦争による経済社会の基盤で支えてきた分、終戦時の落差はかなり大規模なものにもなるかもしれない。
…高宮重工にもその余波は痛い打撃となり得るだろう。国内でも有数の大企業ながら、製造の殆どを軍事品に精力を注いでいる。機体、機銃、精密部品の全てがあの会社のものだった。…幼馴染みの恭司郎が、自分の会社がどうなるのか、予測しているかどうかは不明だが。
崇仁はそこまで思うと、欄干に肘をつけてぼうっと眺めていた水平線から、視線を空へと移動させた。薄らと雲がかかった秋の色をした空模様は、肌寒さを感じさせた。あの夏の茹だるような暑さ、甲板の照り返し、噎せ返る兵士達の汗臭さが嘘のようだった。月日が経過するのは早いが、まだ崇仁は国に奨励される"特攻命"を未だに受けておらず、死ぬに死に切れない状態だった。死ぬ理由を誰とも知れない政治家に、上流階級の腐れた人間に、命令されるのは理解出来なかった。生き長らえる理由もないが、かと言って死ぬ為に機体と共にこの空を飛ぶことが、崇仁には考えられなかった。
だが、恭司郎は常に華々しい戦果と死を渇望していた。最大の力を以て、最大の戦果を上げる為、恭司郎は死ぬ機会を伺っている。いっそ清々しいほどの意欲が、崇仁はどこか眩しいようにも感じた。
雲行きが変わる。薄雲が風で散り、雲間から眩い陽の光が差し込む。崇仁は目を細めた。その時丁度、後ろに人の存在に気が付いた。振り向くよりも早く、随分物思いに耽っていたな、と声が掛かり、見慣れた恭司郎が隣に並ぶ。
「天気予報でもしていたか、崇ちゃん」
「そこまで博学ではないな」
「艦戦乗りは皆雲間を読むと聞いている、崇ちゃんならば余裕だろう?」
「お前は俺を買い被り過ぎだ恭司郎」
ちらりと隣を見て、真摯な恭司郎の大きな瞳が一瞬瞬く。なに、この恭司郎が誇る旧友だ、買い被り過ぎるなど天が割れても有り得ない、そう言って笑う。その笑顔があまりに晴れやかで、崇仁は苦笑する他なかった。
この戦争が終わったら、その時恭司郎は隣にはいないのだろう。有終の美を飾り、死を誇りと共に迎えるこの男は。そんなことを思いながら、崇仁は戦服のポケットに入っている煙草をまさぐり、緩やかな秋の陽射しに照らされた幼馴染みに肩を竦めた。

a:呪いの話(リンと僕)

