カカサス50音SSS 『ほ』


「この間借りてた本、分かりにくかったから‥‥」
「そう。アレはかなりの上級者向けだからね‥‥それよりも少し易しめの本、読む?」
「あ、ああ‥‥」
「とりあえず、上がって」

ここに来た時の彼は無防備だ。
日を経て無防備になっていった、というのが正確なところだろう。
最初の頃は、ここに来ている最中も、毛を逆立てた猫みたいに警戒していた。
今は安堵を感じてくれているようで、それでいて、どちらかというと遠慮がちな様子さえ伺える。

「これ、どうかな」
「少し、読んでもいいか?」
「もちろん」

俺の心の中でうごめく感情を、この子は知るはずもない。
けれど日に日に増すのは『欲しい』という端的で貪欲な独占欲。

「あの本の入門編みたいな作りになってるんだけど」

身体だけなら、強引にでも奪えてしまうだろう。
肩を抱いて引き寄せたら、気を抜いているその軽い身体はこちらに倒れてくるだろう。
そんな情景を脳内で描き、それを現実にしようと無意識に伸びる、手。

「チィ、やっぱり難しいな‥‥」
「ッ‥‥!」

肩に触れる寸前、彼の声でようやく我に返る。
この子の心までは、それでは得られないだろうと自分を咎め、腕を引いた。

それは、もっともらしい理由という名の、言い訳にすぎないと知りながら。



『欲しがってはいけないのだと、何度も言い聞かせて』

――幾重にも気持ちに蓋をして、傷つく事から逃げてばかりの、そんな臆病者。


Fin.『ほ』
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