ふと悲しくなってくることがよくあるんだけど(よくあると思ってるだけの可能性もあることはとりあえず置いておく)、それ具体的にどんなときかなーと思い、悲しくなったときに意識してメモしてみました。
最近では、SNSで反応がほとんどないってことが悲しくなったきっかけかなと。まあフォローもフォロワーも一桁なので母数を考えれば気にすることじゃないんだろうけど。
そんで気がついたのは、自分って結構自己評価高いよなと。毎回ではないけど、投稿したあとに反応くるかもしれないなムフフとちょっと思っちゃうときがあるんだよ。そしてこない。それで沈んじゃうのかなーって。
あと人の投稿ずらーっと見ていて、「この人すごいなー、自分は何やってんだろうなー」って思いながらずっと見ていたとき悲しくなっていった。
この二つから考えられるのは、自分と他人のギャップに悲しんでいるだろうこと。
外にほとんど出ない&社会から外れているのでSNSで社会に触れたときに自分の駄目さを思い切り感じてしまうんじゃないのかな。
自己評価が高く自分に期待していて、他人にそれを認めてもらえるんじゃないかと期待し、でも期待通りにいかないから意気消沈。という流れじゃないか?
そうしたら期待しなきゃ楽になるんじゃないかなと考えた。
思えば何にしても期待してその通りになったことや、期待を超えてきたことってないなーって。
自分が良い方向に変化することを期待して、何か商品を買って扱いきれず結局変わらず自分にも商品にも嫌な気持ちを少し募らせる。
ある友達の誕生日におたおめメッセージしたし微々たるプレゼントもして自分の誕生日も祝ってもらえるかなとちょっと期待して、祝ってもらえず微妙な気持ちになり。あと自分が見返り求めて祝ってると思えてきて心が黒くなっていく。
評判の映画に期待し、観てみたが期待ほどの面白さは感じず言うほどかな…と小さな反発心が芽生えたり。
期待して良かったことなんてないかも。
あー、でも、期待しているときは楽しみがあるよな。そこは良いところだ。映画とか評判を知らなければそもそも観なかった作品を楽しみにできて実際観たっていうのは良いことだわ、うん。
だから基本的には期待をせず、自分のその時その時の今一瞬を楽しませることを考えたらいいんじゃないかな。
期待すると期待通りでも、そのもの自体の喜びが体感的に少なくなってしまうような気がするんだよな。なんというか、予想通りでただの事実として収まってしまう部分が出てきてしまうような。
期待通りにならなかったときはがっかりしてしまうし。
「こうやって変化を望んで考えて書いて、意識を変えていけば自分も変わっていけるだろう」って期待もやめようと思いました。変化しなかったときにその期待がストレスになりそう。
自分がやりたいことは、「やれたら人生が良くなっていけるだろう」からやるんじゃなくて、「やれたらその時嬉しい」からやる、でいきたいな。
とは言っても期待はしてしまうだろうし、期待があるから欲求できるという面もあるだろうし、期待したときにはその通りになったら「めっちゃラッキー!」って思って、外れてしまったら「よし、次も自分の楽しみのためにやるぞー!」って思おう。
あ、期待も楽しみのためにしてると思えば良いかも。期待と結果は分けて考えて味わって、期待の旨味だけいただく。
とりあえず未来への積極的な期待はやめて、今を楽しんでいこう。
あとそれと、できない自分やだらける自分についてよく考えてしまうけど、考えてしまったらそれ以上にできた自分や行動した自分に注目して浸ろう。その方が楽しそう。
生きていけばまた考えが変わるかもしれないけど、とりあえず今はこう考えた。
期待するのをやめようとは言ったけど、多分まだ定まりきってなくて、まとまりがない文章になってしまった気がする。
(2017年 58記事目)