大学からの帰り道、僕はリンさんの家に寄った。特に用があった訳ではない。ただ、寒い自宅よりも暖房器具を惜しげもなくフル稼働させて暖を取るリンさんの家に行ったほうが経済的に良いと思ったからだ。インターホンを押すなんて丁寧な真似は面倒でやめた。不在でないかの確認の為に扉を叩いて中に入ると、腹減った、メシ買ってきたか、と不躾に問われた。
「今日もなんも食べてないんですか」
「だってこないだお前買ってこなかっただろ」
「カップ麺でも食べててくださいよ」
「無いし」
それからはメールに一言だけ、パンの名前が送られて来た時には必ずコンビニに寄る事にした。指定されたものがなければ別のでもいいか、とにかく何か買う。自分でもコンビニには行くくせに、食料の買い溜めはしていないのだ。こたつに潜り込んで顔だけ出したその人の隣の辺に滑りこむ。ぬくい。散乱した蜜柑の皮をまとめながら、残りの三つのうち一つに手を伸ばす。
「ところでリンさん、最近おとなしいですよね」
「俺はいつも控えめで謙虚だけど?」
「何をほざきやがりますか。何か面白いネタないんですか」
「寒いんだよ、俺は細いから寒いの駄目なの。面白いネタが欲しけりゃ自分で探せ」
ぼんやりと蜜柑の皮を剥きながら聞き流す。寒くなってからは何事もなく平和だ。怪談は夏場と決まってるなんて言っていると、リンさんに鼻で嗤われるだろう。夏だから、なんてことを言うのは、背筋がゾッとするようなことを聞いて涼を取りたいだけのことだ。人の死は年中無休で起こる。死んだ者が幽霊になるなら、この世のあらゆる空間は霊で満たされてしまうだろうに、それに気付かないのは感知するアンテナが弱いからだ。嘆くことはない。全部見えたら喧しくて仕方ないんだから、お前は見えないことに感謝しろよ。
リンさん曰くそういうことらしいが、ならリンさんは自分が何かと見えるタチなのを悔やんでますかと問うと、そんな訳ないだろうこんなに面白いのに、と嫌な笑顔を浮かべる。酷い話ではないか。もそもそと起きだして炬燵の天板に顎を置き、ぼんやりとまた眠るその人は随分平和な顔をしていて、今日はこのまま此処で泊まってしまおうかと思った。
「友達も親も教師も、皆覚えてないのに自分だけが知ってる奴っているだろ。その逆だ。」
蜜柑の房を口に含んで中の汁を吸っていると、リンさんは唐突に切り出した。何の話だろうかと蜜柑を嚥下して彼を見る。リンさんと目が合う。彼の視線が一瞬だけ、ほんの僅かに上に向かい、僕を見る。ずるずると此方に近付き腕が伸びてくる。腕が僕の肩にまわり、顎が僕の頭を天板に押さえつけ、掌が僕の目を覆った。
「見ちゃ、だーめ」
「なんでですか」
冗談半分だと思ったのだ。その口ぶりの軽さから大したことはないと思ったが、違う。何でもない時にリンさんはそんなに優しい声を出さない。
「俺は知らないけど、みんな知ってる。でも俺以外の奴に見られたら、あれが本物になっちまう。俺の知ってるあいつじゃなくて、みんなのしってるあいつが本物になる」
言っとくけど、俺が知ってるあいつが本物だからな。お前は知らないだろうけど、そういう事だ。もそもそと素直に彼のいいつけを守りながら、僕は掌の隙間から頭の上にあるリンさんの顔を見上げた。死んだんだよ。必ず。死んでる。きっと。多分。絶対。あいつは死んだんだ。
まじないのように呟いた後、リンさんは表情を無くした。呆然としているのではない。注視している。じっとその何かがある場所を見つめて動かなくなった。リンさんが見ているものは、僕が見てはいけないものだ。
「リンさん、」
「言うこと聞けよ」
微かに漂う疑問符の響きがなんとなく優しく聞こえて、僕の耳に落ちた。

a:目隠しの話(リンと僕)

