とうとう、明日は入園式。
晴れるかにゃあ?
どきどきにゃ。
そういえば、実家帰省中、テレビを見ていたら、3年後、次の学習指導要綱から、なかなかに大変になるらしい。
小学校3年生から英語やらプログラミングやら。
社会性やら協調性やら、やたらと身に付けたいスキルがありすぎ。
これに対応する教員も学校も、詰め込まれる生徒もパンクする絵しか見えなかった。
研究会かなにかで、仙台のお兄ちゃんがさいたま市に来てて、ついでだから、と実家に寄った。
仔だめ猫の行く幼稚園の話をしたら、さいたま市でそういうことがまだできるんだぁ、と感心された。
仔だめ猫の行く幼稚園、遊びの中から学ぶ、を基本にしている。
だから、英語なんてやらないし、小学校入学までにひらがなとかもやらない。
幼稚園でしかできないことをやる、と言っていた。
英語教育に関して、猫仙人もだめ猫もお兄ちゃん懐疑的だ。
日本語すらままならないのに英語をつめこんでどんな意味があるのか?
それでも、仙台市は学力向上のため、幼稚園で英語をやるのがほとんどだそうだ。
まぁ、関連があるかわかんないけど、甥っ子は国語の読解能力があまりよくないらしい。
本を読む前に、英語をやってたからだろうか?
なにより、それの解決策に担任の先生が渡したのが、読解能力を上げるための問題集だったことに、話を聞いて呆れてしまう。
あぁ、教える側ですらそんな考え方か、と。
そりゃあ、大学の文学部がなくなる、なんて悪夢が起きるはずだよ。
英語をやることが悪いわけではない。
ただ、みんな焦りすぎなのだ。
だめ猫は、自分の国と言葉、その文化をないがしろにして欲しくない。
効率や利便性、そんなことばかり追い続ける前に、もっとやることはあるはず。
仔だめ猫には、本をたくさん読んで欲しい。
万が一、大学に行くようなことがあれば、文学、史学、哲学、民俗学。そういう系統に進んで欲しいなぁ。
英語力があっても教養がなければ国際社会ではやっていけない、と仰ったのは、かの本村凌二先生。
先生曰く、グローバルな教養とは、つまり、古典と世界史(日本史含む)、とのこと。
だめ猫もそう思う。
文学と歴史学は必要なんだよ。
まぁ、なんの役にも立たない、と世間には言われるかもしれないけど。
だからこそ、人が人間らしく生きるために必要な学問だと、だめ猫は思うのでし。