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人間の脳の殆どは、日常的に使用されない部分が多いと聞く。音を聞く、物を見る、匂いを嗅ぐ、食物を口に入れる、そう言った恒常的な仕草は脳が理解して指示を出す前に反射として反応する仕組みが既に出来てしまっている。では逆に、慣れない仕草はどのように反応しているのだろうか。この身が握把を握り引き金を引くのが息をするのと同義としている一方、日常のルーティンとして組み込まれていない一般人は、容易に引き金を引けるのであろうか。答えは恐らく、否である。
シャワールームにはいくつも個別になったブースが並んでいる。下半身だけ隠せるような小さな戸がついていてプライバシーもへったくれもないが、備え付けのアメニティがあるだけ幸せなことである。全裸になり身一つで狭い通路を歩み、自分の部隊の隊員らがシャワーを浴びているのを横目に、空いているブースへ入る。左隣はヨダカ、右隣はマスティフだった。終始無言を貫いている。俺はその隙間のブースにてシャワーコックを捻り、熱い湯を浴びた。泥やら固まった血やらが白いタイルに流れ、排水溝に消えていく。しんなりと落ちてきた髪の毛をかきあげ、シャンプーを手に取る。そのまま髪になすりつけて泡立てていると、右から視線を感じた。視線をやると、マスティフと目が合った。何だ、と視線を再度眼前の鏡に向けて聞くと、マスティフは無言でそっぽを向いたらしく、がしがしと身体を擦る音と水音だけが響いた。
生温い朝の気怠さは嫌いではなかった。昨夜の疲れを残したままの身体の重さや、自分とは違う呼吸音を聞きながら頭を覚醒させるのは、人間らしい生活を送っていると錯覚させるからだ。戦場でならばこうはいかない、いくら疲れ果てていようが起きれば腕の中には女ではなく愛銃があり、敵兵の気配を察すればすぐさま飛び起き照準を合わせねばならない。今改めて思えばクソな境遇だった。内勤続きの今、束の間の安息を貪るのは特権と言うより労働者にとっての当然の権利でしかなかったのだ。
人間には選択という手段が元来兼ね備えられている。取捨選択と言われるように、必要と不必要を頭で判断して選び取ることが出来るのだ。人間以外の動物とは比べ物にならないぐらい、高度で緻密な判断と選択基準を持ち得る我々の脳は、それでも迷うという選択を取る場合もある。何故迷うのか。それは何かを必要とする際、比べる物体の優劣を決めるのが難しいからだ。そして比べる物の種類が多ければ多いほど、我々が「迷う」機会は増え、選択はより一層複雑化していくのである。
まるで見分けがつかないようなものを見て何が面白いのだろうかと考えたことがあった。西洋史美術という正直興味もへったくれもないものを見に行った際だ。インテリやマニア、それから知識として扱うことで優越感に浸りたいだけの一般人に紛れてクソ溜めのように混雑している館内を巡った時、それこそ早く帰りたいが為に早足で歩いたのは記憶に新しい。あれも見たいこれも見たいというミーハーの同僚は歴史や意味は分かっているのか、絵画や石像を見て「へえ綺麗〜!」としか言っていなかったし、戦場で何度も後ろを任せた相棒(という名称が一番当てはまるだろう)はそのミーハーな彼女に釣られて連れ回され、もう帰りたいという感情を殺しながら群衆の中を歩いていた。周りは石像、絵画、石像、絵画、どれも名作というが何が名作足る理由なのか、正直分からなかった。興味がないということは、それだけで何かしらのものの意味を殺すというのに直結していた。あまりにも残酷なことだが、一般人が銃器を見た際に使っている弾丸の種類が分からないのと同じ原理であろう。欠伸をかみ殺しながら、人々の視線の先にいる裸婦像を眺めた。結局この裸婦像は、隣の石像とは同じ石灰を使っている、という肖似性しか、桐仁には理解出来なかった。
年 齢 | 33 |