酷道、と俗称される道をリンさんの荒っぽい運転で真夜中に2時間程走った。そこで僕が打診された交渉は、彼の正気を疑わざるを得ないものだった。
「な!ぜーったい置いてかない!置いてかないから!な!」
「嫌に決まってるじゃないですか。誰がこんなとこで目隠しされたまま置き去りになれなんて言われてはいそうですかって言うと思いますか。馬鹿ですか」
タオルを手渡され、そういう交渉を仕掛けて来た彼に冷たい目を向けた。いくらオカルト話が好きとは言え、それはビビリに対して酷い頼み事だろう。何度言われても何度も断る。押し問答を15分続けた後、漸く彼が折れた。
「じゃあお前は目隠しして車の中で待て。現場には俺が行って、また電話する。そしたら少なくとも俺がお前を置き去りにすることはないだろう?」
「それならいいですけど」
「よし」
鬱蒼と茂った木々と、古びて何の照明もない、如何にも何か出ますといわんばかりの小さなトンネル、ちかちかと不安定に明滅する頭上の街灯。その他に変わったものはない。今回の目的はトンネル探検だろう。
「じゃあ目隠しだ」
そういって彼は僕が目隠しをするのを確認して、早々に車を出て行った。随分とやる気に満ちていることだ。じゃあさっさと行けばよかったではないか。車の室内灯と自分で作った暗闇の中で彼の電話を待つ。目隠しの理由はきっと、余計なものを見ないようにするためだ。それくらいはわかった。携帯を握りしめた手がなんとなく汗ばんでいることに気付いた頃、携帯が無機質な音と共に震えた。通話ボタンを押し、耳に当てる。
「はい」
『早く来いよ』
それだけ言われて、切れた。どういうことだ。目隠しを外し、車の外に出る。リンさんはいない。トンネルを覗き、真っ暗闇の中できょろきょろと見回していると、トンネルの方からおいと呼びかける声がした。間違いなくリンさんだ。トンネルの中から聞こえる。
それを見た瞬間、ドッと不安になった。彼のいる場所は底無しに見える。自分の手すら見えないだろう。僕は早くもっと安全な光の下へ行きたい。そこに届くまで、闇の中から黒い腕がわらわらと蠢いているかもしれない。
「リンさん」
「お前が見えてないからと言って俺から見えない訳じゃない」
ふふふと沸き上がるような笑い声がする。姿の見えない真っ黒な中にリンさんはいるらしい。街灯の明かりで視認できるのだろうが、此方からは全く、彼のいる方角しかわからなかった。
「こっちおいで」
「いや、です」
漠然と怖かった。膝がふわふわして強張る。見えない彼の所まで何事もなく辿り着ける気がしない。似たようなことを何処かのPCゲームでやったことがある。光の下は安全だけれども暗闇に入った途端に何かに襲われて死んでしまう。ゲームでは懐中電灯と窓の光が頼りだったが、此処にはどちらもない。
「ほら、俺此処にいるから。聞こえるだろ」
「リンさん、」
だって、大丈夫、なんて彼は一言も言っていない。リンさんお願いします、戻ってきて連れて帰ってくださいリンさん。立ち竦んで動けなくなった僕は情けないことにこの歳で涙声になりながら懇願した。今までに抱いたことがないほど恐怖と不安があまりに強い。此処を通ると何かがいる。あの嬉しそうなリンさんの声。僕に、彼を此処へ置き去りにして帰る度胸はない。彼の手を引いて車に戻って、やっぱりお前は弱虫だと罵られるのだ。そうさせてくれ、頼む。お願いします、リンさん。
彼は「おいで」とどこかよくわからないところでやはり楽しげに笑っていた。

a:作り話(リンと僕)

駅で待ち合わせをして、期末レポートで使う本を探しに行くのに付き合って貰うのが女性ではないことなど、サークルにもろくに行かず、それほど親しい友達のいない僕にとってはもう当然と割り切るしかない。むしろ、買い物に付き合ってくれる人がいる事に感謝しろ、と僕を引っ張り出した張本人であるはずのリンさんが僕の後頭部を小突いたのはついさっきの話で、休日に連れ出された僕の憂い顔などお構いなしのようだ。連れて来た癖にぶらぶらと店内を眺めるだけのリンさんは、生真面目に本棚を物色する僕を尻目に妙に上機嫌だった。
「資料なら図書館でいいじゃないですか」
「うちの学校の蔵書なんぞアテにしてたら〆切前に痛い目見るぞ」
「それは経験ですか」
「うん」
そうは言っても、後輩を助けるつもりなど更々ないだろう。帰りたい。溜息と共にまた本棚に視線を戻すと、微かな異音がした。リンさんの携帯だった。着信音の鳴らないその携帯の震動にリンさんも気付き、ダウンジャケットのポケットからそれを取り出す。かちかちと少し操作した後、ぶふ、とリンさんが吹き出した。どうしたんですか気持ち悪い。僕がそう言うと、友達から、とリンさんは自分の携帯を僕に差し出した。黒い傷だらけの画面の暗くなった携帯を受け取り、かちかちと上下へ2回だけ無意味にスクロールする。
―突然の連絡を詫びる。つい先程、君らしき人物を●●駅前の××で見かけた。駅の中のカフェにいるのだが、もし今時間があるのであれば久し振りに話でもしないか。
堅い。久し振りに連絡する友人らしからぬ、まるで物語のキャラクターの口調のような文章に、思わず顔を顰めた。
「友達、ですよね」
「幼馴染。面白いだろ。何かと物知りでな。俺ちょっと会いに行くけど、お前も来るよな?」
「は?」
「よし行こう行こう」
「ちょっ、と、えっ、リンさん!?」
僕のコートの襟首を掴んで歩き始めるリンさんに、抱えた参考書を平積みの実用書に置き去りにするのを申し訳なく思いながら、所詮僕の抵抗など無きに等しいのだと思い知らされた。

