自分への憎しみや怒りを燃やしてみると、言いたいことは色々あるね。
なんで「やりたい」って言ってるのにやってくれないの。
ずっと「したい」って思ってるのにどうして叶えてくれないの。
ごちゃごちゃの部屋が「嫌だ」って言ってるのに片付けてくれない。
もっと朝早くに家を出て欲しいのに遅い。
「変わりたい」って何度も泣いたのに変わってくれない。
「する」って言ったのにしない。嘘つきで“私”と他人の信用を落とす。
“私”のことなんてどうでもいいんでしょ。
スマホ弄り続けて現実逃避して、“私”の心と目を悪くする。
“私”は悲しい。
子供の頃から辛い思いをしたよ。そりゃ楽しいこともあったけど、君(私)が見ないふりをして無視してきた“私”がいるよ。ずっといるよ。
風呂に入り歯を磨き、日々汚れていく“私”を洗って癒してよ。肌に何かできるし、虫歯もできるし。
“私”の「死にたい」をどんな思いで聞いてるの?
時間は有限なのに。
ムカつく。
みたいにな。
自分への憎しみをエネルギーに、兄から譲り受けた車に兄の物たくさん残ってたの片付けたし(ずっと気になってた)、出かける日の優先順位間違えなかったし、あとなんかしたし(忘れた)、自分への憎しみは割といい感じに作用しています。
これまでに「できなかった・やらなかった自分を責めても良くはならない(=責めても落ち込むだけで意味がない)」のを自覚し自分への慈愛(?)も身につけたのと、この憎しみは意外と矛盾しないんすよ。
憎しみ・怒りを持つことと、責めて攻撃することは一緒ではないんですよね。
感情は何を持ってもいいんすよ。
自分への憎しみは別に私を責めてはいない。ただ“私”が憎いと思ってるだけなんです。
でもつまり感情・思考≠行動なわけで、どんなに素晴らしい感情や思考があっても、行動には繋がらないわけです。
行動しなきゃ、その感情や思考は他者には見えないし、自分もその形や成果を得られないわけです。尊い感情・思考が在るだけでも素晴らしいには素晴らしい。それだけでもいい。いいけど、そう、それだけじゃ物足りない。説得力、欲しいじゃん?
行動したいわけですよ。
感情や思考は行動に繋がらないからすぐ行動できるわけではないけど。
……ちょっと待って、何を言いたいのか分からんくなった。
感情や思考が行動に繋がることはあるし…(例:怒って不機嫌になる、落ち込んで泣く等)
……怒ってもさ、対象にその怒りをぶつけない選択をするじゃん?
売れっ子漫画家になりたいとか思ってもさ、なるための努力はしなかったりするじゃん?
そういう行動に繋がらない感情や思考はあるじゃん?
つまりさ、どんな感情や思考を持っていても、自動的にそれが行動となることは少ないから、自分が選択して行動しなきゃダメだなって思った話だわ。
感情や思考が理想になっても、理想を叶えるのは行動なんだわ。
理想という偉大な自分を膨らめても、その先が不幸な気持ちに繋がるなら良くないわ。
うんうん。つまり、私のこのブログに思考を書きよりよい人生を目指す精神活動には行動が必要なんだわ。
あれ!?結局いつもの「行動してくれ自分!」って話じゃねぇか!?
まあそういうことですよ。行動、大事。
まだなんか書きたいから続くんじゃよ。
■占いを指針に
以前した星占いでね、私は「エネルギー出し切ってやるぜー!」という傾向ある天体配置らしくてね。そういう出し過ぎを抑えてくことが大事になりそうなんだって。
ちょっとそれを指針にしようかなって最近思って、今から具体的にどうするか考える。
前から私には「完璧主義」があると思ってて(所謂「できない完璧主義」です。たっかい位置目指しちゃうから「無理…」ってなってやらない奴)、周りの人を「いい加減」と思ったり、周りから「真面目」「細かすぎ、そんなの別にいいよ」とかって言われたりする。
小学生のとき掃除を終了時間までちゃんとやらない班員に「これぐらいやれよ」と密かに憤ったり、仕事で「このくらいいいよ」と言われてもいいと思えないから綺麗に仕上がるようにやって仕事遅かったり…(仕事遅いのつらい…泣。それはまた今度ブログの話題にしようかしら)。
求めるレベルが高いんですね。
でも技術が伴ってないからこれがつらいつらい。
結局できない・やらないに繋がる苦しさよ。
手を抜くことを、ハードルを下げることを覚えなきゃいけない。
それが結構前から分かっててもなーんか難しくて。できてなくて。
どうしたらいいか改めて今日考えてみたらさ、
「それをすることで得られる成果はその使ったエネルギーに見合うか」
を考えたらいいんじゃないかって。
等価交換で考える。
「準備の労力・時間」「実際かかる労力・時間」「それを行う際に起こる精神の動き(できなくてつらい、見ないふりをして後回しにしていつも気になっている、とかそういうの)」とその成果で得られるものの釣り合いが取れてるか。
それをやろうとしてみたら、私は成果より過程や結果で起こりうる「つらいこと」に目が行きがちだったかもしれないことに気づいた。
「うまくいかないかもしれない」「頑張っても大したことない結果しか得られないかもしれない」「人に馬鹿にされるかもしれない」などと考えて。
例えば部屋掃除。
掃除しすごく綺麗で理想的な部屋にしたとして、それは気持ちいいだろうし、もしかしたら何か大きないい変化をもたらすかもしれない。
けど部屋って生活していると少なからず散らかるわけです。
結局面倒くさいことをまたしなくちゃいけなくなる。もしかしたら部屋掃除して捨てたものを「捨てなきゃ良かった」とか後悔するかもしれない。そういう「つらいこと」があるかもしれない。
そして私は判断する。大変な思いをしてまで掃除したくないなと。面倒くさいと。
それをこう変える。
どういう労力をかければ見合った成果が得られるかを。どういう成果を求めていて、それに合った労力がどのくらいかを。
求める成果を先に決めてから考えましょう。
「床が何もないと綺麗で気持ちいいだろうな」→床に物が置けない。置かないようにするには収納スペースを作らないといけない。大変。大変な割には多分またすぐ掃除しなきゃいけなくなりそう。面倒くさい。
「動線だけでも確保したい。ストレスが減る」→動線以外の部分はどうなっていようが問題ない。動線にある物をそこに動かしてしまえばいいだけ。楽。できそう。そこだけキープなら足で蹴散らせばオッケー。動線ゲットによるストレス低減できる。
労力と成果が見合っている、もしくは成果のほうが高い。
というわけで私は後者をやればいい。
前者をやろうとするなら、成果で得られるものをすこぶる上乗せするか、労力をいかに減らしに減らすか。
今はちょっと思いつかないので、それはできない。できないこととしてさっさと諦めて捨てます。できそうなときにやればいい。
そういうやり方で手を抜くことやハードルを下げることを覚えていってみようかなと思います。
同時に行動力も得られるはず。
よーし、これで行ってみよう!
(2020年 46記事目)