耳が痛くなる程の寒さはもう慣れたものだった。吐く息も白く、もしかすると鼻の頭は赤くなっているかもしれない。冷え込んだ冬の夜は人が仕事をするような環境ではないと思う。それでも、誰かがあたたかいベッドの中で熟睡出来るよう、明日の朝食を美味しく食べられるよう、安寧の日々を害獣から守るのが仕事だと思えば、納得出来たものだった。例えばその"誰か"が明後日には自分かもしれない。そう考えれば、どんなにきつい仕事だろうが汗水垂らして働けた。
ずり落ちてきた眼鏡を肩の端でつついて持ち上げる。滑走路に薄ら積もった初雪は、瞬く間に凍てついたコンクリートに張り付いてしまう。せめて機体が降り行く最初のランウェイだけは、少しでも安全にしておきたい。雪掻きスコップでぐいぐいと雪を押し退ける作業を続ける。脇は随分あたたかいが、額からひっそりと吹き出た汗はすぐに冷えていってしまう。冬の凍風が分厚い作業用ジャケットの表面を舐めた。
「ーー、ーーー!」
名を呼ばれたような気がして、顔を上げる。数百メートル離れたハンガーから、業務用の懐中電灯を持った同僚が手を振っていた。あの背丈は、チビだと思う。曇ったレンズの先は視界不良だ。随分前に作った眼鏡だから、もしかすると度が合ってないのかもしれない。こちらが目を細めて凝視するのよりも早く、チビらしき人影が雪化粧を施されたエプロンを渡ってくる。走ってきたせいで軽く息を荒くするチビの顔は、鼻の頭が真っ赤になっていた。
「もうすぐ、交代だよ」
そうチビは言うと、ポケットからあたたかい缶コーヒーを差し出してきた。
「…サンキュー」
「カフェオレ、売り切れだったから。ごめん」
「いや大丈夫」
言って、グローブ越しでも悴んだ指先でプルタブを上げた。
慣れない雪の中、除雪作業は滞っていた。天気予報上では今晩積雪するなどという情報はなかったし、急な荒天で除雪車のメンテナンスも間に合っていない。そもそも有人機部隊よりもUAV部隊の方が優先されるのだろう、もしも除雪車を出すとなれば無人機側へと回されるに決まっていた。だからこうして人力で除雪作業を進めている訳だが、どうにも成果は上がらない。別部隊から応援が回されるようなところでもない、整備班長のユキヒョウはハンガー内で機体データの精査をしているし、非番のノッポは今頃ベッドでおねむだろう。残されたチビと自分が、ハンガーの主役が戻るまで"掃除"をするのは当たり前だった。
熱い飲み口から湯気が昇っている。強風に晒されたらすぐに冷たくなってしまうことだろう。口を付けて啜る。胃に落ちていく甘ったるいコーヒーの味わいは、疲れた身体に沁みるには充分だった。隣のチビが鼻を啜る。交代、と小さく笑った顔につられて雪掻きスコップを手渡した。
「大尉が戻ってくるまでに、ある程度どかさないと」
肩を回したチビはそう言うと、ざくざくと雪を掻き分けていく。防寒コートに覆われた背中を眺めながら、夜間照明灯で照らされた雪空へと視線を投げた。
夜間飛行を終えて帰投する予定時刻まで、あと僅かだ。雲より高いところを哨戒しているあのパイロットは、まさか帰ってきたらこんな悪天候になっているとは思わないだろう。それに汗水垂らしてチビと自分が雪掻きをしているなど、きっと予想し得ない。
薄情だから、ではなく、パイロットとしての業務外だから、だ。それ以上でもそれ以下でもない。そんなことを頭のどこかで理解しつつも、あの感情が読めない目をしたパイロットのことは、好きにはなれなかった。
「安心して着陸して欲しいからさ」
胸に去来したあまり考えたくない感情を他所に、チビはそんな台詞を小さく呟いた。チビの言葉はあまりに当然で、誰もが願う常識だった。それを思い付くよりも早く考えてしまった、感じてしまったその感情を、声に乗せる前に飲み込んだ。恥じた訳ではない。ただその感情を吐露する理由が、あまりに幼稚だっただけだった。
飲み終えた缶コーヒーの雫を落とし切り、缶をポケットへと突っ込む。スコップで雪を除けるチビの隣に立つと、小さく積まれた雪の塊をあとで使おうと思っていたラッセルで端に寄せてやった。
「あ、ちょ、ちょっと交代って、」
「安心して着陸して欲しいんだろ」
そう言うと、隣で黙る気配がした。ずれてきた眼鏡を押し上げると、ラッセルを持ち直す。
「早くしないと戻って来るよ」
大尉が。チビはきっと困った顔をして笑っているのかもしれない。赤鼻から鼻水でも垂らして、尊敬するパイロットのことを思っているのだろう。うん、と明るい返事が返ってきたので、考えは大体当たりらしい。
吐息が白く照らされる。しんしんと降り注ぐ雪の音の代わりに、遥か上空からターボファンエンジンの轟音が静かに空気を揺らしていた。