カフェにいたのは、普通の男性だった。大学生というよりはビジネスマンのような印象を受ける、至って真面目そうな、厚いレンズの眼鏡をかけた、ごく普通の男性。それにしてもビジネスメールってあんなだっけ。考えを巡らせる僕と対照的に、リンさんはいつものにやにや笑いを引っ込めて、穏やかな笑みを浮かべて「久しぶり」と声を掛けた。男性がリンさんに返す軽い挨拶は丁寧な敬語で物腰柔らかく、先ほどのメールとは印象が随分と異なる。
すまん、ちょっと後輩も一緒だが、なぁにお前を捕って喰ったりせんから大丈夫だ。
そう、リンさんがよく使う言い回しで何か聞かれる前に僕を紹介すると、男性の表情が僅かに緩んだ。人見知りなのだろうか。全く面識のない僕がご一緒するのはなんとなく申し訳なかったが、ここで帰ってしまうわけにもいくまい。控えめに挨拶する僕に、ぎこちない笑顔を返す彼が、リンさんの友達だなんてあまり想像しやすいものではなかった。席に着いてからは、リンさんと彼の独壇場で、僕はマンゴージュースを啜るだけのただの置物としての役割を全うしていた。面白い程に、僕の存在がない。二人共、まるで僕が消え去ったかのように話題を振ってこない。尤も、話の内容も経済や法律、政治、その他諸々で僕の興味のある話題は一つも上がらなかったし、まずリンさんもまくしたてるように言葉が溢れる彼の話に相槌を打つばかりで、否定も賛同もせずに、白熱している彼の話を聞く立場に回っていた。話題としては、同調して盛り上がるなり、議論を展開するなりしてもよさそうなのに、へぇ、それで?そこんとこお前はどう考えてる感じ?などと促すだけの奇妙な会話に、逆に自分が傍観者としていられることが幸運なのではないかとすら思い始めた、その時だった。
「そういえば、思考盗聴ナントカ、まだ改善されない?」
受身だったリンさんが、妙な単語を口にした。聞き覚えのないそれは、男性の表情を少しばかり引き締めた。
「最近は海外からの干渉が増加しているようです。今の日本人は、盗聴してもメリットはないと推測していますが、私や貴方のような人間は要注意でしょう。以前にも申し上げましたが、自宅だからと言って油断などなさいませんように」
「俺は心配いらないよ、有り難う。…ああ、そろそろ時間じゃないのか」
「そうですね。どうか、お気をつけて」
「お前もね」
それじゃご馳走様。唖然とする程呆気無く会話が終わり、リンさんが席を立つ。慌てて後に続く僕の小さな会釈に先程よりも柔らかい表情に会釈を返してくれた。話してないけど、いいのか。まぁいいか。
「何なんですか、あの人」
駅ビルから出て、周りに彼がいないことを確認してからリンさんに当然の質問を投げ掛ける。
「友達。いつも妙な事ばっかり言ってクラスでハブられてたから、俺が話聞いてた。頭いいし、面白いし、いいヤツだよ」
確かに悪い人ではなさそうだった。説明自体は理路整然としていて妙な専門用語もあまり用いない、平易な言葉で表現していることが多いと感じた。それでもその明解さを打ち消して余りある話のテンポの速さとそれに伴う密度と勢いがあったのだが。
「そういえば、思考盗聴ナントカって、何です?」
「ああ、聞いてたのか」
とある秘密結社が日本の転覆を謀り、全日本人の思考を監視下に置いている。勿論そんな事はお偉いさんも警察も知らない。気付いているのはごく一部の人間だけ。どんな風にメディア操作すればどう人が動くのか。どんな人間を使えば人がついてくるのか。頭に送り込まれる電波を介してそんな情報を抜き出す。抜き出される方は気付く訳もなく、ただ普通にのうのうと生きている。そんな物騒な事が起こる訳がない、と阿呆のように安穏として一向に危機感を抱かない日本人が、未来の日本国を殺すのだ。日本人は大多数の意見を是とし、小さな警告を異常として蹂躙する。故に、思考盗聴電波HINOMARUの存在を知る者は、静かに警戒しておかなければならない。という話だ。
独裁者でも教祖でもない、講義で理解できなかった用語をわかりやすく説明する先輩の口調で、到底理解し難い事象を語る。俄かに信じがたいというか。
「先輩のご友人に対して大変失礼なのを承知で言いますけど、それ病気じゃないですか」
「そうかね?仮にその説が本当だったとしたら、気付いてない癖にどうして嘘だと思う?君も、阿呆のように安穏と暮らしてるんじゃないのか」
「それは…、でも、だからって、リンさんはそれ信じてるんですか」
「信じてないよ。あいつの言うこと丸々信じてたら病院に放り込まれちまう」
「ほら」
「でも真面目に話聞いてやるだけの誠意はあるぜ」
いひひ、とリンさんは笑う。それって誠意なのだろうか。違う気がする。リンさんが何かよくわからないものを相手にしている時と同じだ。怪異の元凶の実在を信じていないが故に危機を恐れず、危機を恐れないが故にその曖昧な元凶の実在を信じている。人通りのない赤信号をふわふわした足取りで渡っていく。熟れ過ぎた柿色の、くっきりした輪郭の太陽が夕暮れのビル街にめり込んでいた。

