和多志は、これまで生きて来た中で、
神様という存在がありませんでした。
神様という存在を思うようになれて、
ともかく、今後の人生において、神様に心を寄せていたい。心の針をいつも天上界の神様へと。
神様を、和多志という存在の中心に据えていたいというような思いでいて、それまでの和多志は長続きがしない質であったので、このブログがその願望を実現する為に役立つとの思いもあり、始め、そしてあまり更新はしていなかったものの、続けています。
神様を信じるようになって、三日坊主だったことが他の事柄でも解消されて来ていますし、比ではないくらい、良いことづくめであります。
さて今回のタイトルの
『信じる者は救われる』という言葉についてですが、
このワードをGoogle検索致したところ、
ズバリこれ!といったような実態はないようでした。
(よくよくは追求していませんが。)
やはり和多志の発信内容は神様中心なので、
救う側としましては、やっぱり神様なのですね。
信じる者が救われたその場面と、
信じない者が救われなかったその場面というものを、
想像して並べてみたところ、
やはり人間は『謙虚』な心持ちをし、
何に対してかと言えば、とりあえず一旦この場では、やはり神仏という存在に対してで、
増してや、謙虚な心どころか、神仏やあの世の存在を否定したり無視していたり。
そんなことでは、救われる機会も救われずに、どんなことになってしまうのか。。。
何か酷いことが身の上にあったとして、
その時に、神様なんていないんだなと、
普段信じていない者に限って?そう思ったりして。
人間は、間違いを起こしてしまいます。
間違うことがない人間は、いないと思います。
それは皆、平等なのだと。
その間違える場面で、救いの手が入るか否か。
その差がある場合があるのだと思います。
その間違いが、必ずしもネガティブなこととも限りません。
しかし、救いが入って良かったと思うことだって、ありますよね?
それでも世の中に、酷いことは起こります。
具体的には、大難を小難にとの、救いが入ったケースと感謝する場面だったりします。
救いが入らなければ、もっと大難だったわけです。
このような正にその時に、
ある人物は、
あぁ、この度このような小難で済んで、本当に有難い。
そんな心になり、
またある別の人物では、
何だよ?もし神様がいたら、こんな目になんて遭ってないだろ?
そんな荒んだ心に。
この後の展開がどうなって行くのか、
想像はつきますよね?
肝心なことは、起きてしまった間違いを、その後どう扱うのかということですよね?
その後を大きく左右することであります。
『信じる者は救われる』
どうでしょうか?
大事な『謙虚である』
そのことと見事に密接している言葉でもありませんか?
皆様は、どうお考えになりますか?
皆様にとって、どのような言葉でしょうか?
信じませんか?
信じますか?
どんな願望を持っているのでしょうか?
その願望にとって、大切なことって、どんなことでしょうか?
謙虚な心のすぐ近くに、
自惚れの心がある場合もありますね。
例えるのなら、
自分は頭がいいと思っている前提(コレって自惚れ?)に、
いやいや自分は馬鹿だからと、自分に思い込ませるような、ブレーキをかけるかのような。
自惚れがあるのかないのか、この際、そんなことは、どっちでもいいではありませんか?
それでもそれが、謙虚な心を持っていることのうちに入ると思います!
信じる者は救われる。
自分とは、救って頂くこともある、そんな不完全な存在。
それでも、
ただ何もせずに信じて待っているだけ、、、なのは、それは違う。
謙虚な心とセットで、精進する心も。
あぁ、やっぱり、信じるっていいな(^^)
謙虚っていいな(^^)
あ、勿論、騙されないような、
警戒心や見極めも必要。
あぁ、、複雑ではあります。
しかし、感じ取ることは出来るハズ。
誠実な心で。自分を信じる心で。
そして力は、ついて来る。
m(_ _)m。