雪が降った。
はらはらと、小さな白い結晶が空から雪がれるように
はらはらと。
それはまるで、涙の様に
寒さに目を覚ます。
隣には見知った筈の知らない顔。
いや、そう思うのはもう辞めたはずだ。
なのに俺は、未だにもう居ない過去の彼の幻影を追い続けていた。
最愛の妻の面影を。
「雪が降っておったのか…道理で寒いはずだな」
鶯の家に居た頃に、薄い夜着のまま窓の外を眺めていたら心配した包平が買ってきたガウンを羽織り窓の外を眺める。
あと少し眠っていても良いのだが、眠ったら起きるのが億劫になる。
「愛してる、国永…」
ぐっすり眠っている国永の耳元で囁く。
今の国永には猛毒とも言える言葉。
国永が起きている間は絶対に言えない言葉を吐き出す。
「愛してる、愛してる、愛してる…」
こんな言葉を吐いても国永は戻ってこない。
こんな言葉を吐いても国永には迷惑なだけ。
判って居るのに止められない。
「……愛とは、何だったかな…」
この空間が苦しい、何をすれば国永は喜ぶか判らない。
俺は愛を忘れてしまったのかと考え、いや、国永との思い出を愛しいと思う。
俺は今の国永を愛せない、愛し方が判らない。
戻ってこなければ良かったとさえ思う。
最初から存在しなければよかったと思う。
そうすれば、国永は苦しむことは無かった。
どんどんと、曖昧に積み重ねられていく矛盾はいつしか俺の心を蝕み始めた。
国永から離れ、窓の外を眺める。
雪がどんどん降り積もる。
今日は日曜日だが、子供達が起きる時間までどうするか決めあぐねていると、もぞもぞと動く布団が盛り上がる。
「ん、はやおきだな…おはよう」
「すまぬ、起こしたか?」
ベットに腰掛けて国永の髪を撫でれば心地良さそうに目を閉じてくれる。
「いや、なんか寒いなと思っただけだ」
こうして触れ合えることがとても幸福に思えるのに、それが相手にとって単なる重荷なのではと思うと、不意に手が止まる。
「黒葉?どうかしたか?」
「いや…俺は本当に帰ってきて良かったのか考えていた」
「君はまたそんなことを…」
国永が、困ったような呆れたような顔でこちらを見る。
国永は親である自覚は強いらしく、こと子供達の事になると強く反応を示す。
「今朝は雪が降った様だ、外が真っ白だぞ」
その場から離れる様に窓の外を見ると、一面の雪景色に道理で寒い筈だと国永が羽織を肩からかけて起き上がる。
愛する家族、大切な家族、何にも変え難い宝物。
なのに今は他人の物の様な感覚。
手を伸ばしても、届いてるのか、掴んでいるのか判らない。
幸せだったのに、何故あの時、それを手放してしまったのか…
人形だった国永の思いを綴った本を捲る。
俺への感謝や謝罪、愛を綴った言葉達。
愛しくて、辛くて、痛い。
感謝など烏滸がましい。
俺は誰も救えなかった。
美談ですらない、俺の罪と裏切りの代償。
どこかで俺の国永が泣いている。
寒さに震え、痛みに耐えながら、あの暗い鏡の向こう側で。
俺はどうすれば償えるのだろう。
今の国永は、償うことすら許してはくれない。
忘れてしまったから、何も知らないから。
裏切られた事も愛し合った事さえも。
それでも、国永は俺を求める。
「君、寒がりのくせにそんな薄着で風邪ひくぞ?」
起き上がって着替え始めた国永を振り返って見上げる。
「うちには赤ちゃんが居るんだから風邪は持ち込まないでくれよ?」
「そうだな、国永、暖かいココアをいれてくれぬか?
着替えたらすぐに行く」
「いいけど、朝はヨーグルトしか食べないんじゃないのかい?」
「お前の入れるココア別だ。
甘くて体が暖まる」
「そうかい。ルイもそろそろ起きる頃だし、早く着替えて降りてこいよ」
ミコトを抱き上げて国永微笑む。
あれは俺の国永ではない。
まだ、俺の国永ではない。
でも、あれもまた俺の国永であることに違いない。
「本当に俺は国永に頭が上がらぬな」
偽物でも、記憶が無くても、化け物になってしまっても、それが国永なら全てを愛せると自信を持って宣言したのは自分だった。
忘れたならもう一度始めると決めたのに。
「俺がしっかりせねば、子供達も心配するな」
それこそ国永は望まない。
いや、きっと笑ってこう言うだろう。
君は本当に俺が好きだな、と。
ああそうだ、俺は国永が好きだ。
そばにいないと寂しい、悲しい、苦しい、それは国永も同じだった筈なのに。
どうして、手放してしまったのか。
あんな残酷に、手折ってしまったのだろう。
大切な大切な俺の桜の花。
どんなに嘆いても悔やんでも、もう戻らない。
俺が自らにナイフを突き立てるべきだった。
どちらも選べないなら、国永を殺せないなら、そうすべきだった。
国永は選べなかったから両方殺した。
俺も選べなかったなら自殺するべきだった。
ただ、俺が目の前で死んでいく恐怖を国永にまた味合わせたくはなかった。
結局、俺は何も出来ない。
堂々巡りの躁鬱状態を繰り返しながら、答えの返らない質問ばかりを投げかける。
どうして、どうして、どうして…?
「黒葉、泣いてるのか?」
いつまで経っても降りてこない俺を心配したのか、ココアを持った国永が立っていた。
「泣いて……?俺が?」
そっと頬を撫でれば滴が伝う。
「何かあったのかい?」
国永は隣に座り、ココアのカップを持たせると、頭を包み込むように抱き締めてくれた。
「……判らぬ、なぜ俺は、泣いてるんだ…」
「それは君にしかわからない」
「苦しい、思い出すのが……
あの時お前もこんな苦しみを背負ってたのか…?
お鶴も、俺も、選べないと……」
「……それも、今の俺にはわからないな。
だってそれを経験した国永は俺じゃないんだろ……
君は、俺に誰を見てるんだ?
まだ俺を国永だとは……いや、何でもない。
君は少し休んだ方がいい、今は考えすぎて頭が疲れてるんだろう?」
ベットに戻され、ココアのカップをサイドテーブルに置く。
「国永……」
そっと伸ばした手は、しっかり国永を掴んだ。
ちゃんと、国永はここに居るのに。
俺はなぜ認められない?
「どうした?何か欲しいか?」
「……好きだ…俺は、お前が好きだ」
国永は一瞬驚いて、少しだけ頬を赤くした。
「……俺は、君の国永じゃないんだろ?」
「…お前は国永だろ、誰でもない、国永だ。
俺は、お前が好きだ、お前の全てが」
俺が国永を区別してしまうから受け入れられない。
消えない悲しみも、苦しみも、それで良かったといつか笑えるならそれ以上に幸せな事は無い。
目の前が涙でぼやけてくる。
「黒葉…くろ、ば…」
微笑んで、嬉しそうにはにかみながら国永も涙を零した。
「あれ、なんで涙が……」
「いつかお前が、その気持ちの意味を知った時、改めて言わせてくれ」
俺は国永を愛していると
その言葉は、それまで俺の胸にしまっておく。
お前がまた、笑って俺を呼んでくれるまで。