a:花見と焼き餅の話(リンと僕)

まだ肌寒い3月が終わりかけたある日だった。僕は同期の友人達と花見に来ていた、はずだった。昼間から、大学近くの城跡公園の桜を見ながら騒いで、適当に騒いで帰って惰眠を貪るつもりだったのだ。そんな予定が狂った原因は、僕がトイレに行っている間にリンさんが現れたことだった。僕を待つ友人達と親しげに喋っていた彼は、この後予定ないならあいつ借りていい?と切り出し、用を足している間に僕は見事に予定外の二次会に参加し損ねる羽目になった。
そこですぐに友人達を追いかければカラオケには行けたし、そのまま帰れば家でベッドに飛びこめたのだが、何せこの人と居るとカラオケや睡眠よりも有意義に時間を使えることが多い。学生として有意義かと問われればカラオケと大差ないだろうが、人生は何事も経験が大事だとは言うし、若気の至りのあんな事やこんな事も今しかできないものだ。
後輩の同級生を見送ったその人は、彼らが見えなくなったその方向をずっと見つめて何か言いたそうな顔をしていた。無言は想像を広げる。心拍数が上がるのを感じながらリンさんの横顔を見ていると、不意に口角がにぃっと上がった。また、何か企んでいる。僕の視線に気付いている彼は、そのままで一言だけ口にした。
甘い物が食べたい。
期待していたような類の言葉ではなく、思わず脱力した。何か付いてたとか、何かがいたとか、その手の話を楽しみにしていたのに。
「ファミレスでパフェでも食べます?」
「いや、いいとこ知ってるから行こう」
行く?と聞く気はないらしい。彼の足は既に自転車置き場に向かっている。振り返りもしないのは、一人でも行くつもりなのか、僕がついて行くのを当然と思っているのか、或いはその両方なのか。どちらにせよ、わざわざ晩飯に引っかかる時間帯におやつを提案して僕を引きとめたのであれば、何かあるに違いない。鞄の外ポケットを探りながら、彼の後ろ姿を追いかけた。


