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実のところかれの顔はほとんど覚えていない。
小さな顔に入る切れ長の目。深く入った眉間。耳から頬へかけての隆起。削げたような薄い肉付きの。冷たい体。ケロイドが。今思い出したんだ。体中に走る膏肓。
あのまま心臓を刔られていたらもっとかれを覚えていられたかもしれない。楽園で。かれの、ね。
僕らはそれを常に思い過ごしていたから。時計を意識するのと同じ、忘れている様で、体に染み付いている。そういう習性なんだ。その時が来ればどんな用事も手を離し、いかなくちゃならない。そして
連れて行ってくれる筈だった、かれに見えた入口に連れ添う予定だった、のにね。
届かなかった、あるいは
  そんなのわからなくていい。かれをこれいじょうゆがめたくない
くちにだしてももうどうにもならないんだからね。このはなしは、やめよう。

机の上列ぶ煙草の巻き絵、指輪、輸入物のキャンディ、硝子の破片、カップを埋めるアイボリーの液体はもう煙りを立てていない。陶器は彼の手に近い色をしていた。
 お前は冷たくないからわからない

彼の告白のような独白は、薄れた彼の容姿と、楽園を得られなかったことを述べている。不自然な句読点や起伏の乏しい声色で紡がれる言葉には物事の繋がりが表されておらず、点がちりばめられるだけで線を成していない為、かれと楽園の繋がりが解せなかった。
突き詰めた質問をしようかと思ったがこれは会話ではなく、彼の一方的な考えを割ってまで聞いておきたいこととは何か、と考えると開きかけた口が重くなった。
手持ち無沙汰に指を結ぶ。この、二者の必要性が不明な状態ながら、少しでも彼の意図を解ければ、と思う。
煙草をくわえた。黒い葉の芳しい香が立ち込めて、喉に合わないと感じていた主流煙に慣れてしまったことをぼんやりと弱みだと思った。

「こんなの、本当はどうでもいい。彼は何も好んでなくて、此処にある物だって数日も持っちゃいない。だけど僕はこれくらいしか彼の、彼を覚えてなくて」

「もういいよ」

緩やかに上がる頬は彼の讃える笑みと似ても似つかぬほど強張っている。自覚の有無など関係なしに、これ以上話させてはいけないと感じる位、無理な微笑みは歪んで儚く揺らいでいた。
彼が被っていたい皮は、慎ましく、モラトリアムに縁取られた安穏なのかも知れない。実際には痛々しく、羽根を無くした肩甲骨を両手で抱くことの叶わない無力感を抱えた空の眸に光を取り込みたがっているをそれをいつも歯痒く引き剥がして雨の夜に頬を打ったあの泣き顔を作っても無理矢理にお前は楽園へ行けないと囁いて、自分を守ることも満足に出来ない両手で彼を抱きしめたいと(熱い涙の、濡れた首筋が震えながら名を呼ぶ、しまさん。違うんだろ)

「何言ってもどうせ意味はないんだろ」

かれの名残を捜さなくったって誰と寝ても口を塞いでも彼がかれを忘れる日は来ない。肩の歯型と同じかそれ以上の深さへ入り込んでいるかれを忘れるだけの感情も具象も、この世界にはないのだろうから
膝の上で硬直する手の中を気付かないように頬を包むのをあの目が捉える。何も知らない生まれたての黒い眸に吸い込まれているのが今更どうしようもない気がして笑った。泣きそうなまま笑い返しては貰えなかった。


ソファに埋もれて映画を見た夜勤明けの日曜日が途方も無く掛け離れてた所で瞬いている。フィルムの結末を知っていた彼は残り5分を教えてくれなかった。視界一杯に広がった彼で舌を満たされ吹き飛んでいたシナリオを手繰り寄せてもタイトルが思い出せないまま、もうあの手の映画は見ないと決めた。
バスルームへ引きこもった彼の部屋の中心に居ると、波風を立てない生活に爪を立て我無斜罹に掻き毟りたくなる。それは嫌悪等ではなくて愛しさの余り起こる破壊衝動の類だ。家具から備え付けの窓まで、須らくが慎ましく介在するこの空間を愛している。それより遥かに彼を必要としている。取り替えが利くでしょうと揶揄するでもなく返した冷淡な横顔は切り取ったような三日月より青白く遠かった。
サイズの合わない銀の指輪を重いと言った笑顔が贋物だったとしても、滑り落ちた幸福が且ては存在したのだと(取り替えが利く安い茶番では笑えない)
バスルームの彼が出てくる気配は無い。カップの底に張り付いた泡を舐め、フローリングに転がった。天井が白いだけで冷たさは感じなかった。

もし仮にバスルームが噎せ返る錆の臭いに満たされていても、それはどうしようもなくどうにもならないのだと。かれがこの世界を忌んだように、彼もまたこの世界の住人となるのを望んでいない。人間が周りを固めたところで、彼が尊重するのは多くの知人よりも心筋の半分を刺し貫いたかれ一人の方が、遥かに
何処かへ帰属する事を望まない彼らには、それこそ[楽園]しかない。かれは楽園へ行ったと彼は言う。
露な背中から首だけを巡らしこちらを向いた薄い微笑み。あれが微笑みだったのか今でははっきりしない、彼の常套とする柔らかな表情を一枚の映像として焼き付ける美しさがあった。余さず走る斑の痣が鯉の鱗を思わせる満身創痍の体を被写した青写真のフィルムは皸割れたレンズの傷が署名宜しく入っている。
彼のうつくしい瞬間をかれは知っている。

「今が一番いいと思う。平穏で、幸福で、何時から空いていたのかも分からない慢性の空白が塞がるの、が分かる。あなたの手は大きくて、額を合わせ擦り減る言葉に頼らずとも、生きていける、漠然とそう感じた。打てば響くような互換性が良くてただでさえ盲目な僕には刺激的な   だった。刺激が強すぎた。ベランダから振り向くあなたの眩しさに目をやられた僕は簡単に投げ出して仕舞いたくなる薄弱な意志の持ち主ですから、そうなると既に全うでない。こんなに充たされて相互性の欠落を味わう事なく過ごしているのが酷く不相応且つ滑稽な気がするんです。無いはずのものが突然そこら中へ蔓延していたら戸惑うでしょう。確信していい、一番の恋なのに何処かずれている。欲しかったのはそれなのか、何にせよまともでない僕の願望は達せられても仕方ない。ただ僕はあなたと居られるこの瞬間に終わりたいと、そればかりを願っています。」
願っています。達せられても仕方がない。彼の願望の何処までがまともだったのだろう。
か細い音を上げたアルミサッシと共に雨の匂いが広がった。親と逸れた猫のような目をした彼が磨りガラスにへたり込んでいるのが見えた。白い肩を右手へ預け、その傷で彼は死ぬのだろうと思った。朝日に憂鬱が照らされる。編み目から零れた光りの粒が無くした穴を埋め、一肌の温もりで浸透するのを、一息に心地良いとは言えない葛藤、消毒液のように沁る痺れた感覚。
それは0330こんな日なのではないか。
瞼の奥で多くの光りが弾ける。応答しない彼の唇に触れた。見た目宜しく冷たかった。
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