「無いかなぁ」
車も人もあまり通らない寂れた道をだらだら並進しながら暫く走った後、神社の脇でリンさんが自転車を止めた。石畳の両側には桜の木が並んでいてアーチ状になっている。素直に、綺麗な場所だと思った。さっさと行ってしまう彼はやっぱり振り返らない。何がないんですか、と問いかけるが、よくわからない呻き声のような返事をして、入口の苔が生えた石階段を上ってすぐの所にある茶屋の前を素通りしていく。薄い色の染井吉野が満開で、風が吹く度にちらちらと散っていく。見上げたついでに目に入った、枝の向こうで曇り始めた空は雨が降ってきそうな重たい灰色をしていた。降ったら今年の桜ももう終わりだな。古びて傾き隙間の開いた石畳に躓かないようにぐらぐらしながら歩いた。
「そういえばなんで僕があの公園に居るってわかったんですか?」
「だってお前、こないだ花見行きたいって言ってただろ。出くわしたらいいなーと思って、公園ぶらぶらしてた」
結構な面積の城跡公園は、適当に歩き回るだけでそれなりの運動量にはなるため運動不足解消にはちょうどいいかもしれないが、無駄に動く事を嫌うこの人が目的もなくそんなことをするはずがない。しつこく聞くが、本当に散歩がてら歩いていたとしか言わない。そのうちまたニヤニヤし始めたので、聞くのを止めた。


神社の中をぐるりと歩き回って、先程素通りした茶屋の前まで戻る。やっぱりここが目的だったらしい。ここですか。うん、そう。ちょっと高いけど、美味いよ。そう言って引き戸をガラガラ言わせて店に入る。古いせいか、思ったよりも大きな音がした。外観通りの狭い空間に足を踏み入れ、戸を閉めた。店の人であろう老夫婦が、すり鉢よりも丸いラインの鉄板を挟んで向かい合わせに座っていた。店の奥から、いらっしゃい、と若くない女性の声がする。鉄板の下のガスの火の音だけがして誰もにこりともしない中、リンさんだけが、壁の貼紙を指差して「焼き餅二皿ね」と笑った。餅?餅にしては随分高い。それに数え方が一皿というのはどんなもんだろう。一つしかない座敷にさっさと座ってしまったリンさんに続いて、腰を下ろす。老夫婦がボウルに入った水やら何やら準備し始めている。どうやら客の目の前で作るらしい。
普通、こういう店はじいちゃんばあちゃんと他愛のない話で盛り上がる場所ではないのか。会話のなさに気まずくなって、店内を見回す。お品書きには、焼き餅としか書かれていない。持ち帰り用の個数と値段の表も随分古びている。奥にまだ新しい座敷があるようだが、案内される気配はない。別の用途か、もしかするとこの店の人達の家族の家なのかもしれない。どうぞ、と湯気の立つ湯呑みを置かれたので、少し口を付けて、老夫婦の作業に目を向けた。
焼き餅とやらは、スーパーボール大の量の白い生地にこし餡を包んで鉄板の上で伸ばし、判子のようなもので大輪の花模様を付けて焼いていた。あれ餅なんですかとリンさんにこっそり聞くと、もち米の粉だからじゃないのかとそこそこいい加減な返答しかなかった。香ばしい匂いが漂ってきて、僕の腹が鳴った。リンさんはにやにやしていた。


「いやー十何年ぶりに此処で食べたわ。小学生以来、婆ちゃんが買ってきてくれる分だけだったから」
一人一皿平らげて、リンさんは妙に上機嫌だった。感想を簡潔に言うと、美味しかった。量に対して少なくとも学生の身分からすればどう見ても割高だったが、菓子というものは大抵そうだし、そう思えば許せなくはない。お代を置いて、ご馳走様と言って店を出る時にすら、老夫婦がにこりともしなかったのは多少気になったが、気にしているのは僕だけらしい。愛想悪いのは昔っからだとリンさんが勝手にフォローする。ひとまず、量の少なさのおかげでお腹いっぱいになる事もなく、まともに夕飯を食べられそうだ。帰ろうと自転車を停めた所へ行こうとしたが、リンさんは立ち止まったまま、境内で一番大きな桜を見上げていた。
「この向こうにもあったんだ」
脈絡のない言葉の続きを黙って待つ。今の店じゃない、もう一件、この桜の向こう側にも。それで、と促す僕の役目は、もうお決まりのものになっている。
祖母が墓参りへ行くと聞いて、小遣い目当てでついて行った。寺が密集してる場所に公園や遊び場がある訳でもなく退屈し、近くの神社の前で、散り始めの桜の花を集めたり、石段を昇って飛び降りたり、賽銭箱の隙間に指を突っ込んだりして時間を潰していた。
ふと横の生け垣を見ると、桜の根本の辺りに子供が通れそうなくらいの穴が空いている。やんちゃ盛りの子供がその手の冒険心と好奇心をくすぐる物に惹かれない訳はない。穴をくぐって抜けると古ぼけた焼き餅屋の看板が出ている建物の陰に出た。これは新発見だと思って店の正面に回ると、店先には愛想のいい、腰が曲がった老婆がいた。
坊や、一人かい。ううん、おばあちゃんときたよ。そうかいそうかい、焼き餅食べるかい?…今100円しかないの。そうかいそうかい、じゃあおばあちゃんには内緒にしておいてね。
老婆は幼児の侘しい財布状況を察してか、タダで腹一杯の焼き餅を食わせてくれた。腹は減ってたし、幼児特有の支離滅裂な話に優しく付き合ってくれる老婆のおかげで、その店は居心地がよかった。

「で、そこからもとの神社に戻るまでの記憶がさっぱり無いんだな」
「その店を探しに来たんですか?」
「また行きたいなぁとは思ってるよ。あのばあちゃん、相当歳だったろうし、潰れてるかもしれないけど」
「リンさん探しましょうよ、全然来てなくて、見てないんでしょ?そこの向こうですよね」

桜の木の傍のブロック塀を指差す。昔は生け垣だった、リンさんの記憶の向こうの世界だ。近付こうとしないリンさんを置いて、僕が踏み込む。此処へ来る時に呟いた「無いかなぁ」の言葉の意味を知った。
助走で勢いを付けて、2mに満たない塀の一番上に手を伸ばす。運動は苦手だが、このくらいはできる。ブロックの角に引っ掛けた手に粗いコンクリが食い込んで痛んだが、せめて、店の外観だけでも残っていればと思いながら、顎を引いて、腕に力を込めて体を引き上げる。
顔を上げて、塀の向こうを見て、寒気が背を這い上がった。
「そっちは墓なんだよ。俺が生まれるずうっと前から」
僕を見上げるリンさんがにやにやしながら言う。塀にかけた手を何かに掴まれるような気がして、思わず手を離す。上手く着地出来ず不様に転んだ僕に漸く歩み寄り、顔の高さを合わせるようにしゃがんだ。
「なぁ、俺あの時に、何食べたんだと思う?」
僕の頬を撫でた手は春の黄昏に負けたのか酷く冷たかった。



(100918)
(171120加筆修正)
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